第一話 雨と初恋
どうしてこんなにも綺麗なんだろう。
空がこぼす涙を見て、いつも思う。いつも、その涙に見惚れている。
窓際、後方の席。私は先生の話もまともに聞かず、外を眺めていた。
ここ一週間、ずっと雨。今日も部活は中止だろう。
教室の窓を叩く細かな雨音が途切れない。それを聞いているだけで、懐かしい感じがする。
「空が泣いてるね」
中二の梅雨の時期だっただろうか。降り注ぐ雨を眺めながら、後ろの席だった彼にそう言った覚えがある。
「え?」
急に話しかけられて、彼は驚いたようだった。彼はあまり女子とは話さなくて、私ともあまり目を合わせてくれない人だった。
「空が泣いちゃったから、今日は部活ができないの」
私の言葉を聞いて、彼は少し焼けた頬を触りながら、窓の外を見た。
「ああ……そっか」
「君は部活ないの?」
彼は一瞬私の目を見て、すぐ逸らした。
「あったけど、こんなんじゃ俺もできないや」
なんだ、女子ともちゃんと話せるじゃないか。もっと早く話しかけてみればよかった。
「悲しいことでもあったのかな」
「悲しい?」
「だって、こんなに泣いてるから」
彼は少し考えるように外を見て、こっちを見て、また逸らした。
「失恋かな。ほら、大泣きしてるし」
彼は平気な顔をして言った。私は平気な顔をしてそれに乗った。
「なるほど、かわいそうに。どうしたら泣き止んでくれますかね?」
「そっとしてあげるのが一番じゃない?」
「そうかな」
「きっとそうだよ」
そうだ。この日から、彼とのくだらないやりとりが私のお気に入りになったんだった。
カツカツと、チョークの音がかすかに聞こえる。
過半数の人が、食後の睡魔と闘っていた。高一の春とは、もう少し緊張感のあるものだと思っていた。それなりの進学校なはずなのに。
急に廊下がざわつき始めた。時計に目をやる。チャイムが鳴る二分前。隣の四組は少し早めに授業が終わったようだ。
教室内の数人が、私と同じように顔を上げていた。隣の席の男子は、まだ机に突っ伏して眠っている。彼だけが、この教室の中で時間を止めたようだった
廊下からのざわめきの中、聞き慣れた低くて心地いい声が聞こえた。反射的に目をやる。その主はすぐに見つかった。
すっとした立ち姿。柔らかそうな茶髪。鍛え上げられた肩回り。あの日よりは、まだ少し白い肌。やっぱりかっこいいなと思う。
ここから見えるのは、いつも横顔だ。私はいつも、その笑顔を横から見ている。
彼の横顔は前から好きで、むしろ横顔が何よりもかっこいいと思っていた。でも今は、正面から見たいと思ってしまう。その男らしい体つきには似合わない愛らしい笑顔を、真正面から見たい。
こっちを向いた。とっさに目を逸らす。気づかれただろうか。
もう、話すことすらないんだろうな。
あの頃に戻りたい。彼とーー幸大くんと笑い合えた、あの頃に。
中三の五月、雨降る帰り道。バス停へ向かう歩道で、少し先に大きな黒い傘を見つけた。
私は水たまりを避けて、水しぶきに気を付けながら、その隣へ駆けていった。
「空が、泣いてますね」
幸大くんは私に気づくと少し驚いて、それから軽く微笑んだ。
「本日も結構な泣き具合ですね」
思わず頬が緩んだ。私たちの最初の会話を覚えてくれていたことが、なんだか嬉しかった。
「また失恋かな?」
「あはは、そうかもしれない」
「今日はバスなんだ?」
「うん。今日は母さん仕事で、迎え来れなくて」
「そっか」
なぜだろう。幸大くんといると、どうしようもなく話したくなる私がいた。
「もう学校じゃないんだから、ママ、でもいいんだよ? 大丈夫、誰にも言わないから」
私は少しからかうように言った。
「ママなんて呼んでないから。母さんだから!」
彼は期待通り頬を膨らませる。可愛かった。
「ほんとかなぁ」
「ほんとだよ」
黒い傘が、幸大くんに触れようとする雨を阻んでいた。
「その傘。おっきいね」
「うん、ト〇ロみたいでしょ」
三年になってクラスが離れてから、彼と話したのはおそらくこの日が初めてだった。
だからだろうか。幸大くんと並んで歩いたことは何度かあったけれど、なんだかその日は今までと違う感じがした。傘と傘が振れ合うたびに、まるで肌どうしが触れたかのようなくすぐったさを感じた。
信号機のボタンを押して、横断歩道の前、二人並んだ。傘の下からのぞくその横顔を見つめる。目が合った。
「どうした?」
彼は不思議そうに見つめ返してきた。吸い込まれそうな瞳だった。出会った頃は少しも目を合わせてくれなかったくせに。
雨が傘を叩く音が、少し早くなった気がした。急に体が熱くなって、何かが溢れてくる。鼓動がうるさい。
――もう、抑えられなかった。
「好きだ」
彼は目を見開いたまま、何も言わなかった。私は雨の音に負けないように、もう一度大きな声で言った。
「私、幸大くんが好きだ」
彼は口元を手で隠して、俯いた。顔が真っ赤だった。
信号が青に変わった。彼も私も、止まったままだ。
幸大くんは顔を上げかけて、またすぐに俯いた。
「俺も好きだよ」
そう言うや否や、彼は速足で渡り始めてしまった。
頬が熱かった。私はその後ろを走って追いかけた。
あれは間違いなく、人生で一番幸せな瞬間だった。
――もう、あの日には戻れない。
そんな当たり前なことを、今日も私は自分に言い聞かせる。
まだ好きだとか、そういうわけではない。半年も経てば、まだ別れを引きずっているということもない。それでも、切なさとか虚しさとか、そういう気持ちは消えない。
だから私はこうやって、雨を見つめている。あの日と変わらないものが一つでもあると、確かめようとする。
チャイムが鳴った。みんな急に姿勢を正し、教科書類を片付け始める。先生はそんな様子に、顔をしかめつつ言った。
「終わります、号令」
私はいつも通り、熟睡している隣の男子を叩き起こしながら、声を張る。彼以外の誰もが、清々しい顔で礼をした。