ep3 名を失った少女
識は導標の針が指す方角を見つめていた。
方角は南東――霧の街を抜け、古い図書区へと続く。
そこは、かつて人々が知識を集めた場所だったが、今は誰も近づかない。
“知識”そのものが、徐々に形を失っているためだ。
塔を出る際、綾は静かに言った。
> 「“名を失った少女”は、自分が忘れられていることに気づいていないかもしれない。
> 彼女を“思い出させる”こと――それが、今回の結びつきの鍵になる。」
識は深く息を吸い、導標を握り締めた。
「……了解です、師匠。」
冷たい風が頬を撫でる。
空は灰色、太陽の輪郭さえ曖昧だった。
この世界が、ゆっくりと「輪郭」を失っていくのがわかる。
――――――――
廃れた図書区〈ロダン〉に入ると、空気が変わった。
埃っぽい静寂の中、ページの音だけが微かに響く。
――誰かが、本を読んでいる。
識は足音を殺して奥へ進む。
光の漏れる閲覧室の隅に、少女が座っていた。
長い黒髪。白いワンピース。
年は十五、いや、十六ほどか。
彼女の前には、分厚い書物が一冊。
そのページには、何も書かれていなかった。
「……君は、ここで何をしている?」
識の声に、少女がゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、透明な虚無があった。
「……あなた、誰?」
「俺は識。“発見者”だ。」
「発見者……?」
少女は首をかしげた。
「変な名前ね。何を“発見”するの?」
「忘れられたモノを。」
少女は小さく笑った。
その笑みはどこか、悲しみを帯びていた。
「じゃあ……わたしも、忘れられたモノ、なのかな。」
導標がわずかに震えた。
識は確信する。――彼女だ。
――――――――
「君の名前を、教えてくれるか。」
「……え?」
少女は少しの間考えた。
けれど、何も出てこない。
「名前……えっと……えっと……ごめんなさい。わたし、思い出せないの。」
その瞬間、空気が揺れた。
識の視界が一瞬、白くかすむ。
導標の針が激しく回転し、淡い光を放った。
> 《対象確認。忘れ去られたモノ──“少女の名”。レベル:Ⅳ》
レベルⅣ。
識の背に冷たい汗が流れる。
発見者でも上位の者しか成功させたことのない難度。
「……大丈夫。必ず思い出させる。」
「……どうして?」
「君がこの世界から消えたら、誰も悲しむことさえできなくなる。」
少女は黙って識を見つめた。
そして、小さくつぶやく。
「ねえ……“わたし”って、ほんとうにいたの?」
識はその言葉に、何も答えられなかった。
けれど、導標の光が彼の胸を照らす。
その光は、少女の輪郭をわずかに浮かび上がらせた。
“モノ”は確かに存在している。
――だからこそ、まだ間に合う。
――――――――
図書区の外に出たとき、霧の中から声がした。
「また会えたね、識。」
識が振り返ると、そこには一人の青年が立っていた。
銀色の髪、冷ややかな瞳。
発見者の一人、**レオン・アルディス**。
「お前もこの案件か。」
「いや、“監視”だよ。上が心配しててな。」
「監視?」
レオンは微笑んだ。
「お前、もう一線を越えかけてる。“モノ”に感情を移すなよ。
それは――発見者の禁忌だ。」
識は拳を握りしめた。
だが、言い返すことはできなかった。
少女の無垢な瞳が、脳裏から離れない。
もし彼女を救えなければ、この世界はまた一つ“何か”を失う。
そして次に忘れられるのは――誰なのだろう。




