第十話 ただの友達
なんとなく、いつもより早い電車に乗ってきた。
薄暗い教室には、まだ誰もいない。普段とあまりに違う空気に、なぜだか自分の席がわからなくなってしまった。
自分のと思われる机をおそるおそる覗くと、一冊の単行本だけが入っていた。僕は安堵してその椅子に座り、外を眺めた。
もう期末試験まで一週間を切っているが、勉強する気にはなれなかった。勉強会からいつまでも消えない、ぼんやりとしたあの違和感のせいだ。
「おう、飛田。早いな」
入口に目をやると、前の席の友人が入ってきたところだった。
「ああ、おはよう」
僕はさりげなく机から本を取り出して、彼の動きを横目に読書するふりをした。
彼は自分の机に鞄を置くと、椅子をまたいで僕に向かって座った。視線を感じて落ち着かない。
「何?」
「寺坂と塚田さんと遊んだってほんと?」
つい三日前の話だというのに、どこからそんな情報を手に入れたのだろう。
「二人と同じ中学だったんだっけ?」
「そうだよ。で、ほんとに遊んだのかよ」
「遊んだっていうか勉強会ね。五十嵐さんって子もいたよ」
「大丈夫だった?」
「大丈夫ってなんだよ」
「いや、なんかなかった? 気まずい雰囲気になった、とか」
一瞬、美咲と幸大のあの空気感を思い出した。近いような遠いような距離感。あれは果たして、気まずさから来たものだったのだろうか。
「……なんで?」
「おまえ、もしかして知らないのかよ」
彼が何の話をしているのか、僕には全く見当がつかない。
「何が?」
「……寺坂と塚田さん、中学のとき付き合ってたらしいぞ」
思考が止まる。頭が真っ白になって、徐々に驚きと納得とが頭の中をかき回した。けれどそうか、あの距離感の正体は元恋人という二人の関係性にあったのだ。
僕は必死に冷静さを装い、話を続けた。
「もしそうだとして、二人ともそんなの、今更気にしないと思うけど」
「いくらあの二人でも、元カレと今カレが揃った状況は気まずいだろ」
また彼の言葉の意味が分からない。
「ん、今カレ?」
「おまえのことだよ」
「僕が、誰の彼氏だって?」
「付き合ってるんじゃないのかよ。塚田さんと」
「付き合ってないよ」
「まじか。おまえらが付き合ってるって噂、めっちゃ流れてるけど」
「……初耳」
不快だった。美咲はそんな噂、絶対にされたくないだろうに。
「まあお似合いだからな。美男美女で」
「だから、そんなんじゃないって」
「でも周りはそうは思ってない。特に飛田ファンの女子が騒ぎまくってる。
塚田さん、嫌がらせとかされてないといいけどね」
――最悪だ。
今になって思い出した。僕の「好き」は、いつだって美咲を不幸にしてきたんだ。
「僕らは、僕と美咲は、ただの友達だよ」
僕は彼の目を真っすぐに見て言った。彼は何も言わない。
教室は再び静かになった。しばらくして、彼が視線に耐えられなくなり目を逸らす。同時に、廊下から数人の話し声が聞こえてきた。
「ふうん、友達ね」
彼は一つも納得していなさそうな顔をしながら前を向いた。三、四人のクラスメイトたちが入って来る。
僕と美咲は、友達だ。それは、小学生の頃から彼女がずっと望んできた――変わらない、変えてはいけない関係。
だから僕は、わざわざそれを壊そうだなんて思わない。彼女に僕の「好き」を押し付けるだなんてことは、もう二度としない。
そう、あの時に決めたから。
昼休みのチャイムが鳴っても僕はしばらく座ったまま考え事をしていた。それから意を決して席を立ち、いつも通り四組へ向かう。
教室を覗くと、幸大は一人で机に突っ伏していた。その茶髪に向かって突き進む。
「幸大」
顔を上げた幸大は、なぜかとても嬉しそうだった。
「遅いから来ないかと思った。テスト前だし」
自然な流れで聞こうと思っていた。けれど、自分がそんな余裕を持ち合わせていなかったことに、今になって気づいた。
「美咲と付き合ってたって本当?」
幸大は唐突な質問に驚いたようだったが、困った様子はなさそうだった。
「少しだけね」
「知らなかったよ、二人とも何も言ってくれないから」
どこか責めるような口調になってしまい、なんだか申し訳なくなった。
「聞かれなかったからな」
幸大にはどこか余裕があって、なぜだか僕は焦ってしまう。
「美咲のこと、まだ好きだったりする?」
彼はなだめるように穏やかな目で僕を見つめた。
「好意的には思ってるけど、涼太が思ってるような、そういう感情は抱いてないよ」
「そっか」
僕は気持ちを落ち着かせようと、深呼吸をした。
「美咲への気持ちは、僕への気持ちと同じってことだよね?」
幸大の瞳が細かに動いた、ような気がした。けれどすぐに穏やかな顔になって、僕の肩を叩いた。
「大丈夫だって。俺は涼太を応援してるから」
「応援?」
「好きなんだろ、塚田さんのこと」
「バレてたか」
「バレバレだよ」
幸大は笑った。けれどその顔はどこか切なくて、やはりまだ美咲を好きなのではないかと不安になってしまう。
「ありがとう。でも応援なんていらないよ。僕は今さらどうこうするつもりはないんだ」
「なんで?」
幸大は心の底から不思議だというような顔をした。
「美咲がそれを望んでいないから」
幸大は相変わらず、分からないという顔をした。
「僕の気持ちを押しつけたら、きっとまた美咲を苦しめる……それが、分かってるからさ」
「……そっか」
幸大はそれ以上、何も言わなかった。