ep9 リセル=リセル
落ちている。
底のない暗闇へ、限りなく、静かに。
体は動かず、声も出ない。
ただ、黒い雨と“名の残響”が混じった空気の中を、識は沈んでいく。
導標は光を失いかけている。
視界は薄れ、意識も揺らいでいた。
――その時。
遠くで、誰かが歌っていた。
柔らかく、泣いているような子守歌。
言葉が混じらず、旋律だけが胸を締めつけるような、そんな歌。
(……リス……?)
識がその名を思い浮かべた瞬間、周囲の暗闇がぱあっと割れた。
光が流れ込み、世界がゆっくり形をつくる。
そこは――白い部屋だった。
何もない。
壁も床も、空もない。
ただ“白”のみでできた静止した空間。
そして。
その中央に、少女が座っていた。
黒い髪。
白い服。
膝を抱え、うずくまり、震えている。
「……リス?」
識が声をかけると、少女はゆっくり顔を上げた。
その目は、泣き腫らして真っ赤だった。
「……どうして、来たの……?」
声が震えている。
怯えている。
拒むようで、でも救いを求めているようでもあった。
識はそっと歩み寄った。
「迎えに来たんだよ。君を、連れ戻すために。」
少女は小さく頭を振る。
「だめ……私はもう“名”が壊れたの。
触れたら、あなたも壊れてしまう……」
その言葉と同時に、白い部屋の壁に黒い亀裂が走る。
嫌な音を立て、亀裂から黒い雨が滲み出した。
導標が警告を発する。
> 《危険:対象“リセル”の真名領域が崩壊中。
記憶干渉は残り4分26秒を超えると危険域へ到達します。》
(……時間がねえ。)
識は膝を折り、少女と同じ目線にしゃがむ。
「リス。いや……“リセル”。
本当の君の名前、俺はもう知ってる。」
その名を口にすると、少女の体がビクリと震えた。
そして次の瞬間、彼女は識にしがみついた。
「言わないで!!」
叫ぶ声は、心臓を刺すほど痛々しかった。
「その名前を呼ばれると……また世界が私を忘れちゃう……
“リス”って名乗ったのはね、忘れられたくなかっただけなの……!」
識はそっと少女の背に手をまわす。
「……だから、君は“自分の名”を隠したのか。」
少女は震えながら頷いた。
「うん……。
本当の名前を呼ばれると、私が“誰でもなくなる”から。
名前ってね、誰かに呼んでもらって初めて意味になるの。
でも“リセル”って名前は誰からも呼んでもらえなかった……。
だから、私の中でだけ生きてた……」
少女の涙が識の胸に落ちる。
白い部屋の天井が、ゆっくり黒に染まっていく。
時間がない。
識は少女をそっと離し、目を覗き込む。
「リセル。
君は誰にも呼ばれなかったんじゃない。
“呼ばれなかったようにされた”んだ。」
少女は目を丸くする。
識は言葉を続けた。
「影の記録者は言ってた。“不都合な名”だって。
君の真名は、世界の均衡を揺らすほどの力を
持ってた。
だから世界に“消された”。
でも――」
識は導標を掲げる。
「俺はもう、忘れられない。」
少女の胸元が光り始める。
小さな文字が浮かび上がる。
> 《リセル=リセル》
真名の中枢だ。
少女は震える声で言う。
「その名を呼んだら……世界が壊れちゃうんだよ……!」
識は静かに首を振る。
「壊すんじゃない。
“繋ぎ直す”んだ。」
導標が光を放つ。
白い部屋がゆっくり色づきはじめる。
黒い亀裂がひび割れ、音を立てて砕ける。
少女は怯えた目で識を見つめる。
「……できるの?そんなこと……」
「できるかどうかじゃない。
俺は――やる。」
導標が輝きを増し、識は少女の手を取る。
「リセル。」
名を呼んだ。
少女が息を呑む。
白い世界が一瞬、虹色に揺れる。
「君の名前は、消えたままじゃない。
俺が思い出した。
君が“ここにいる”ってことを。」
その瞬間、少女の胸の真名が光り輝き、
白い空間の天井に巨大な円環が生まれた。
> 《真名接続準備完了。
対象“リセル”の記録が再構成されます。》
少女は涙を流しながら笑った。
「……怖かったの。
ずっと、ずっと……」
識は彼女の手を強く握り返した。
「一緒に戻ろう。
世界に、君の“本当の名”を。」
しかし。
その時――円環が黒く濁り、空間に裂け目が走った。
暗闇の向こうから、あの声が響く。
> 「――名を結ぶな。」
影の記録者が手を伸ばす。
黒い腕が世界を掴み、引き裂こうとする。
識とリセルはその場に踏みとどまった。
次の瞬間――
円環の中心から、もうひとつの影が姿を現した。
白い髪。
柔らかな瞳。
――綾。
「識。
“真名”を結ぶ本当の代償、まだ言ってなかった
わね。」
識の背に冷たいものが走る。
「師匠……代償って、まさか――」
綾は静かに微笑んだ。
「名を結ぶ者はね。
“自分の名”をひとつ失うの。」
世界が揺れた。




