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あの雨に届かなかった僕たちは。  作者: 雀野ヒナ
【美咲 side ④】
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大切な存在②

 味噌汁から、ゆらゆらと温かい湯気が上がっている。

 お母さんは、少し笑って話し出した。


「お父さんとは、頻繁に連絡を取り合ってるわ。電話もする。美咲の子育てについて、どれほど相談してきたことか」

「そうなの? ………なんで、言ってくれなかったの」

「お母さんとお父さんが、あまりに仲良さそうにしてたら……美咲が期待しちゃうかもしれないと思ったの。いつかまた、三人で暮らせるかもって。残念ながら、それは叶わないから」


 お母さんの言葉は穏やかだったけれど、どこかで切なさもにじんでいた。胸の奥に、小さな痛みが走る。


「そうだったんだ……。でも、よかった。わたし、二人はもうずっと仲が悪いままだと思ってた。一度恋愛関係になっちゃったから……わたしを産んだから、もう仲良しに戻れなくなっちゃったのかなって、ずっと……」


 勝手に景色が滲んでいく。なんの涙なのか、自分でも分からなかった。

 お母さんは驚いたように目を見開いて、わたしと同じように目を潤ませた。


「ごめんね……お母さんもお父さんも、美咲とちゃんと向き合えていなかったんだね」


 しばらく、沈黙が続いた。それから、お母さんはぽつりと呟いた。


「お母さんは……お父さんを好きになってよかったと思ってる。お父さんと付き合って、結婚して、家族になれてよかったって、ちゃんと思ってるよ」

「でも、あのとき……」

「うん。あの時は、本気でそう思っていたのかもしれない。でもね、それはあの時だけよ。今は違う」


 お母さんは優しい目をして、柔らかく笑った。


「どうして?」

「気の許せる友達ってね、関係が変わっても……やっぱり、大切な存在なのよ」


 その言葉に、胸を貫かれた気がした。


「……本当に?」

「少なくとも、わたしと彼はそうよ」


 お母さんはちょっと照れくさそうに笑った。その笑顔が、少しだけ若返ったように見えて――わたしもつられて、笑った。

 一度恋愛関係になったら、いつかその絆に終わりが来てしまう。そう思っていたわたしの世界が、少しだけ揺らいだ。


「美咲にも、気になるお友達がいるの?」


 お母さんの言葉に、私はうなずく。


「うん、大切な友達。でも彼は、わたしのことを恋愛として好きでいてくれてて……わたし、どうしたらいいのか分からなくて」

「告白はされた?」

「……わたしが、阻止してる感じ」


 お母さんはくすっと笑った。どこか自分の昔を思い出しているような、そんな笑い方だった。


「その気がないなら、阻止なんかせずにきっぱり断れるはずよ。ちゃんと振って、普通に友達してればいいのよ。それができないのは、美咲の中にも何かあるからなんじゃない?」

「……そう、なのかな」

「それに、始まる前から終わった時のことを考えるなんて、ナンセンスよ」


 お母さんは、ちょっとおどけたようにウィンクしてみせた。わたしは思わず吹き出してしまう。


「そうだね。確かにそうだ」


 お母さんは少しの間、何かを考えるようにしていた。そして、何か思いついたように、ふっと顔を上げた。


「そのお友達って……涼太くんのこと?」

「……なんで、分かるの」

「分かるに決まってるじゃない。お母さんだもの」


 わたしたちは笑い合った。

 テーブルの上にある二つの味噌汁椀から、まだほんのりと湯気が立ちのぼっている。その香りが、心まで温めてくれている気がした。



 夕食を終え、自分の部屋に戻った私は、机に置かれた教科書をぼんやりと眺める。

 さっきの会話が、まだ胸の奥で温かく残っていた。


『関係が変わっても……やっぱり、大切な存在なのよ』


 お母さんの言葉が、何度も頭の中で反響している。涼太の笑顔や、何気ないやりとりが、心の奥で蘇ってくる。


 わたしはずっと、恋愛は“終わり”の始まりだと思っていた。

 一度恋人になってしまえば、その関係が終わったときにはもう戻れない。だから、涼太を好きになるのが怖かった。いつか涼太を失うのが怖かった。

 でも、もしかしたらそれは、違うのかもしれない。

 終わったとしても、関係が壊れるとは限らない。違う形で、また繋がれることもある。お母さんとお父さんが、そうだったように。


 机に肘をついて、ぼんやり窓の外を見る。冬の夜空は澄んでいて、どこか寂しげで、それでいて美しかった。

 壊れるかもしれない。けれど、壊れないかもしれない。その可能性が少しでもあるのなら。


――涼太を、好きになってもいいのかな。


 そっと喉の奥に浮かんだ言葉を、心の中で繰り返す。


 涼太がわたしを好きになってくれたこと。本当はちゃんと嬉しかった。応えたいと思う自分もいた。

 でも、誤魔化して、無かったことにしようとした。涼太の気持ちからも、わたしの気持ちからも、目を背けてきた。


 今なら、もしかしたら違う答えが出せるかもしれない。始まることを怖がるより、大切にしたい想いがあるのなら。


「……うん」


 小さく呟いた自分の声が、夜の静けさの中に吸い込まれていく。窓の外の星が、一つだけ、瞬いた。

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