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忘却の輪郭  作者: 雨香
序章・第1章

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ep11 名のない者

 自分の名前が、自分に触れない――

 その事実を理解した瞬間、識の世界はひどく静かになった。


 耳鳴りがするほどの沈黙。

 周りの音は聞こえているのに、どこか遠い。


 リセルが震える声で呼んだ。


 「……識……ねえ、聞こえてる? 返事してよ……!」


 その声は確かに届く。

 でも、“名前として”触れない。


 識はゆっくり顔を上げた。


 「……聞こえてる。大丈夫だ。」


 言った瞬間、自分の声が少し薄く感じた。

 輪郭が曖昧になっていく感覚。

 「識」という呼称に縛られなくなった代償だ。


 綾が近づき、識の胸元に手を当てる。


 「本当に失われたわね……“名の接点”が完全に消えてる。」


 識はふっと笑った。


 「思ったより……平気です。」


 「平気じゃないわ。」と綾は即答した。

 その声は珍しく強かった。


 「名を失った者は、世界の中で“存在の優先度”が下がる。

  人々の記憶から薄れ、気づけば視界の外へ押し出されていく。

  ……放っておけば、影と同じ場所へ落ちるわ。」


 影。

 影の記録者。

 忘れられた者たちの末路。


 識はそれを想像し、ほんの少し背筋が冷えた。


――――――――


 リセルが識の手を強く握った。


 「落ちないで……お願い。

  私のせいで……あなたの名前が――」


 識は頭を振った。


 「違う。俺がやるって決めた。」


 リセルは涙を拭おうともしないまま、識を見つめる。


 「でも……名前が無いって……そんなの……。

  あなたが呼ばれないなんて――私、嫌だよ。」


 その声には、過去の痛みが滲んでいた。

 リセルは“自分の名を奪われた少女”だった。

 だからこそ、識の喪失がどれだけ苦しいか分かるのだ。


 識は、少しだけ笑う。


 「俺の名前なんて、また作ればいいだろ。」


 「違う……違うの……!」

 リセルは首を振る。

 「名前は“授かるもの”じゃなくて、“繋がるもの”だよ……

  私があなたを識って呼ぶのは……その名前があなたの中心だからだよ……」


 言葉が震え続ける。


 その時――。


――――――――


 空間が突然、歪んだ。

 白い世界に黒い煙が流れ込み、霧のように広がる。


 綾がすぐに識とリセルを庇う。


 「……来たわね。

  “影の記録者”の本体。」


 黒い霧の中で、巨大な影が形を取っていく。

 さきほどよりも濃く、重く、圧倒的。


 人のようでいて、まったく人ではない。

 無数の“忘れられた名前”がその中で唸っていた。


 > 「名を捨てた人間……

 >  滑稽だな。」


 識は影に向き合う。


 「黙ってろ。

  俺が何を失おうが、あんたらの都合に合わせるつもりはねぇ。」


 影は嗤ったように揺れる。


 > 「名を持たぬ者は、世界に居場所をなくす。

 >  そのまま我らの側へ落ちるがいい。

 >  お前は“影の住人”となる。」


 リセルが識にしがみつく。


 「だめ! 影になんて渡さない!!」


 その瞬間、影が触手のような黒い腕を伸ばした。


 綾が一歩踏み出し、白い刃を構える。


 「識、リセル。

  後ろへ下がりなさい。

  “名の欠損状態”のあなたは、影の影響を受けやすいわ。」


 影と綾の衝突は、音を伴わなかった。

 ただ、空間が軋み、記憶の層が砕ける音だけが響く。


――――――――


 識はリセルを抱えながら、綾の背中を見た。


 「……綾さんは戦えるんですか?

  あなたは半分、影なんだろ。」


 綾は前を向いたまま、言う。


 「影に近いからこそ、影を断てるのよ。

  半端な存在は……役に立つ時もある。」


 その言葉には、少しだけ寂しさが混じっていた。


 識は拳を握る。


 ――戦えない。

 名前がない今の自分は、導標との同調ができない。

 攻撃も回復も、すべて半分以下。


 それでも。


 (何もしないで見てるだけのほうが、きついんだよ……)


 識は胸の奥でそう呟いた。


――――――――


 影の記録者が、綾を押し込み始める。

 黒い腕が増え、まるで世界そのものが押し寄せてくるようだ。


 そのとき――リセルが識の袖を掴んだ。


 「……私、分かった気がする……

  あなたの名前を、もう一度――

  “世界に繋げる方法”。」


 識は目を見開く。


 「そんな方法、あるのか?」


 リセルは頷く。


 震えながら、でもしっかりと。


 「――私が、あなたの“名付け手”になる。」


 時間が止まる。


 リセルの瞳はまっすぐ識を捉え、逃げ場を与えなかった。


 「あなたが私の名を取り戻してくれたように……

  今度は私が、あなたの名を作る。

  世界に、あなたの存在を刻む。

  ――それが“名の返礼”。」


 識は息を呑んだ。


 名付けは、重い。

 名前は存在の核。

 誰かの名付けを受けるということは、魂の一部を渡すのと同じだ。


 そんな重大なことを、リセルは――迷わず言った。


 識は苦笑した。


 「……お前、本当に勇気あるな。」


 「あなたがくれたからだよ。」

 リセルは恥ずかしそうに笑った。


 その笑顔は光のようだった。


――――――――


 綾が振り向かずに言う。


 「やるなら急いで。

  識が世界から消える前に。」


 影の迫る音が近い。


 識はリセルの手を握り返した。


 「……頼む。」


 リセルは深く息を吸い、そっと目を閉じた。

 そして、識の胸に手を当て――


 世界の中心に向かって、静かに言った。


 > 「――あなたの新しい名は。」


 その言葉の続きは、まだ世界に届いていない。

 だが、確かに“始まり”の気配があった。

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