ep5 影の記録者
夜の塔は静かだった。
識は机に突っ伏したまま、導標の光を見つめていた。
黒ずみは少しずつ広がっている。
世界が、“少女の名”を完全に忘れようとしている。
「……時間がない。」
彼は立ち上がり、資料室へと向かった。
目当ては、古代発見者の記録だ。
“名”を失った存在についての前例が、もしあるのなら。
重い扉を押し開けた瞬間、空気が変わった。
微かな鉄の匂い。
人の気配。
「……誰か、いるのか?」
返事はない。
識が一歩足を踏み入れたその時、
闇の奥から、紙の束が宙を舞った。
次の瞬間、ナイフの刃が頬をかすめた。
反射的に導標を構え、光を放つ。
照らされた影の中に、人影が立っていた。
黒い外套。顔を隠す仮面。
左腕には、古い文字が刻まれた腕輪。
識が低く問う。
「……お前、誰だ。」
「――“影の記録者”。」
その声は、金属を擦るように冷たかった。
「忘却の均衡を守る者。お前たち発見者こそ、世界を歪める異端だ。」
「均衡だと? “名”を奪い、人を消すことがか?」
「それは“救い”だ。」
仮面の奥で、男の声が微かに震えた。
「人は忘れることで前へ進む。思い出すことは、苦しみを呼ぶだけだ。」
識の胸に怒りが走った。
「お前たちが、あの少女の名前を――」
「そう。“彼女”は禁忌だった。名を持つことで、この世界の記録に“矛盾”が生まれた。」
男が手をかざすと、部屋の空気が歪んだ。
棚から書物が次々と崩れ落ち、黒い靄が溢れ出す。
「忘却霊……!」
“モノ”から派生した、記憶を喰らう霊的残滓。
識は導標を構え、術式を展開する。
「――封式・零陣!」
光の陣が床に走り、霊たちを焼き払う。
煙が立ち込める中、仮面の男が低く笑った。
「未熟だな、識。お前の“師”も、そうやって消えた。」
その言葉に、識の呼吸が止まる。
「……今、なんて言った?」
「綾――彼女は、発見者でありながら、“モノ”を結びつけすぎた。
結果、彼女自身が世界に拒まれ、“ナニカ”に堕ちた。」
識の手が震える。
「嘘だ……綾さんが……?」
「いずれ分かるさ。お前も同じ運命を辿る。」
男はそう言い残し、影に溶けるように姿を消した。
残されたのは、黒く焼け焦げた紙片ひとつ。
拾い上げると、そこにはこう記されていた。
> 《失われた名――リス》
識はその名を見つめ、凍りついた。
“少女の名”――消されたはずの祈りが、そこにあった。
――――――――
塔を出た識は、夜風を切って走った。
霧の向こう、廃図書区〈ロダン〉へ。
あの少女が、まだそこにいるかもしれない。
「リス……リス!」
名前を呼ぶ。
声が霧に吸い込まれていく。
ふと、遠くで微かな光が揺れた。
瓦礫の影に、小さな人影。
白い服、黒い髪――少女だ。
彼女はゆっくりと振り返る。
その唇が、かすかに動いた。
「――その名前、どうして知ってるの?」
識の導標が激しく反応する。
光が暴発し、周囲の霧が裂けた。
少女の瞳の奥で、黒い波がうごめく。
> 《警告。対象“リス”、変化率67%。“ナニカ”への転化進行中。》
「くそっ……早すぎる!」
リスの身体が崩れ、黒い霧が噴き出す。
彼女の声が悲鳴に変わる。
> 「いやだ……わたし、消えたくない……!」
識は叫んだ。
「絶対に、忘れさせない!」
導標が光を放ち、封印陣が展開される。
しかし、その瞬間――黒い腕が識の胸を貫いた。
痛みよりも、冷たさ。
世界が遠のく。
リスの瞳が、涙で揺れていた。
> 「ごめんね、識。わたし、あなたのこと――もう、思い出せない。」
意識が、暗闇に沈んでいく。




