ep8 黒雨の記憶
――黒い雨が降っていた。
識が意識を取り戻した場所は、先ほどまでいた記憶の村ではなかった。
赤黒い空、瓦礫の山、そして地面を覆う黒い水。
世界そのものが“呼吸”をやめたような沈黙が満ちている。
「……ここは、どこだ。」
導標が微かに震え、虚空に光の文様を浮かべた。
> 《警告:この領域は“記録外”。世界にも、記憶にも属しません。》
「記録外……?」
識は周囲を見渡した。
視界の端で、黒い水の中から泡が浮かび上がる。
次の瞬間、水面が裂け――白い手が伸びた。
「――ッ!」
飛び退いた識の足元を、黒水が噛むように絡みつく。
まとわりつく冷たさは、皮膚ではなく“魂”を侵す感覚だった。
> 「逃げられない。」
声が響いた。
瓦礫の上、黒水を纏った影が立っていた。
背丈は人と同じ。だが、顔はなく、輪郭が揺れている。
“ナニカ”になりかけた存在――いや、違う。
識の背筋が凍る。
「……お前、さっきの“影の記録者”とは別の……?」
影は首を傾げ、人の真似をするように指を胸に向ける。
> 「ワタシは“はじまり”。」
「はじまり……?」
影が一歩進む。
そのたびに地鳴りが起こり、黒水が泡を吹く。
> 「“忘れられたモノ”が生まれたとき、最初に捨てられる記録。それがワタシ。」
識の胸が締めつけられた。
“真名”――リセル。
その名を知ったことで、世界の奥深くに隠された“禁忌の層”が露出したのだ。
導標が警告音を発する。
> 《危険:対象は“統合前記録”。
世界で最初に忘れられる“名の残響”に分類されます。》
「名の……残響……?」
影は手を伸ばす。
指先から黒水が滴り、地面を焼いた。
> 「名は、最初に叫ばれる。そして忘れられる。
その“忘れられた瞬間”だけが、ワタシたちの記録。」
識は導標を構える。
「……リセルの“名”を奪ったのも、お前たちか。」
影はゆらりと揺れ、まるで笑っているように見えた。
> 「奪ったのではない。世界が“そうさせた”。彼女の名は――世界にとって“不都合”だった。」
「不都合……?」
影が両手を広げた。
黒水が波のように盛り上がり、識の周囲を囲む。
> 「“リセル”は世界の根幹に触れた名。
再び思い出されれば、忘却の均衡は
崩壊する。」
識は叫ぶ。
「だからって、忘れさせていいわけがないだろ!」
導標が強く輝く。
光が黒水を押し返し、波紋のように広がる。
> 《術式展開:記録干渉・第二段階》
光が識の周囲を旋回し、記憶の断片を集めて形を作り始める。
幼いリスの笑顔、壊れた木の人形、村の夕焼け――
それは彼女の“名”を確かに示す記憶だ。
影が低く唸る。
> 「名を結ぼうとするのか。
この世界が拒む“真名”を。」
識は一歩踏み出し、光を影へ向けた。
「……リセルは、自分で“リス”と名乗った。それを消す権利は誰にもない。」
影が黒水を掲げ、槍のように伸ばす。
> 「ならば証明しろ。
その名が“存在する価値”を。」
黒い槍が識に向かって飛ぶ。
識は導標を構え、光の壁を展開した。
衝突。
世界が震え、黒水が跳ね上がり、空に裂け目が走った。
「ぐっ……!」
腕が痺れ、膝が折れる。
だが導標は折れない。
光はまだ残っている。
影が続けざまに槍を生成しながら呟く。
> 「名を結ぶ者――識。
お前の師、綾も同じことを言った。」
識の心臓が跳ねる。
「……師匠も、この“記録外”で戦ったのか?」
影は答えず、ただ腕を広げた。
> 「世界は繰り返す。
名を結ぶ者が、世界を乱す。
だから――忘れられねばならない。」
黒水が渦を巻き、巨大な影の手となって識を掴みに来る。
「くそっ……!」
識は導標を逆手に持ち、心の奥に呼びかけた。
――リセル。
君の名を、思い出すために。
光が爆ぜ――
識の身体は黒水の渦に飲み込まれた。
最後に聞こえたのは、微かな少女の声。
> 「識……来ないで。
私の“名”は、あなたを傷つける。」
その言葉を残して、世界は完全に闇へと沈んだ。




