ep7 記憶の門
導標の光が強まる。
世界が波のように歪み、足元の石畳が崩れ落ちた。
識は目を閉じた。
次に開いた時、そこに広がっていたのは――空が逆さまの世界。
大地が空を映し、空が黒く染まっている。
「……ここが、リスの記憶の中……?」
空気は甘く、どこか懐かしい香りがした。
しかし同時に、皮膚を刺すような“拒絶”の気配も漂っていた。
導標が震える。
> 《注意:対象記憶領域、著しい断裂を確認。
内部構造は通常記録の3.8倍に拡張されています。》
「つまり、それだけ“忘れたくない”ってことか。」
識は歩き出した。
足元の地面は鏡のようで、一歩進むたびに波紋が広がる。
やがて、彼は見つけた。
――白い扉。
扉には、リスのものと思しき筆跡でこう刻まれていた。
> 『ここには、もう誰もいない』
「……いや、いるだろ。」
識はそっと扉に手をかけた。
瞬間、閃光。
世界が裏返り、風景が一変する。
そこは、小さな村だった。
石造りの家々、花で飾られた窓辺、
そして――夕焼けに照らされた少女の背中。
黒髪を結い、白い服を着た小さなリス。
その姿はまだ幼く、笑っていた。
「おかえり、お兄ちゃん!」
声を聞いた瞬間、識の胸が強く脈打った。
導標が淡く光る。
> 《対象“リス”の第一記録を検出》
(これが、彼女の最初の記憶……)
リスは花畑の中を駆け回りながら、何かを抱えている。
よく見ると、それは壊れかけた木の人形だった。
「リス、それ……」
識が言いかけた時、
リスがふと立ち止まり、空を見上げた。
「ねえ、“名前”って、どうやって決まるの?」
幼い声。
識は息を呑む。
「“名前”……?」
「うん。お兄ちゃんも、お母さんも、みんな名前があるでしょ。
でも、私の名前はね――だれもつけてくれなかったの。」
空気が震えた。
世界が微かに揺らぐ。
導標が警告を発する。
> 《記録不整合を検出。記憶の改竄が進行中。》
リスは小さく笑った。
「だからね、私、自分でつけたの。“リス”って。」
その瞬間、識の視界が白く塗りつぶされた。
痛みが走る。
胸の奥で、何かが軋む。
「――これが、彼女の“第一の名”……!」
だがその直後、空から黒い雨が降り始めた。
花畑が腐り、村が崩れていく。
リスの姿も、ゆっくりと闇に溶けていく。
「待て、リス!」
識は走り出す。
しかし足が重く、空気が粘りつくようだった。
少女の声が遠ざかる。
> 「もう、遅いの。
“リス”って名前は、世界に拒まれたから――」
「そんなはず……!」
導標を構え、封印式を展開する。
> 《術式:記録再結合・第壱陣》
光が奔流となり、崩壊する村を包む。
だが黒い影がそれを喰らうように覆い尽くした。
影の中心から、低い声が響く。
> 「“名”を繋ごうとする者――識。」
識は息を呑んだ。
闇の中から、仮面の男――“影の記録者”が現れる。
「ここはお前の入っていい場所ではない。」
「……リスを、放せ!」
「彼女の“名”は、この世界の禁忌だ。再び結びつけば、忘却の法則そのものが崩れる。」
「だったら、そんな世界を壊してでも――」
導標が震える。
光が黒を押し返す。
影の記録者の仮面にひびが入った。
「……やはり、お前は綾の弟子だな。」
「師匠のことを知ってるなら教えろ。なぜ“名”を消す!」
男は静かに答えた。
「“名”は力だ。多くを繋げすぎれば、世界の形そのものが崩壊する。我々はそれを防ぐために、忘却を選ぶ。」
識の声が震える。
「それでも、人を“消す”理由にはならない!」
男の影が広がる。
> 「ならば見せてやろう。“忘却”の意味を。」
次の瞬間、識の視界が再び闇に包まれた。
村も、少女も、全てが崩壊し――
ただ一つ、声だけが残る。
> 「識……思い出して。私が、あなたを呼んだ“最初の名前”を。」
――――――――
識は目を開ける。
目の前には、光の欠片が漂っていた。
手を伸ばすと、その中に小さな文字が浮かぶ。
> 《リス=リセル》
識の心臓が激しく脈打つ。
「これが……彼女の、本当の名……!」




