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忘却の輪郭  作者: 雨香
第2章

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ep32 名を呼ぶもの

 影が繋へ手を伸ばした瞬間、風が逆巻くようにその腕をはじいた。

 リセルの杖に宿った光が、夜の闇を裂いて飛んだのだ。


 「……これ以上、近づかないで!」


 彼女の声には、恐怖と、それを押しつぶす必死の決意が混ざっていた。

 黒い人影は吹き飛ばされはしなかったものの、足を止め、ゆっくりと顔――形のない黒の表面――をリセルの方へ向けた。


 「リセル、迫りすぎるな!」

 綾が叫ぶ。


 しかしリセルは一瞬も退かない。

 彼女の足元に青い光が流れ、縫の光と微かに呼応する。


 縫は繋の腕の中で苦しそうに身じろぎした。


 「ケイ……触れちゃだめ……だよ……あれに触れたら……」


 「縫、喋るな!」


 縫は首を弱く振る。

 肩口に浮かぶ青紋が、脈打つように明滅していた。


 「……あれは“思い出すため”に来てる……ケイの……忘れてる何か……」


 その言葉を言い終える前に、影が再び動き出した。

 今度は足音もなく、空気が歪むように近づいてくる。


 繋は縫を地面に優しく横たえ、影を睨んだ。


 「俺の……忘れた何か? ふざけるな。俺はお前なんて知らない!」


 そう叫んだ瞬間、影はふらつくように首を傾けた。

 まるで“理解できない”と言っているように。


 その動きに、繋の胸にまた痛みが走る。

 幻のようなイメージが脳裏をかすめた。


 (……青い光……細い手……誰かが俺の名前を呼んで……)


 そこまで映りかけた景色は、吸い込まれるように消えた。


 影が声を絞り出す。


 「……ケ……イ……わす……れ……?」


 その声はひどく軋んでいて、しかしどこかで聞いたことがあるような――

 繋は息を呑み、足がすくんだ。


 (これ……本当に俺が知らない“何か”なのか?)


 だが戸惑いが浮かんだ一瞬を、影は見逃さなかった。


 黒い腕が地面に触れ、影が広がるように姿を変える。

 まるで闇そのものが“這い上がってくる”ような動きで、繋へと踏み込んだ。


 リセルが叫ぶ。


 「ケイ、避けて!!」


 繋はぎりぎりで身を投げた。

 影の腕が通過した地面が、一瞬だけ黒く染まる。


 「まずい……あれ、本当に影じゃない……!」

 綾が息を荒げて呟いた。


 「核がないのに、吸われていく……地面の“記憶”が……」


 リセルも顔色を失っていた。


 「このままじゃ……全部“喰われる”……!」


 影はゆっくりと立ち上がる。

 その胸のあたりがぐずりと揺らぎ、黒い中に――青い線が見えた。


 縫の光と同じ色。

 いや、それとは違う……もっと深く、冷たく、古い青。


 繋の視界が揺れる。

 頭の奥に、さっきの断片が再び浮かんだ。


 (青い線……手首……細い腕……誰かが俺を掴んでる……

  声が、聞こえる……)


 『ケイ――おいて、いかないで……』


 その声が響いた瞬間、繋は息を飲んで膝をついた。

 胸が焼けるように熱くなる。


 縫が倒れたまま呟いた。


 「それ……ケイの記憶だよ……影に、溶かされてた……」


 繋の瞳に迷いが浮かんだ。

 だが影はそんな彼の表情を見て、まるで“安心した”ように近づいてくる。


 その瞬間――


 リセルが叫び声をあげて飛び出した。


 「来ないでッ!!」


 杖から放たれた光が影の胸を貫いた。

 黒が波紋のように揺れ、影はぐらりと後退する。


 「ケイに触れさせない……!」

 リセルの声は震えていた。

 怒りでも、恐怖でもなく――“喪失を恐れる声”。


 その背を見て、繋の胸に別の痛みが走る。


 影はじっとリセルを見つめ、そして……ゆっくりと形を歪めた。

 まるで“顔”を作るように黒が寄り集まり、穴のような目が開いた。


 その“目”は、真っ直ぐ繋だけを見つめている。


 「……わすれ、ないで……ケイ……」


 次の瞬間、影は地面へ沈むように姿を消した。

 風が通り過ぎ、世界が静かになった。


 縫の青光がふっと弱まる。

 繋が肩で息をしながら呟いた。


 「……いったい……あれは……誰なんだ……?」


 リセルは背中を向けたまま、小さく震えていた。

 その手は、杖を握りしめすぎて白くなっている。


 綾は影がいた場所を慎重に調べながら答えた。


 「“本体”はまだ近くにいる。

  あれは“呼びかけ”に過ぎない。封印が完全に壊れれば――もっとはっきりした形になる。」


 繋は息を呑む。


 「俺に……何を思い出させようとしてるんだ?」


 縫が弱く目を開いた。


 「ケイ……それはね……」


 言いかけたところで、風がざわりと揺れた。

 どこかで、誰かが笑ったような、泣いたような音が響いた。


 綾が顔を上げる。


 「……封印、本当に崩れ始めてる。」


 繋は立ち上がり、拳を握った。


 「なら、確かめるしかないだろ。

  俺が何を忘れていようが……影が誰であろうが……

  もう逃げない。」


 夜の闇の奥で、青い光がかすかに瞬いた。

 それはまるで“影の心臓”のように脈動していた。

作者の一言

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