ep4 虚ろなる名
図書区〈ロダン〉を出たあとも、識の頭からあの少女の瞳が離れなかった。
名前を持たない存在。
世界のどこにも、その“証”がない少女。
導標の光はまだ微かに震えている。
完全な“モノ”としての変化は進行中――残された時間は、あと二十五日。
「……まず、痕跡を探す。」
識は呟き、塔の記録局へ向かった。
――――――――
〈記憶塔〉の地下には、“失われた記録”を保管する禁書区がある。
発見者たちは、世界の記録を確認する唯一の権限を持っていた。
扉に触れると、冷たい金属の感触が識の指先を刺した。
「発見者・識。対象確認、入室を許可。」
自動音声が響き、扉が開く。
数え切れぬほどの書架が並び、その一本一本が淡い光を放っていた。
識は手元の導標を掲げ、少女の残響を追う。
針が示したのは、一冊の古びた日誌。
『第十八記録 学舎区の学生記録』
ページをめくる。
名簿がびっしりと並んでいる。
だが――ひとつだけ、黒く塗りつぶされた箇所があった。
「……ここだ。」
識は指先でその部分をなぞる。
触れた瞬間、冷たい波が走った。
視界が暗転し、脳裏に声が流れ込む。
> 「あなた、知ってる? “名前”って、世界に刻まれた祈りなんだよ。」
少女の声だった。
柔らかく、それでいて底知れぬ虚無を孕んだ声。
> 「でも、その祈りが消えたとき、わたしは何になるんだろう……。」
意識が戻ったとき、識は膝をついていた。
記録の一部が、完全に“空白”に書き換えられている。
誰かが、意図的に彼女の存在を消したのだ。
――――――――
塔の上層に戻ると、レオンが待っていた。
壁にもたれ、淡い笑みを浮かべている。
「やあ、識。記録を漁っていたそうだな。」
「監視か。仕事熱心だな。」
「忠告しておく。名前を消された人間に深入りするな。
“名”は、世界そのものの鍵だ。扱いを誤れば――お前自身が“忘れられる”。」
「……それでも、放っておけない。」
識の声は低く、静かだった。
「彼女が“モノ”になる前に、結びつけなきゃいけない。
誰も、二度と彼女を思い出せなくなる前に。」
レオンはため息をついた。
「お前、師匠の綾に似てきたな。」
「似てる?」
「ああ。あの人も、“モノ”に心を向けすぎて、境界を失った。」
その言葉に識の胸がざらりと波立つ。
綾の過去――それは、発見者の中でも禁忌とされていた。
だが今、レオンの口調は確信めいている。
「まさか……綾さんも、“ナニカ”を?」
レオンは答えなかった。
ただ、遠くの霧を見つめながら言った。
「発見者の中には、“忘れられること”を願った者もいる。」
――――――――
その夜、識は夢を見た。
灰色の海の上に、少女が立っている。
風が彼女の髪を揺らし、遠くで鐘の音が響く。
> 「わたしの名前を、探してくれる?」
「……ああ、約束する。」
> 「うれしい。でもね、識――」
少女の瞳が、涙で濡れた。
> 「あなたも、いつか“忘れられる”よ。」
風が吹き抜け、世界が崩れた。
目を覚ますと、導標が微かに黒ずんでいた。
“忘却の兆候”。
識の記憶のどこかから、何かが抜け落ちていく感覚がした。
名前の、音の、意味の断片。
少女の顔が、ぼやけ始めている。
「まだ……早い……」
彼は震える手で導標を握り締めた。
世界が彼女を忘れようとしている――
その速度が、予想以上に速い。
あと二十四日。
このままでは、“ナニカ”は再び生まれてしまう。




