藤色の愛をあなたに────×××
────"あやめお姉さま"……藤野あやめお姉さまは、ここ私立星花女子学園の中でも有名な"お姉さま"のうちの一人だ。容姿端麗、才色兼備な方なのに、それを鼻にかけることもなく、どの生徒にも平等に優しい"みんなのお姉さま"。どんな方にも物腰柔らかく接していらっしゃる、私の尊敬するお姉さまだ。
それでも時々────本当に時々なのだけれど────私はあやめお姉さまといると、妙に落ち着かない気持ちになってしまう。それは他のお姉さま方に感じるような、恋や憧れのように酷く甘酸っぱいものではなくて、どこか冷静に観察し私を支配しようとしているような、そんな身の危険を知らせてもいるような落ち着かない気持ちだ。
真綿で首を優しく絞められているような、酷く息苦しくて落ち着かない気持ち。それでもあやめお姉さまに対する抗いがたいほどの強烈な魅力を感じるのは、ある種洗脳と言っても差し支えないものだった。あやめお姉さまと一緒にいる時は、彼女の一挙手一投足にまるで思考が奪われたように心酔してしまうのに、彼女と離れた瞬間から妙な空虚感でいっぱいになってしまう。確かにお姉さまは優しくて美しいけれど、彼女から時折発される言葉はまるで「支配」の言葉だ。どんな人間だって尊厳があって、自分が支配されていると思えば抵抗したくなるだろう。それなのに、あやめお姉さまから発されるとそれが酷く心地良いもののように思えてしまう。あやめお姉さまが甘く私に囁くことを、どうしようもなく望んでいる。真綿を自分で用意して、あやめお姉さまに絞めて貰える日を心待ちにしている────まるで、そうされることが当然だったみたいに。
きっと女神様がいらっしゃるのならあやめお姉さまのような姿かたちをしているんだわ、と私たちは口々にそう言っていた。だってあやめお姉さまが笑いかけるたびに、あやめお姉さまが何か言葉を発する度に、頭の中がお姉さまで満たされていくのだから。
(あやめお姉さま、あやめお姉さま、どうか私たちを見捨てないで。あやめお姉さまがいらっしゃらなければ、私たちは息も出来ないのだから)
私たちは例えるのなら、私立星花女子学園と言う小さな箱庭の中であやめお姉さまに遊んで貰える日を心待ちにしている人形のようなものだった。それでも人形としての役割を果たしてさえいれば、お姉さまは私たちを見捨てはしない。見捨てられない間はお姉さまのあの慈愛に満ちた笑顔も、優しい声も、愛情も、私たちだけのものなのだから。
────朝、登校時の生徒が増え始めた頃、私を含めた中等部生・高等部生はずらりと一列に並ぶと"ある人物"を待つ。私も含めた全員が、まるで夢でも見ているような期待と崇拝を混ぜた表情をしながらある一点を見つめていて。やがて誰かが「あっ!」と小さな声を上げると、一斉にそちらの方へ向かって視線を向けた。
「あやめお姉さま、ごきげんよう!」「ごきげんよう! あやめお姉さま!」「ごきげんよう!」
皆が一斉にそう言うと、渦中の彼女────あやめお姉さまは、あの穏やかな表情を崩さないまま「ごきげんよう、皆さん」と言って柔らかく微笑む。彼女の長く美しい髪が、その動きに比例して柔らかく揺れた。
「あやめお姉さま、放課後、皆さんでお茶をしに行きませんか?」「あやめお姉さま、私、新しい押し花の栞をお姉さまと作りたいわ! 一緒に作りませんか?」「お姉さま」「あやめお姉さま」
皆が口々に声を上げる姿は、まるで金糸雀のようで。私も負けじとお姉さまの名前を呼べば、お姉さまはそれぞれのお話にきちんと丁寧に答えてくださりながら、柔らかく微笑んだ。
「素敵ね、どれも楽しそうだわ。……今日はどれにしようかしら?」
楽しそうなことが沢山あって困ってしまうわねと言うと、あやめお姉さまは薄く形の良い唇の端をきゅっと釣り上げてふふっと笑う。それはどこか作り物めいているほどに完璧で、私はそんなお姉さまの表情に脳の奥が甘く痺れていくのを感じていた。
「……貴女はどれがいいと思う?」
不意にこちらに問い掛けるようなお姉さまの言葉に、私は思わず間の抜けた声をあげてしまう。まさかお姉さまがこちらに尋ねることは無いだろうと思っていたから。
「わ、私でしょうか?」「ええ、貴女よ。────私は今日、どれをすればいいと思う?」
あやめお姉さまの柔らかい声は、まるで藤の花のように甘く私の脳に囁いてくる。私は逃げ道を探すように視線をさ迷わせたが、目が合う者は皆 私の言葉を急かすことなく、固唾を飲んで待つ者ばかりだ。だって、あやめお姉さまが誰かが話している時には一言も発さないように私たちに言いつけられたから。私たちは従順に、粛々とあやめお姉さまの言いつけに従っていかなければならないから。
私は頭の中でせわしなく思考を巡らせながら、何とかあやめお姉さまの期待に添えるような回答を探す。お茶はこの間もしたばかりだし、花の命を手折ってしまう押し花の栞づくりは園芸部のお姉さまからすると気分の良いものではないかもしれない。あちらを立てればこちらが立たない提案ばかりを吟味した末に、私は恐る恐る回答を口にした。
「────あ、あやめお姉さまがお好きなものがよろしいかと」
自分の声が、僅かに震えているのが解った。口にした瞬間、自分の回答が何の解決策にもなっていないことに気が付いたからだ。いつの間にか俯いていた私は、恐る恐るあやめお姉さまの方に視線を向けると、あやめお姉さまは相変わらず慈愛に満ちた表情のまま「そう」と優しく呟いた。
「────でも困ったわ。好きなものばかりだから、貴女に尋ねたのに。……ね? 桔梗さん」
あやめお姉さまの言葉に、思わず背筋に嫌な汗が伝ったのが解った。そう、私の解決策は提案であるように見えて、実際は何も解決していない。あやめお姉さまが私に考えるように言ったものを、私はそのままあやめお姉さまに返しただけだ。相談事に自分で考えろと返されては、優しいお姉さまも困るだろう。
「あ、あの……」「ええ、何かしら? 桔梗さん」
焦ってしまった私は慌てて言葉を紡ごうとするが、うまく言葉が見つからない。周囲の上級生のお姉さま方の視線が、まるで背中に突き刺さるようだ。お姉さま方が、私を見ている。私の言葉を待っている。私の解決策を実行しようとしている。早く、早く何か考えなければ。思考は急速に回っていくのに、解決策は一向に思いつかない。……そもそもこの問題に解決策なんてないのではないかという気さえしてしまう。
私は間の抜けたような「あ」とか「う」とか、そんなおよそ言葉とは言い難いものを発してしまう。お姉さまの時間を奪ってしまっていることが解るのに、それをどう解決すべきかわからない。思考をぐるぐると回しながら、口を開こうとした────時だった。
「────ふふ、かわいい子ね。まるで野うさぎみたいだわ」
あやめお姉さまはそう言うと、私の額を優しくハンカチで拭う。火照った頬に、あやめお姉さまの細く冷たい指が触れたのが妙に心地良かった。
「そうね。好きなものが翌日も変わらずに好きだとは限らないもの。皆さんに提案して貰ったことを、一週間の放課後の予定にすれば良いのよね。素敵な提案をしてくださってありがとう、桔梗さん」
お姉さまがそう言うと、間髪を入れずに「はい。ありがとうございます、桔梗さん」とヒバリのような返事が聞こえる。お姉さまの問いかけには必ず答えなければならない、お姉さまに感謝された人間には同じように感謝を返さなければならない────それは、私たちのようなお姉さまを慕う集団にとって、お姉さまに呆れられてしまわないための暗黙のルールだった。
あやめお姉さまの優しい声が脳に浸み込むように侵入する。お姉さまの声が、私の頬に触れる細い指が、体の中の今まで誰にも触れられなかった部分を優しく撫でられたような感触を残していく。それは快感と言うには薄く、恋と言うにはあまりに甘く、だからこそこの妙な心地良い感覚に恐怖心さえ抱いてしまう。頭の中が"お姉さま"で酔っていくのに、抗うことができない。それが、お姉さまに好かれる人間なのだと言うことは、頭のどこかで解っていた。
お姉さまを慕う集団にはお姉さまの提案に異を唱えるものは一人もいない。いたのかもしれないけれど、そう言ったお姉さまを傷つける危険な人間はいつの間にか黙らせられているか排除されている。お姉さまと私たちの世界には、お姉さまに異を唱える人間は存在してはいけないのだから。
「────ありがとう、皆さん。私はもう大丈夫だから、ご自分の教室にお戻りになってね」
私たちはお姉さまが教室に入られたのを見届けると、「ごきげんよう」と互いに言葉を交わして自分の教室へと戻っていく。チェックのスカートがふわりと風に舞って、長い髪が背中で揺れた。お姉さまを慕う人は皆お姉さまのように髪を伸ばしている方ばかりだから、後ろ姿だけを見るとお姉さまそっくりだ。私もそう見えていればいいのにと思いながら、自分の教室まで続く廊下を歩いていく。
不意にぐっと喉が締め付けられるような息苦しさを感じて自分の喉を擦るものの、当然のことながらそこには何もない。私は妙な息苦しさを誤魔化すように小さな咳をひとつすると、中等部へと続く廊下を歩いた。
窓の外には、柔らかな春の風に青い若葉が揺れている。その柔らかな葉を食む虫を視界の端に捉えると、私はふいと視線を逸らした。
────食べているのはいったいどちらかしら、なんてぼんやりと思いながら。