大切な存在②
味噌汁から、ゆらゆらと温かい湯気が上がっている。
お母さんは、少し笑って話し出した。
「お父さんとは、頻繁に連絡を取り合ってるわ。電話もする。美咲の子育てについて、どれほど相談してきたことか」
「そうなの? ………なんで、言ってくれなかったの」
「お母さんとお父さんが、あまりに仲良さそうにしてたら……美咲が期待しちゃうかもしれないと思ったの。いつかまた、三人で暮らせるかもって。残念ながら、それは叶わないから」
お母さんの言葉は穏やかだったけれど、どこかで切なさもにじんでいた。胸の奥に、小さな痛みが走る。
「そうだったんだ……。でも、よかった。わたし、二人はもうずっと仲が悪いままだと思ってた。一度恋愛関係になっちゃったから……わたしを産んだから、もう仲良しに戻れなくなっちゃったのかなって、ずっと……」
勝手に景色が滲んでいく。なんの涙なのか、自分でも分からなかった。
お母さんは驚いたように目を見開いて、わたしと同じように目を潤ませた。
「ごめんね……お母さんもお父さんも、美咲とちゃんと向き合えていなかったんだね」
しばらく、沈黙が続いた。それから、お母さんはぽつりと呟いた。
「お母さんは……お父さんを好きになってよかったと思ってる。お父さんと付き合って、結婚して、家族になれてよかったって、ちゃんと思ってるよ」
「でも、あのとき……」
「うん。あの時は、本気でそう思っていたのかもしれない。でもね、それはあの時だけよ。今は違う」
お母さんは優しい目をして、柔らかく笑った。
「どうして?」
「気の許せる友達ってね、関係が変わっても……やっぱり、大切な存在なのよ」
その言葉に、胸を貫かれた気がした。
「……本当に?」
「少なくとも、わたしと彼はそうよ」
お母さんはちょっと照れくさそうに笑った。その笑顔が、少しだけ若返ったように見えて――わたしもつられて、笑った。
一度恋愛関係になったら、いつかその絆に終わりが来てしまう。そう思っていたわたしの世界が、少しだけ揺らいだ。
「美咲にも、気になるお友達がいるの?」
お母さんの言葉に、私はうなずく。
「うん、大切な友達。でも彼は、わたしのことを恋愛として好きでいてくれてて……わたし、どうしたらいいのか分からなくて」
「告白はされた?」
「……わたしが、阻止してる感じ」
お母さんはくすっと笑った。どこか自分の昔を思い出しているような、そんな笑い方だった。
「その気がないなら、阻止なんかせずにきっぱり断れるはずよ。ちゃんと振って、普通に友達してればいいのよ。それができないのは、美咲の中にも何かあるからなんじゃない?」
「……そう、なのかな」
「それに、始まる前から終わった時のことを考えるなんて、ナンセンスよ」
お母さんは、ちょっとおどけたようにウィンクしてみせた。わたしは思わず吹き出してしまう。
「そうだね。確かにそうだ」
お母さんは少しの間、何かを考えるようにしていた。そして、何か思いついたように、ふっと顔を上げた。
「そのお友達って……涼太くんのこと?」
「……なんで、分かるの」
「分かるに決まってるじゃない。お母さんだもの」
わたしたちは笑い合った。
テーブルの上にある二つの味噌汁椀から、まだほんのりと湯気が立ちのぼっている。その香りが、心まで温めてくれている気がした。
夕食を終え、自分の部屋に戻った私は、机に置かれた教科書をぼんやりと眺める。
さっきの会話が、まだ胸の奥で温かく残っていた。
『関係が変わっても……やっぱり、大切な存在なのよ』
お母さんの言葉が、何度も頭の中で反響している。涼太の笑顔や、何気ないやりとりが、心の奥で蘇ってくる。
わたしはずっと、恋愛は“終わり”の始まりだと思っていた。
一度恋人になってしまえば、その関係が終わったときにはもう戻れない。だから、涼太を好きになるのが怖かった。いつか涼太を失うのが怖かった。
でも、もしかしたらそれは、違うのかもしれない。
終わったとしても、関係が壊れるとは限らない。違う形で、また繋がれることもある。お母さんとお父さんが、そうだったように。
机に肘をついて、ぼんやり窓の外を見る。冬の夜空は澄んでいて、どこか寂しげで、それでいて美しかった。
壊れるかもしれない。けれど、壊れないかもしれない。その可能性が少しでもあるのなら。
――涼太を、好きになってもいいのかな。
そっと喉の奥に浮かんだ言葉を、心の中で繰り返す。
涼太がわたしを好きになってくれたこと。本当はちゃんと嬉しかった。応えたいと思う自分もいた。
でも、誤魔化して、無かったことにしようとした。涼太の気持ちからも、わたしの気持ちからも、目を背けてきた。
今なら、もしかしたら違う答えが出せるかもしれない。始まることを怖がるより、大切にしたい想いがあるのなら。
「……うん」
小さく呟いた自分の声が、夜の静けさの中に吸い込まれていく。窓の外の星が、一つだけ、瞬いた。




