心変わり
僕は弁当の唐揚げを口に運びながら、先週のことを思い出していた。
あのとき、幸大はどんな気持ちで、僕に気持ちを打ち明けてくれたのだろう。それに、どれだけの覚悟があったのだろう。
それに比べて、僕は……。
「……くん。飛田くん」
少し高めの声に、意識が現実へ引き戻された。
隣で前を向いたまま、渡辺さんが僕に呼びかけていた。
「何? 渡辺さん」
渡辺さんは、そっと箸を置いて、こちらを見た。
「飛田くん。別れよっか、あたしたち」
あまりに突然で、一瞬だけ言葉を失った。けれど、驚いた以上の感情は湧いてこなかった。
「……まだ二か月も経ってないけど、いいの?」
僕がそう返すと、渡辺さんは苦笑した。
「やっぱ、“どうして”って聞かないんだね」
その言葉に、僕は返す言葉を持たなかった。
「分かってるよ。無理やりこの関係に持ち込んだのは、あたしの方だもん」
彼女は箸をケースにしまい、食べかけの弁当にふたを閉める。
「でもさ、飛田くんもずるいよ。諦める気なんて、最初からなかったでしょ?」
「そんなこと……」
否定しようとしたけれど、言葉がうまく続かなかった。
「飛田くん、あたしの名前……言える?」
「ひな、でしょ?」
「漢字、書ける?」
「えっと……」
僕は指で机をなぞろうとした。でも、その指は動かなかった。
知らなかった。僕は、彼女の名前の漢字すら分からない。
「ね? 飛田くんは、付き合ってる彼女の名前すら知んないの。それがなんでか、分かる?」
僕は、黙るしかなかった。
「あたしのこと、ちゃんと見てなかったからだよ。もっと言えば、塚田さんのことしか見てなかったんでしょ?」
「それは……そんなつもりじゃ」
「分かってるよ。無意識なんだよね。でも、無意識だからこそ、もう答えは出てるんだよ」
そう言って、渡辺さんは少し寂しげに笑った。
「だからね。別れよ」
——別れるって、案外あっさりしてるものなんだなあ。
僕は一人、ベランダに出て座り込んでいた。しとしとと降る小雨が、少し入り込んでくる。
濡れるのは嫌だけれど、少なくとも昼休み中は、渡辺さんと同じ空間にいるのが気まずい。
「飛田くんじゃん。何してるの?」
顔を上げると、五十嵐さんが立っていた。彼女は隣に並んで座り込む。
「五十嵐さん、雨でもベランダにいるの?」
「みーちゃんに会いに行くときはいつもベランダから行くの。それより、例の彼女は?」
「……《《元》》彼女だよ」
「もう別れたんだ?」
「さっき振られたとこ」
「まあ、そうだろうね」
五十嵐さんは全然驚いていないみたいだった。
「何をそんなに落ち込んでるの? どうせ、三か月したら振るつもりだったくせに」
「振るつもりってわけではなかったよ。彼女を好きになれたら、もちろん付き合い続けるつもりだった」
「好きになろうとしてなかったくせに、よく言うよ」
「違うよ。僕は……!」
本当に、新しい恋に踏み出そうと思った。これ以上、美咲を困らせたくない。自分が苦しみたくない。だから、違う子と、違う恋をって。
でもその時点で、やっぱり僕は、自分と美咲のことしか考えてないんだ。
「僕はさ。どうしたって美咲のことが好きみたいなんだ」
「何を今さら」
五十嵐さんは、当たり前のように答える。
「飛田くんだって、心のどこかで分かってたはずだよ。これだけずっと片想いしてきて、今さら、他の恋になんて簡単に行けるわけがないんだよ。それなのに無理するから、こうやって自分のことも、元彼女のことも傷つけてさ」
「馬鹿だなあ、僕」
「馬鹿だね。それに、最低」
五十嵐さんの言葉は、容赦なく心をえぐっていく。そう。僕は馬鹿で最低だ。分かっている。正しいことだ。けど……
それにしたって、どうして、そんなにイライラしているのだろう。
しばらく、五十嵐さんは何も言わなかった。それなのに、僕の横から離れようとしなかった。
仕方がないから、そろそろ教室に戻ろうと思った。そのとき。
「これは余談なんだけど。聞き流してくれて構わないんだけど」
五十嵐さんが、口を開く。
「何?」
「みーちゃん、心変わりしたみたいだよ」
「心変わり?」
「なんでも、両親と話してみて考えが変わったって」
「考えって……」
「黙って聞いてて」
五十嵐さんは、俺の言葉を遮って続けた。
「お父さんとお母さん、実は今も仲が良かったんだって。ずっと、互いを支え合ってきてたんだって。だから、恋愛で壊れない絆もあるんだなって、思い直したって」
「それ、ほんと?」
五十嵐さんは、わざとらしく大きくため息をついた。
「こんな嘘ついて、わたしになんの得があるの」
「それは……そうだね」
「それじゃあ、わたし、もう行くね」
五十嵐さんは立ち上がった。
「待って」
「何?」
彼女は、肩くらいまでの髪を揺らしながら振り向いた。
「どうして、いつもそうやって背中を押してくれるの?」
彼女は、何か言おうとしてためらったが、口を開いた。
「……わたしね、飛田くんのこと、好きだったの」
「……え?」
「ち、小さい頃の話、だよ」
”小さい頃”。その発言に、胸が高鳴った。
「……ってことは、やっぱり……!?」
「そうだよ。わたし、さっちゃんだよ」
こちらの表情をうかがうように、控えめに顔を上げたその姿が、あの頃のさっちゃんとはっきりと重なった。
「ずっとそばにいたんだね、さっちゃん」
僕は嬉しくて、自然と笑顔がこぼれた。
そうじゃないかと、ずっと思っていた。否定されたけど、それでも、五十嵐さんがさっちゃんなんじゃないかって。
「……その、どう思った? わたしが、さっちゃんって分かって」
五十嵐さんは、どこか不安そうに尋ねてくる。
「嬉しいよ。五十嵐さんが、さっちゃんでよかった!」
「……そう」
五十嵐さんは、安心したように息をついた。それから、いつもの五十嵐さんの顔に戻る。
「だからさ。わたしはさっちゃんとして、飛田くんを応援したいんだよ」
「ありがとう、さっちゃん」
五十嵐さんは照れているのか、顔を赤らめて顔を逸らした。
けれどそれから、また真っすぐこっちを見てはにかんだ。
「頑張れ、りょうくん」
そう言って、五十嵐さんは速足で自分の教室に戻っていった。
——もう、頑張るしか、道はないんだ。
僕はあきらめの悪い人間で、どうしたって、美咲のことが好きなんだから。
幸大も五十嵐さんも、こんなに背中を押してくれるのだから。
――僕、頑張るよ。さっちゃん。




