ep6 忘却の祈り
――暗い。
光も、音も、存在の輪郭さえない。
識は闇の中で、漂っていた。
身体の感覚が曖昧で、自分が生きているのかも分からない。
「……ここは……どこだ。」
声を発しても、音は返らない。
ただ、黒い空間が広がるばかり。
思考の端に、誰かの顔が浮かぶ。
リス――
あの少女の名を呼ぼうとした瞬間、
強烈な痛みが頭を貫いた。
記憶が、欠けていく。
名の音、声の温度、笑った表情――
ひとつ、またひとつと崩れていく。
「やめろ……奪うな……!」
その叫びに応えるように、どこからか微かな声がした。
> 「――識、まだ終わっていないわ。」
耳に馴染んだ、懐かしい声。
その声を、識は一生忘れられないはずだった。
けれど、今は名前が出てこない。
「誰だ……お前は。」
> 「忘れたのね。……まあ、そういう場所だから。」
光が落ちる。
闇の裂け目から、ひとりの女が歩み出てきた。
淡い銀髪、静かな瞳。
その姿を見た瞬間、識の心が震えた。
「……綾、さん……?」
彼女は微笑んだ。
「ようやく、思い出したわね。」
――――――――
識は立ち上がろうとしたが、足は霧のように沈む。
「ここは、どこなんですか。」
「記憶の境界。あなたが“ナニカ”の手に触れ、世界との繋がりを失った場所。」
「……じゃあ俺は、死んだのか。」
「死んではいない。でも、生きているとも言えないわ。
あなたは今、“忘れられつつある”状態。」
識は胸に手を当てた。
心臓の鼓動が、微かにしか聞こえない。
綾が静かに続ける。
「リスの名前を呼んだとき、あなたの記憶は彼女と結びついた。
その瞬間、世界は“二つの忘却”を同時に起動させたの。」
「二つの……?」
「彼女を忘れる世界と、あなたを忘れる世界。」
識は拳を握った。
「……それでも、俺は彼女を助けたい。
リスが“ナニカ”になるのを止めなきゃ。」
綾は少しだけ悲しげに笑った。
「あなたは本当に、私に似ているわ。」
「……師匠、あなたは本当に“ナニカ”になったんですか。」
沈黙。
やがて綾は、静かに頷いた。
「ええ。でも完全ではない。私は“半ば”の存在。
忘却と記憶の狭間に、取り残された者。」
「……そんなことが……」
「識。あなたがいま見ている私は、あなたの記憶が形作った幻でもある。
でも、伝えたいことがあるの。」
綾の瞳が真っ直ぐ識を射抜く。
> 「“名”は存在の核。それを取り戻すには、相手の“記憶”の奥に潜り、その人が“自分を名乗った瞬間”を見つけ出さなければならない。」
「……記憶の奥に?」
「そう。あなたがリスを救いたいなら、彼女の心の深層――“第一記録”に触れるしかない。」
識は息を呑んだ。
危険だ。
他者の記憶への干渉は、精神を壊す。
それでも――もう迷いはなかった。
「教えてください。どうすれば彼女の記憶に入れる?」
綾はゆっくりと手を差し出した。
「あなたが本当に“名”を呼びたいと願うなら、導標はそれに応える。」
識は頷き、その手を取った。
冷たく、でも確かな温もり。
「識、覚えておいて。」
「何を?」
「忘れられることは、終わりじゃない。
――誰かが“思い出そうとする限り”、存在は消えない。」
綾の声が、遠ざかっていく。
光が弾け、識の身体が引き戻される。
眩い白に包まれる中で、彼は最後に綾の笑顔を見た。
それはどこか、祈るような微笑だった。
――――――――
識が目を開けたとき、そこは再び〈ロダン〉の廃墟だった。
導標が胸の前で淡く光っている。
その光の中に、微かな声が響いた。
> 《記憶干渉術・第一段階 準備完了》
「リス……必ず、君を思い出させる。」
遠く、霧の奥で黒い影が蠢いた。
影の記録者たちが、再び動き出している。
識は導標を握りしめ、記憶の門へと足を踏み入れた。




