球体の白馬
荒野と海原が重なりあった座標のうえ、そこに自分が寝転んでいるのか胡坐をかいているのかも分からなかった。本来、風や日を浴びれば僕らは、それらのベクトルを感じずにはいられない。向こうから来た風や、降り注ぐ日の眩しさ。だがここでは時間が流れず、まるで一枚の写真に収められたようで、風が吹かず代わりに在り、日もまた差さない代わり在るその他には、まったくなにもなかった。地面に尻をつけて座り込んでいる感触が、あるいは永遠の落下によって僕の体は安定しているのかもしれない。両端の柱に紐で吊るされた不安定を楽しむための安定した状態をハンモックといったり緊縛といったりが物質世界の特権だった。この場所はそういった世界から密接に離れ、この感覚以外に特筆するべきこともない荒野と海原が溶け合った地に僕は落下と着地を何万回と繰り返しているのかいないのか曖昧な心地を、目の裏の結び目まで解いていつまでも見落とさないよう眺めていた。
危険のない暗闇に囲われ汗の染みたソファのうえ、カプセルが砕けて中に仕込まれた粉がすっと上昇していく様子をずっと顔の裏で感じていたかった。あっちから物質世界まで戻ってくるのはあっという間だった。時計の示す時刻が、直接的に僕に焦りを感じさせるくらいは物質世界の時間を生きているのに、いつも焦るだけでいつまでも慣れる気がしなかった。朝、目が覚めてからは支度に次ぐ支度だ。支度だけして疲れたら、あとは時間に身を任せるだけですべて事が運んでくれるのが物質世界で唯一の良心だった。いったい僕はいつから時間に身を預けられなくなってしまったのだろう。考えるまでもない。考える暇もなかった。
うだる晴天に半透明・緑の球体が浮いて遊び、そこになるべく小さく丸まった自分の体が押し込まれている。あえて体と明言したのは、意識の方は依然として、道を歩いている僕の方にあったのだ。球は僕の体を乗せたまま、延々と緩い回転をつづけるが(光の反射の加減で確認可能)、その力では決して前進も後退もしない。だが完全に位置が定まっているわけでもない。不安定に空中を揺れている。それは風の影響を受けている風にもみえない。観察をつづける太陽のように、道を歩く僕のあとをつけてどこまでも離れない。あれは僕が思っているよりもずっと巨大なものなのかもしれない。僕以外通行人は誰も気づく様子もなかった。
帰った。寝た。何十万回繰り返す着地そして落下。墜落の朝は支度に次ぐ支度。帰った。寝た。おいバカじゃないか。何十万回繰り返す着地そして落下。墜落の朝は支度に次ぐ支度。帰った。寝た。何十万回繰り返す着地そして落下。墜落の朝は支度に次ぐ支度。帰った。寝た。何十万回繰り返す着地そして落下。墜落の朝は支度に次ぐ支度をこなす手が止まったのを境に音もなく倒れてしまった。僕は早くも天井を透かした空が眼前に迫っていた。そこには風も在って日も在った。ソファは今までずっと我慢してきた飢えをここぞと解放した次には僕の足腰を食い散らかし、喪失してしまった僕の痛みは、ソファの溝に滑り込んで今は埃だらけの、愛用だったキーホルダーや新品同然のボールペンたちと一緒にいる。痛みもそっちの方がいいらしい。痛みだって痛みなんか発揮したくないそうだ。当の僕は荒野と海原が重なりあった座標のうえ、そこに自分が寝転んでいるのか胡坐をかいているのかも分からなかった。あとはしばらくして普通に起きた。ソファの上だった。そして自分しか知りえない秘密特有の恥ずかしさが手に取れる形となって、すぐ側に落ちていた紛れもない事実に鬣は走り去った。