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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

海老と豆

 お徳用のミニラーメンをコップに放り込んで湯を注ぎ、箸で少しかき混ぜる。程よくふやけるのを待つ間、何か面白い番組でもやっていないかとテレビを点けたら、競馬の実況中継が行われていた。大学生のとき、サークルの先輩に誘われて三回だけ馬券を買ったことがある。いずれも複勝で千円単位の勝ち、お前と行っても何も面白くないと先輩に愛想をつかされ、それ以来一度もギャンブル自体に手を出していない。画面の中、葦毛の馬が大外から差してきて、一着でゴールイン。破かれた馬券がひらひらと宙に舞う。

 俺も一度、あんな風に紙吹雪を舞わせてみたかった。金を失った我が身を祝福する紙吹雪。今まで熱中できるものに何一つとして出会ったことのない自分には、競馬場の彼らが羨ましい。たとえ、それで人生を破滅させたとしても、周りに流されながらゆっくりと朽ちていく人生を送るよりはきっとましだ。

 騎手のインタビューに入ったところで箸を持ち、柔らかくなった麺を口元に運ぶと、どこからかシンナー臭がしてくる。ソファの方を振り向くと、珠子が膝を立ててネイルを塗っていた。足の親指がエメラルドグリーンに光る。

「何?」

「いや、別に」

 テレビの方に向き直って麺を口に入れる。シンナーの臭いに負けて、味があまりしない。

「そういえば昨日の夜、パパから電話あってさ。正月に彼氏連れてこいって言われたんだよね」

「へえ……遂にか」

「遂にっていうか、去年の正月でもあたし散々言われたからね、30になる前に結婚しろって。パパだけじゃないよ、ママも叔父さんも、親戚みんな」

 珠子はさも怠そうな声色でそう言う。だが、本音では彼女も早く結婚したがっていることを俺は知っている。父親からの電話がかかってきたというのも、親戚から圧力をかけられたのも、本当の話かどうか知れない。いずれにせよ、俺を動かすための口実だ。

「まあ、考えとくよ」

「考えとくっていうか、来るでしょ? 今年もあんなグチグチ言われるなんて耐えられないもん」

 耐えられないとか、それは珠子側の都合であってこちらには関係ない。しかしその言葉は、味のしない麺と共に飲み込んだ。彼女との間には議論というものが成立しない。俺はテレビの音量を2だけ上げる。額の汗を拭いながら話す騎手は、自分と同い年だった。

 その後、ネイルが乾くのを待ってから行為をした。エメラルドグリーンがずっと目障りだった。



 彼女が風呂から出るのを、素っ裸でヒーターに当たりながら待っていたとき、携帯に通知が入った。見ると、山碕からのメッセージで、ビールの絵文字だけがぽつんと入力してある。

 脱衣所からドライヤーの音がする。扉を開け、髪を乾かしている彼女の後ろから声を掛けた。

「ちょっと今日飲み行ってくるわ」

「んー?」

 珠子はドライヤーを止めない。甘いシャンプーの匂いのする温風が顔にあたる。

「今日、飲みに行ってくる」

「そ。いってらっしゃい」

 彼女はもう、誰と飲むのかと俺に尋ねてはこない。だから俺も、彼女が出かけるときは誰と一緒なのか聞いたりしない。たとえ、翌朝帰ってきて、体から彼女の吸わない煙草の匂いがしてきたとしても、そのくらいの些細なことは目を瞑らないといけない。俺だって疚しいことが何もないわけではないし、それを勘づかれていないわけでもないのだ。

 メッセージで「了解」とだけ送ってから浴室に入った。どうせいつものあの居酒屋だ。時間は適当に行けばいい。場所や日程をちまちま調整するなんてことは、俺らの関係性では何となく気恥ずかしいことのように思われた。前回会ったのは半年前になるが、そのときも同じように集まっている。特に問題はない。

 鏡の中、泡に覆われた陰毛を眺めながら、もう既にビールの口になっていた。



 20時前くらいに家を出て、一駅離れたところにある居酒屋に入ると、奥の方の席で飲んでいる山碕の姿がすぐに目に入った。15年近く被り続けているデニムキャップに、修学旅行にも着てきていた赤いジャケット、背負ったままのリュックは高校の通学用に使っていたものだ。俺は何も言わずにその向かいに座り、おしぼりで手を拭きながら近くにいた店員に「生一つ」と告げた。

 すると山碕の方も何も言わずに、リュックの中からいつものように取っ手付きのプラケースを出し、テーブルの上に置いた。

「見てこれ」

 高揚気味の声で言いながら山碕がケースの中から取り出すのは、カードゲームで使うカードだ。表面がやたらとキラキラ光っている。

「また買ったのかよ」

「買うに決まってんだろ。10年間探し続けてたやつだぞ」

「はあ。今回はいくらしたの」

「7万」

「たけぇな。バカじゃねぇの」

 山碕は俺のその反応を見ると、満足そうに笑みを浮かべつつすぐにカードをケースの中へしまった。この男は、ただこれをするためだけに俺を毎回飲みに誘うのだ。ゲーム仲間とその話をすればいいものを、どうやらこいつはカードゲームに全く詳しくない人間に自慢するのが好きらしく、この近くにあるカードショップでプレミアの付いたものを買っては、俺を呼び出して見せびらかす。

「で、最近どう?」

 既に半分ほどになったビールに口をつけ、あからさまに投げやりな感じで尋ねてくる。こいつにとって、以降の会話はもはや消化試合のようなものだ。

「正月に、彼女の親に挨拶しに行かなきゃいけないっぽくて」

「へえ」

「正直、面倒くさいよ。結婚の話をしないとならないだろうし」

「それは面倒くさいなあ。あ、すいません。枝豆を。はい、一人前で」

 山碕は、こちらの話に対する無関心を隠そうとはしない。しかし、俺は構わず愚痴を続ける。

「向こうの父親っていうのもなんか面倒くさそうな人なんだよね。しょっちゅう珠子に連絡してくるみたいだし」

「まあ、父親って大体そんなもんだと思うけどな」

「でもあれは異常だよ。あー、行きたくねえなあ」

「確かにな」

 相手の話に関心がないのは、お互いにわかっている。しかし、そんな相手だからこそ言える話というものがある。そうでなければ、俺もわざわざ電車に乗ってまでカードを自慢されにだけ来たりしない。俺たちは時折こうやって集まって話をする。その必要がある。

 ビールと枝豆がテーブルに載る。山碕は皿を引き寄せ、すべての鞘の中から豆を絞り出しにかかる。その鮮やかなグリーンを見ていたら、少し気分が悪くなったが、都合のいいことに目の前にはアルコールがある。ジョッキを持ちあげ、苦々しい思いを麦の苦みの中に溶かして飲んだ。



 高校の元同級生である山碕と再会したのは卒業してから六年経った頃のことで、たまたま路上を歩いていたところを例の格好で歩く男が目に入った。声をかけると、向こうも俺のことをすぐに認識し、ちょうど昼飯時だったのでそのまま近くの蕎麦屋に入って色々話をした。古本屋チェーンの社員として働いているという山碕は、話の内容もその口調も、高校時代と変わるところが一切なかった。働いて稼いだ金をすべて趣味であるカードゲームにつぎ込むのは、学校に無断でバイトをしていたときと変わらないし、金が全部そっちへ持っていかれるために、衣服や髪型など体面には無頓着な様子も同じだった。

 当時の俺は、営業先で働いていた珠子と付き合い始めた時期で、仕事も順調にこなしていて調子が良かったから、まったく変わらないあいつのことを進歩しない奴だと見下した。高校時代の山碕は変人として有名で、その変人なりのカリスマをもって周囲に人を絶やすことはなく、二人で話しているといつの間にか奴を中心に輪ができており、その輪から最初にはじき出されるのが俺だった。別に、自分にも他に友達がいたし、そんな屈辱的な思いをするくらいなら一緒にいたくないと思って距離を置こうとしたが、奴は事あるごとに絡んできて、何をするときにも必ず俺を呼ぼうとするので、あいつは山碕から寵愛を受けている、とクラスメイト達から揶揄されたこともあった。そうやって、人気者の奴に特別扱いされるのは悪い気分ではなかったけれど、二人でいるときに主導権を握るのはあくまで向こうで、あいつから呼び寄せておいて俺を突き放そうとするところがあり、冗談では済まない程度の悪口を面と向かって言われたことも何度もある。そのときの恨み、というほどではないが、薄っすらと抱き続けていたフラストレーションが、奴と再会したときに噴き上がり、その変わらない様子によって俺を憫笑させるに至ったのだ。

 しかし、彼女との関係が歪なものになり始め、仕事の方も停滞気味になり、自分の人生に対してロマンを抱くことができなくなってくるにつれて、会うたびに変わらない山碕のことが羨ましくなってきた。こいつは人生の核になるものをちゃんと持っている。自分にはそれがない。俺は、学生の頃よりも心の深いところで奴に屈服せざるを得なくなり、結局のところ二人の間のパワーバランスというのはいつまで経っても変わらないものなのだと悟った。

 だが、一度だけその関係が変わりそうになった瞬間があった。去年のことだ。この居酒屋でいつものようにやたらピカピカしたカードを見せびらかされた後に、俺は会社の先輩に勧められた風俗の話をした。

「ここ。大阪出張あったら絶対行けってさ」

 店のホームページを表示させたスマホの画面を見せると、山碕は一瞬だけこちらに視線を向けてから、再び皿の上の枝豆に目を落とした。

「確かにエロそう」

「でも、風俗って一回行ったら嵌っちゃいそうで怖いよな。そんな安いもんでもないし」

「本当にな」

「それに色んな女の子の感触知っちゃったら、彼女だけじゃもう……」

 俺は口にしかけた言葉を咄嗟に引っ込めた。もし言ってしまえば、いよいよ本当にそうなってしまう気がしたからだ。言霊信仰者ではないけれど、そう思った。

 なので、話の行き先を変えるため、俺はこの話題に興味のなさそうな山碕に質問を投げた。

「風俗ってお前、行ったことある?」

「ん? ああ。いや、俺は行ったことないな」

 それは、ただ話の方向転換ついでに聞いたことだったが、その返答の変な間に引っかかった。そしてその間が、学生時代から何も変わらないこの男に対する関心を久々に引き起こした。

「でもお前彼女いないだろ。どうしてんの」

「どうって、何を?」

「性欲だよ。流石にお前にだって性欲くらいあるだろ」

 深く彎曲したデニムキャップのつばの下から、澄んだ黒い瞳が覗く。店内の明るい照明のせいか、その眼光が妙に印象的だったが、すぐにまた帽子の影に隠れた。

「そんなの、今の時代いくらでも方法あるだろ」

「出会い系とか?」

「まあ、それもそうだけど」

「違うの? 何?」

 山碕の手は、空になった鞘から繊維を抜き取ろうしているようだった。しかし指が滑ってなかなか掴めていない。不器用なその手つきを観察していたら、俺の中で何か、先程から続いている山碕の曖昧な物言いとの論理的関係が見出せそうな予感がしてきた。

 少しの間隙の後、俺はそれを遂に発見した。

「お前、もしかして童貞?」

 山碕は何も答えない。その沈黙が意味することは明確だった。

「嘘だろお前」

 純粋な驚きだけを伝えるつもりが、その声色に嘲りや侮りのニュアンスを滲ませないことはどうしても不可能だった。心の内側で、忘れかけていた黒い感情がふつふつと湧いてくるのを感じる。

「30になる前に捨てとけって。ソープ代奢ってやるから」

「いいよ、いらねえよ。そんくらいの金はある」

「じゃあ週末行けよ」

「週末? 来週の週末?」

「そう」

「何でそんなすぐに行かないといけないんだよ」

「当たり前だろ。その年で童貞ってお前、有り得ないからな」

 これを機にと、立て板に水とばかりに口撃した。その口調は学生時代、山碕が俺に対して当たりの強かったときのそれを、無意識のうちに真似ているようだった。恐らく俺は、上手くいかない自分の生活を、内心羨んでいるあいつの生活を否定することで擁護しようとしていたのだと思う。その間、奴はずっと黙って鞘をこねくり回していた。

 酔いの勢いもあって、かなりヒートアップしてきた頃、不意に山碕がキャップを深く被り直し、ぽつりと言った。

「もういいだろ。やめてくれよ……」

 聞いたことのない弱々しい声色に、思わず舌が固まった。奴の顔は、相変わらず帽子に隠れて見えなかったが、ジャケットの袖から覗く手がはっきりと赤くなっている。指で掴んだ緑色の鞘が、余計にその色を際立たせていた。

 そんな簡単に負けられたら、勝てないだろ。

 俺は心の中でそう吐き捨て、まだ剝かれていない枝豆を一つ取って食べた。それ以降、居酒屋で山碕の貞操の話をすることはなかった。



「前回払ったのお前だったよな」

「うん」

 俺たちはいつも同じものを注文するから、毎回割り勘するなどという面倒な手段は取らず、全額を交互に支払うようにしている。ただ、前回どちらが払ったかをちゃんと記録しているわけではないので、もしかしたら片方が連続で払っていたりして多く金を出している可能性もあるが、別に大した額でもないので気にしない。少なくとも、気にする素振りを相手には見せない。

 会計を終えて店を出ると、じゃあまたな、なんてことは言わず、初めから一人だったみたいに別々の方向へと歩き出す。少しふらつく足で電車に乗ると、車窓から美しい三日月が見えた。 

 酔っているときならではの浮遊感にまかせてマンションの階段を昇り、部屋の扉を開けた。白く光ったふくらはぎがいきなり目に飛び込んでくる。透明な油のようなものが塗られては、プラスチックでできた棒の先端についたちゃちな車輪がその上を走る。

 俺の視線に気づいた珠子は、こちらを上目で見つめて言った。

「リンパ流してんの。綺麗な脚の女、好きでしょ?」

 確かに事実だ。しかし、脚の先端に付いたエメラルドグリーンがその美を損ねている。そんな本音を口にしてしまう前に、柔らかい唇にキスをして、自分自身を黙らせた。

 


 正月は曇天で迎えることとなった。混雑する高速道路を走る車の中、珠子は助手席でしきりに「頭痛い」と呟いている。俺も、別の意味で頭が痛かった。

 珠子の実家は茨城にあり、広い田んぼに囲まれた土地の中に、ちょっとした城のような形相で構えていた。客人にはあまり歓迎的ではないらしく、家の前の道路は細くて敷地内に入るのにも苦労する。何度も門にぶつかりそうになり、冷や汗をかきながらハンドルを回した。

 気象病の彼女を宥めつつ車から降りて、玄関のチャイムを鳴らす。心を落ち着かせるため、深呼吸をしようと息を吸った瞬間に扉が開き、驚いて空気を呑んでしまった。出てきたのは珠子の母親だったが、うちのキッチンに飾られている写真の中の人物よりもずっと老けて見える。

「あけましておめでとうございます。これ、つまらないものですが」

 こんな白々しい台詞を自分が言う日が来るとは、と内心で呟きながら紙袋を差し出す。中には、新宿の伊勢丹で買ったバウムクーヘンが入っている。

「ああ、わざわざすみません……」

 珠子の実母とは思えない程のか細い声で言い、紙袋を腕に引っ掛けてこちらに背を向けた。その小さな丸い背中について家に上がると、漆が塗ってあるかのように黒々とした廊下が、ずっと向こうのほうまで続いている。分厚いスリッパを履いてその上を歩いていると、ふと、どこにも塵の一つも落ちていないのに気がつき軽い戦慄をおぼえた。この黒く光る真っ直ぐな廊下と、目の前の女性の曲がった背中とを見比べて、家屋に満ちているはずの生活感というものが、全てこの母親に凝集しているのではないかという予感がした。

「こちらです」

 突き当りの部屋に入るとそこは畳室になっており、中央の大きな黒い座卓の上には、四段の重箱が置かれていた。開かれた障子の向こうには玉砂利の敷かれた広い庭が見え、青々とした松の木の根元にある手水鉢に、曇った空の色が映り込んでいる。

「お父さんももうすぐ来ると思いますので、お掛けになってください」

 そう言われたので下手に座ると、母親は珠子の向かいに正座した。横目で珠子の方を見ると、左のこめかみを親指で押さえ、瞼を固く閉じている。聞こえない程度の溜め息をゆっくりと鼻から吐き、庭の方に視線を向けた。一向に来ない父親よりも、呼びに行かない二人に対して腹立たしさを覚えている俺は、もしかしたら既に、この家を支配する力に屈し始めているのかもしれない。重箱の中で料理が静かに腐っていくのを想像しながら、そんなことを考えた。

 松の木の形状を観察するのにも飽き、ジャケットの袖をめくって10分、15分と刻んでいく腕時計の針を眺めていると、とす、とす、と音が聞こえてきた。俺は反射的に立ち上がり、階段の方に体を向けた。赤い暖簾をかき分けて白髪頭が現れ、和服に身を包んだ大きな肉体が畳に足を下ろした。深く頭を下げて挨拶をしたが、彼は喉の奥から鳴った咳払いのような音だけで返事をし、袴の布を揺らしながら歩いてくると、空いた座布団の上に胡坐をかいた。それを見届けてから俺も着座した。

 母親の手によって重箱が開かれ、卓上が色彩で溢れた。実家でも、もちろん珠子と同居し始めてからも、正月におせちを食べると言う習慣がなく、何が何かもわからないまま、豆や茎のようなものなど、できるだけ金のかかっていなさそうな料理を口に運んだ。味はどれも似たようなのばかりで、甘じょっぱい。

「保険の営業をやっているんだったな」

 珠子の父親の声が、箸の音ばかり響いていた食卓に低く響いた。初めて聞くその声が起こす空気の振動に、掴んでいた黒豆を皿の上に落としそうになった。

「はい。営業員です」

「この前、うちに来た営業員は本当にしつこかったな。なあ母さん」

「ええ、そうですね」

 黒豆が落ちた。俺は父親の顔を見たが、海老の殻を取るのに集中していて、こちらの様子は気にも留めていないようだった。

「休日は何をしているんだ」

「えっと、そうですね。僕は……」

 言葉が出てこない。いつもなら、営業で培った薄っぺらい話術で何とでも言えたはずだが、動揺で生まれた心の隙間の、その奥にいる空っぽの自分が沈黙となってこぼれていく。何も話せないまま体を固くしていると、ふうん、と鼻息の混じった声が正面から聞こえた。

「今の若者は趣味を持たないと、テレビで最近やっていたがあれは本当なのかね」

 誰も、何も言わないので上目で様子を窺おうとすると、父親の視線とぶつかった。自分に尋ねているのだと気づき、慌てて「そうだと思います」と答えると、また鼻息交じりの声を漏らしてから海老を口に入れた。最近の若者の傾向なんて、俺の知ったことではない。それに、俺たちはもう30歳になる。若者のくくりに入れるには無理が生じてきている。

「私がきみくらいの年齢のときは、カメラが趣味でね。それこそ正月には、大学の友人たちと山に登って初日の出を撮りにいったものだよ。そのときに身に着けた美的な感性というものが、この家の調度品とか、庭のデザインなんかにも生かされているわけだ。いい趣味が、いい人生をつくる。そのことをよく覚えておきなさい」

 俺は思わず母親の方を見た。夫の隣で彼女は、どこでもない場所を見つめて、数の子の卵をひとつひとつ機械のように口へ運んでいる。今、父親が生臭い息と共に吐いた"いい人生"とやらは、この女性の犠牲の上に成り立っていることは明らかだった。俺は、威厳ある風体が隠そうとしているこの男の内面の空虚さを透かし見て、深い失望をおぼえると共に、ある別の男のことを頭に思い浮かべた。この父親に比べれば、あいつの方が余程ましな人間だ。あいつは、成熟した大人とはとても言い難いが、少なくとも自分の人生を生きる上で、他人を犠牲にしたりはしない。

 と、そう考えた後で、他人の生き方を批判するのに、自分ではなく別の他人を持ち出していることが恥ずかしくなった。とどのつまり俺は、この男を否定できるほどの生き方をしていないのだ。

「私達は、きみと娘が結婚することに対して、賛成とか反対とか、そういうことは言わない。それはきみたちの決めることだからね」

 だったら何故、この家に俺を来させたのか。苛立ちを目の前の男にすべてぶつけるには、しかし、彼氏を連れてくるよう父親が電話をかけてきたという珠子の話の信憑性も薄く、俺は遣り場のない苛立ちを噛み殺すように、柔らかい豆を歯で強く押し潰した。

「ただ個人的に、一つだけきみにアドバイスしよう。きみは、もっと努力すべきだ」

 顔を背けるように庭の方を見遣ると、いつの間にか雨が降り出していた。手水鉢の水面に、小さな波が立っている。窓の外で鳴っている水の音を想像していると、父親が四匹目の海老を皿の上に箸で放り投げ、言った。

「今年のおせちは失敗だな。海老の殻は固いのに、身がこんなに小さい」



「失敗だったね」

 運転席で珠子が呟く。左右の人差し指が交互にハンドルを叩き、窓に打ちつける雨粒よりも低い音を鳴らしている。

「今年のおせちの話?」

「違う。バカ」

 信号が青に変わると、車体ががくんと揺れた。珠子の運転には感情が出過ぎる。彼女の父親に酒を飲まされさえしなければ、帰りも俺が運転する予定だった。冷たい窓に額をくっつけて、のぼせた頭を冷やす。

「わざとあんな喋り方してたんでしょ。結婚に乗り気じゃないのは知ってるけど、がっかりされるのは私なんだから。ちゃんとしてよ」

 結婚に対する気持ちが見抜かれていたのには少し驚いたが、上手く喋れなかったのはそれだけが原因ではない。彼女の父親と喋っている間、珠子は俺に対して何のフォローもしてくれなかった。彼女は要するに、未来の旦那を庇うよりも、実の父親に対して従順でいることを選んだのだ。珠子の中にある父への無意識の欲望は、俺と婚姻関係を結んだところで変わらないだろうし、むしろ強まるようにさえ思えたので、ますます自分の中で結婚というものの纏う憂鬱の色が濃くなっていたが、これ以上運転が荒くなるのは耐えられないから、俺は何も言わずに流れる景色を眺めていた。

 こんなときに限って赤信号に連続でぶつかり、不意に隣から聞こえてきた音がウィンカーなのか舌打ちなのか、判別できないでいると、珠子のスマホが震えて鳴った。彼女はダッシュボードの上に伏せていたそれを手に取り、通知が表示されているらしい画面を見つめて、再び元の位置に置くと、青信号に向かって緩やかに発進した。

 少しの間があってから、彼女が口を開いた。

「友達に誘われたから、今日の夕方から飲みに行ってくるね」

 耳を疑った。無神経な彼女への憤りは、しかしすぐにその"友達"に対する疑念に変わった。同居している彼氏に対する配慮も何も無しに、元日の夜に飲みに誘うような友人が彼女にはいるのだ。

 その友人はもしかすると、俺の存在を知らない人間なのではないか。交際相手のことを、珠子から聞いていないのではないか。もしそうなら、珠子はなぜ俺のことを黙っているのか。考えられる答えは、一つしかない。

「いってらっしゃい」

 想像が具体的な形になる前に、そう答えた。唇の前のガラスが白く曇る。頭の方から流れ落ちていく水滴を視線で追い、窓の下に消えていくのにあわせて目を閉じた。瞼の裏に、鬱陶しいエメラルドグリーンがちらちらと光り続けていた。



 家に着くとすぐ、珠子は化粧を直して服を着替え、何も言わずに出て行った。俺は、しばらく玄関の方を向いてぼんやりしていたが、ふと彼女の親に手土産を渡されたのを思い出し、その重い箱を包んでいた紙を無造作に引き裂いた。それはワインの詰め合わせで、洒落た小さな瓶が12本も入っていた。

 だがワインが好きではない俺は、特別な日のためにと買ってあった日本酒を棚から出し、瓶の口を咥えて傾けた。唇の端からこぼれた酒が、黒いソファを少し濡らしたが、構わずそのまま寝転がってテレビを点ける。初詣で賑わう神社の様子が映されており、いかにも平凡な一家がインタビューを受けていた。「今年の目標はなんですか?」「彼氏をつくることです」高校生くらいの女子が笑顔でそう答えると、隣にいた中年の女が「受験勉強でしょ」と呆れたように言う。横の男が笑い、インタビュアーが笑い、スタジオの笑い声がそこに重なる。しかし、娘の笑顔の中に、先程までは無かった孤独が滲んでいるのが俺の目には見え、深い同情を誘った。

 五年前、俺は彼女との同居を理由に実家を出た。それは自分にとって、過保護な母親からの逃避も意味していた。工場で働いていた親父は、勤務中に作業事故に遭い、俺が生まれる半年前に死んだ。そのことを知ったのは小学4年生のときで、遠足の行き先が醤油工場の見学に決まったことを伝えると、母さんは血相を変え、小学校に電話をかけた。

「はい……どうしても駄目なんです……あたしが……あたしが駄目なんです……」

 家では常に、自分のことを「母さん」と呼ぶ母の口から出る聞き慣れない一人称に、10歳の俺は何か、今までに感じたことのない薄気味悪さをおぼえていた。母さんは震える手で受話器を置くと、こちらに近づいてきて、真っ赤に腫らした目で俺を見つめながら父親の話をし始めた。長い、長い話だった。そのうち日が暮れて、母さんの体を後ろから照らしていたオレンジ色の光が、暗い夜の翳に変化していくと、母さんがみるみるうちに一人の女に変身していくような感じがして、気づくと自分の目からは涙が流れていた。その涙を母さんは、父親を喪った悲しみによって流れたものと解釈して俺を抱きしめた。その肉の柔らかさに、俺はますます恐怖した。

 だが、子供だった俺は自分のその感情を正しく理解できておらず、次の日になれば満点の答案を見た母親に頭を撫でられて喜び、中学生になればホワイトカラーの職に就くことにこだわる母の期待に添えるよう、必死に受験勉強に励んだ。そんな母親との関係に決定的な変化が訪れたのは高校2年生のときで、それは突然のことだった。学校から帰宅し、いつものように父親の仏壇に手を合わせていると、ふと、遺影の中のその顔が、自分の顔と随分似てきているのに気がついた。何だか気まずいような、変な気分のまま脱衣所に入って服を脱いでいると、パートから帰ってきた母さんが知らずにその扉を開け、裸の状態で目が合ってしまった。彼女の視線が、息子の肉体を上から下へ滑っていくのに気づいた俺は、恐ろしくなって浴室に駆け込んだ。その日は体を四回も洗った。

 それから俺は、髪にパーマをあてたり、髭を伸ばしたり、貯めていた小遣いで流行りの服を買ったりして、少しでも父親のイメージから離れようとした。だが、成熟しつつある息子の肉体に夫を重ねようとする母親の眼差しはいよいよ耐えられないものになっていき、そんな折に付き合っていた珠子から同居を提案されたので、それを絶好の機会として、あの檻のように狭いアパートの一室から脱け出すに至ったのだ。そのときも母は随分と渋ったが、そんな気持ちと生活に寄り添ってやれる余裕はもう無かった。

 他人を束縛するのを嫌う俺の性格の根っこには、母親に対する嫌悪感が多分にある。他人に犠牲を強いることを恐れるあまり、今は彼女の性欲の方向すらも縛ることができない。今夜、珠子はうちに帰ってこないかもしれない。それでも俺は、自分の母親や、珠子の父親のような人間には絶対になりたくない。だから、彼女への不安はすべて、酒で忘れてしまうのだ。



 気づくと時刻は21時を過ぎていた。日本酒の瓶は空になり、ゆらめく床を渡って酒を探し回ったが、冷蔵庫にも棚の中にも一本も無かった。虚空に向かって悪態をつきその場に寝転がると、ずたずたに破れた包装紙と箱が目に入った。それらを手で引き寄せて、中から瓶を一本取り出し、顔の前に掲げた。暗い瓶の中に閉じ込められた液体が、天井からの光を吸い込みながら揺れている。

 彼女が帰ってくる前に、すべて空にしてしまおうか。

 俺は自分の馬鹿げた思いつきに腹を抱えて笑った。その声は、部屋の壁に床に天井に跳ね返って、俺自身を哄笑する。

「笑ってんじゃねえ」

 いきなり真剣になった声色で呟き、床の上を這う。随分と高く見えるソファの上を、左手で探ると指先が濡れた。嗅ぐと、アルコールの匂いがする。その指を舐めながら反対の手を伸ばして、スマホを探り当てた。醜く割れた画面のヒビを、あみだくじのようになぞっていったら、右手の人差し指がメッセージアプリのアイコンに辿り着いた。特に何の思いつきもないまま、直近の会話履歴から一人の名前を選んでタップし、通話ボタンに触れる。

 電話はすぐに繋がり、スピーカーから「もしもし」と気怠げな声がした。とっくに味のしなくなった指を口から離し、鈍い脳を働かせて言葉を繰り出す。

「あー……お前、ワインって好き?」

 少し腫れぼったく感じる舌でそう言った。だが、ずっと電波のざらざらした音しか聴こえて来ず、今しがた俺が喋ったというのが嘘の記憶であるような気がし始め、もう一度言い直そうとすると、「まあ、それなりに」とようやく返事が聞こえた。

「今日中に消費したいワインがあるんだけど、うちに飲みに来ねえ?」

 またしばらくの間があってから、「いいけど」と返ってきた。俺は自分の家の最寄り駅だけ伝えて通話を切った。そして陽炎みたく立ち上がり、玄関脇のコートハンガーに掛けてあった上着を羽織って外に出た。

 小雨の中には雪が混じり始めていた。駅のホームの前、街路樹を囲う低い柵の上に座って待っていると、少し霞んだ視界の中に鮮やかな赤色が映り込んだ。俺は膝についた白い氷の粒を払い落とし、立って自分の家の方向へと歩き出した。

「酒くせぇ」

 山碕が俺の横につきながら呟いた。そうかな。と俺は言ったが、恐らく向こうには聞こえていなかっただろう。別にどうでもいい。それ以降も特に何の会話もないまま、俺の家に着いた。

 部屋に入ると、山碕は濡れたジャケットもデニムキャップも脱がずにソファに座った。俺はテーブルの上に12本の瓶を次々と並べ、キッチンからペアグラスを持ってきて桃色のそれを俺の側に、青色のそれを山碕の側に置いた。

「レス、モウティンス」

 山碕は、間違ったフランス語の発音で独り言ちながらワインの栓を開けて注ぐ。俺は床に座り、ソファの肘掛けに頭をもたれて別の瓶を開栓した。それからしばらく、グラスがテーブルにぶつかる高い音ばかりが部屋に響いていた。



 脳がアルコールの海に浸り、風景が波打ってきた頃、山碕が伸ばした舌の上で空の瓶を振り、一滴も落ちてこないのを確めてから立ち上がった。

「そろそろ終電だから帰る」

 時計を見ると、針は12の文字を差そうとしていた。しかし箱の中には未開栓の瓶がまだ5本も残っている。

「泊まってけよ。どうせ明日も用事ないんだろ?」

 山碕は帽子のつばを少し持ちあげ、前髪の生え際を小指で掻きながら部屋を見回した。

「彼女は?」

「今日は帰ってこないよ」

 その言葉に対して、山碕が珍しく驚いた様子で少し目を見張っていたが、それよりも俺は自分の舌が酔っているとは思えないほど滑らかに動いたのにびっくりしていた。何だか、喋っているのが自分の口ではないみたいだ。

「今頃、前の彼氏とセックスしてんだろうな」

 よく回る口でそう言って笑うと、山碕は気まずそうにキャップを被り直し、こちらに背を向けて反対側の肘掛けにそっと腰を下ろした。それは、普段の無関心と比べると少し意外な仕草だったが、とはいえ想像の範疇から完全に逸脱しているわけでもない。俺は8本目のワインを箱から取り出してキャップシールをナイフで切り、コルクにスクリューの先端を突き立てた。

「知ってるんだよ、珠子が半年前から浮気してること。そいつがまた金持ちなんだけど、オカルト趣味というか、変に信心深い奴でさ。誕生石のエメラルドをずっとブレスレットにして身に着けてる。服とかも緑色が入ったものしか着ない。一回会ったことあるけど、キ〇ガイかと思った」

 開けた瓶に直接口をつけて飲む。白葡萄のフルーティーな香りが鼻に抜ける。

「そんな気味の悪い奴と浮気するなんて、あの男、よほどセックスが上手いんだろうな。うーん」

 俺は山碕の背中を横目で見た。ジャケットの赤い生地がてらてらと光っている。

「まあ童貞のお前にそんなこと言っても仕方ないんだけどさ」

 沈黙が、アルコールの分子と共に充満し、もしあと一つ何かが付け加われば、この部屋が俺の人生ごと吹き飛びそうだ。そんなことを考えながら、山碕のジャケットの表面に反射する光を見つめ続けていた。

 すると急に、赤い背中がぴかぴかしながら浮き上がった。俺は酒瓶を持ったまま立ち上がり、山碕の腕を左手で掴んで思い切り引いた。その体はあっさりと後ろ向きに転がって、肘掛けの上で尻餅をつき、ソファのクッションに仰向けに倒れた。

 すぐさま俺は体の上にしかかり、右膝を外側から脚で挟んで固定し、左肘を手で上から押さえつけた。もがく左脚と右腕の攻撃に耐えながら、俺は右手に持っていた瓶を傾け、聞き取れない言葉をわめく口の中にその中身を注いだ。噴き上がった酒がまたしてもソファを濡らすが、構わず飲ませ続けた。

 やっと空になった瓶を床に転がし、自由になった右手で暴れ回る腕を押さえる。それでも逃げようとする山碕は、体を捻って上の方に少しずつ動いていく。すると頭がソファの内側の角にぶつかって、古びたデニムキャップが顔面に覆い被さった。

 両手が塞がっていた俺は、帽子のつばを犬みたいに咥えて投げ飛ばした。久しぶりにまともに向き合ったその目は、全体的にうっすらと充血していたが、瞳は相変わらず黒く澄み切っていた。母親以外の生身の女の裸を知らないその瞳が、俺の姿を映しながら微かに震えている。

 笑いながら俺は言った。

「セックスしよっか」

 その声は部屋の、壁と床と天井と、山碕の体に跳ね返り、嘲るように俺を笑った。

「笑ってんじゃねえよ」

「笑ってない」

「笑ってんだろ。本当は」

 日焼けしていないこめかみに唇を押し付けて吸うと、酒と汗の味が口の中に入ってきた。朝に食ったおせちよりは美味い。口を少し動かす度に、押さえつけた肉体が強張るのを感じながら俺は、彼女とのそれとは違った昂揚感をおぼえていた。

 それは、相手に変化を与えることへの悦びだった。決して消えない標を刻むことへの快楽だった。他人と深く交わることで、自らの内に否応なく生じていく変化を、その苦しみを、この男にも味わわせてやりたい。できれば自分の手で、そしてできるだけ残酷な形で。心の奥底で抱いていたそんな願望が今、現実のものになろうとしている。

 俺は変わってしまった、母親のために、珠子のために。変わったものはもう元に戻れない。だから最後の手段として、変わらないままでいるものを、自分の手で変えてしまうのだ。それで自分が得るものは何もない。だが少なくとも、嫉妬心は紛れる。狂いそうになるほどの、この嫉妬心は。

「よかったなあ、お前……お前、今日で変われるよ」

 そう囁いてから、舌をジャケットの襟に隠れていた首の上に滑らせた。白い皮膚の内側で下っていく唾液の流れがはっきりと感じ取れる。肉体が、いよいよ俺の支配下に置かれつつある。そんな風に思う。

 すると、口の真横で喉仏が動き出した。

「変わりたくない」

 声帯の振動が唇に伝わってくる。その言葉に若干、興を削がれた俺は口を離して、山碕の顔を見上げながら言った。

「甘えたこと言ってんじゃねえよ。そんなんじゃお前、いつまで経っても……」

「変わりたくない。俺も、お前との関係も」

 そう言うと同時に、眼球の表面にうっすらと水が張って、きらきらと光り始めた。その水は段々と分厚くなり、張力を破って、目の縁からこぼれそうになる。

 思いがけない涙に怯んだ俺は、頭を持ちあげて山碕の顔を正面から見ようとした。その途端、みぞおちに弾を撃ち込まれたかのような衝撃をおぼえた。霞む視界の中、俺の腹にめりこんだ山碕の膝がかろうじて見えた。

 次の瞬間、胃を満たすアルコールが体の内側を上昇してくるのを感じ始めた俺は、立ち上がって急いでトイレへと駆け込んだ。



 便器の底の濁った水を見つめながら、酒瓶を空にするのなら最初からここに流してしまえばよかった、と自分の浅慮を呪った。しかし、それをしたところで、一体何の意味があるだろう。何をしたって、俺も彼女ももう、時間の流れには逆らえないのだ。そう思ったとき、また胃から込み上げてくるものがあって、水底をさらに濁らせた。

 背後から影が射した。一瞬、珠子が帰ってきたのかと錯覚したが、固い手の平が背中に触れて、俺の体をさすった。

「俺、お前に憧れてた」

 その声は、かつて居酒屋で手を真っ赤にさせながら言ったときのものと若干似通っていた。

「今も……まあ、ほんのちょっとだけな」

 山碕はそう言って、少し鼻で笑った。摩擦のせいか、背中が熱くなる。

「慰めのつもりかよ。糞童貞」

 俺は焼けた喉で悪態をついて、便器の中に酸っぱい唾を吐いた。山碕は、何も言わずにレバーに手を伸ばし、水を流した。

 気づけば元日は過ぎ、俺たちは初夢を見逃した。

この作品は別サイトにて2022年12月21日に投稿したものです。

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