友達として
十月に入った。
少し肌寒い空気と、湿気を帯びた風。降ってくる雨は小粒で、かといって傘なしで歩けるほど甘くはない。
以前は、雨が待ち遠しかった。
でも今日は、手放しで喜べるような気分じゃない。
「ひーだくん。おはよ!」
声がして横を見る。赤い傘の先が視界に入り、視線を下げると、半透明な傘越しに五十嵐さんと目が合った。
「ああ、五十嵐さん。おはよう」
「寒いね」
「ほんと、急に気温下がったよね」
「雨降っちゃうと、じめじめして気分も下がっちゃうよ」
「……そうだね」
五十嵐さんは勢いよく顔を上げた。傘がぶつかりそうになり、思わず身を引く。
彼女は意外そうに目を見開いた。
「何、どうしたの?」
「否定されると思ってた」
「何を?」
「雨に気分が下がるってやつ」
「どうして?」
「だって、夏休み前は雨が降ると、嬉しそうにしてたじゃん」
最近の五十嵐さんは、僕の変化によく気づく。少しは、僕に興味を持ってくれるようになったんだろうか。
「そうだったかな」
とぼけてみせると、彼女はちらっとこちらを見て、すぐ前を向いた。
「飛田くんさ、最近みーちゃんと帰ってないの?」
「最近、雨降ってなかったから」
「ふーん……」
何か言いたげだけれど、五十嵐さんはそれ以上、口を開かなかった。
会話が途切れる。雨が傘を叩く、軽やかな音だけが耳に残る。
幸大の言うように、これが空の涙なんだとしたら、僕たちは、それを弾いてしまってもいいんだろうか。誰か一人くらい、受け止めてくれる人はいないんだろうか。
空は、寂しくないんだろうか。
「じゃあ今日は、一緒に帰れるかもね。雨だし」
五十嵐さんの声に、ふと我に返る。
……どうかしている。こんなセンチメンタルな気分、僕らしくない。
「一緒に……帰れるかな」
思わず俯く。ズボンの裾が濡れて、色が変わっていた。
そのとき、傘に軽い衝撃を感じた。顔を上げると、五十嵐さんがわざと傘をぶつけてきたようだった。
「二人の過去とか、関係とか、わたしにはよく分かんないけどさ。でも……外から見てるからこそ、分かることもあって」
「分かること?」
「うーん……なんていうのかなあ。少なくとも、みーちゃんは絶対、飛田くんのこと嫌いになったとかじゃないと思うよ。だから、そんなに落ち込まなくていいと思う」
「気遣ってくれてるの?」
そう尋ねると、彼女はばっと顔を上げた。ほんのりと赤くなっているように見える。
「ちがうってば。そんなんじゃないけど」
「そんなんじゃないけど?」
「……飛田くんは、笑ってる方が断然いいよ」
彼女が笑った。その笑顔に、唐突に遠い記憶の面影が重なる。
『りょうくんは、お料理屋さんになるんだね』
――そんなわけはない。
頭では分かっているのに、それでも「もしかしたら」と思ってしまう自分がいる。
「五十嵐さんってさ、“さっちゃん”って呼ばれたりしない?」
「……なんで?」
「いや……なんとなく」
「言っとくけど、私は飛田くんの言ってた“さっちゃん”じゃないからね」
「そっか。……そうだよね」
そんな都合のいいこと、あるわけない。やっぱり今日の僕は、どこかおかしい。
「でも、五十嵐さん……似てるよ。さっちゃんに」
「……どんなところが?」
「元気いっぱいで、好き嫌いがはっきりしてて……他の人の気持ちを、ちゃんと考えてあげられるところ」
五十嵐さんは何か言いかけて、けれど言葉を飲み込んだ。
少し間を置いてから、考えるように口を開く。
「いつかまた、会えたらいいね。さっちゃんに」
「うん、そうだね。会いたいな」
心のもやもやは、まだ晴れたわけじゃない。美咲とのことは、何も解決していない。
それでも今――五十嵐さんのおかげで、記憶の中のさっちゃんのおかげで、少しだけ元気になれた気がした。
「ありがとね、五十嵐さん」
「だから、そんなんじゃないってば」
そう言いながら、彼女ははにかむ。
「……まあ、友達としてね。これくらいは、するよ」
前を向いて笑った彼女は、さっきとは少し違う、どこか切ない表情をしているように見えた。




