雪は藤色のなか────雪瀬 冬樹
────冬樹、あたし、冬樹のことが大好きよ
冬樹、と家族以外の人間に少し甘えるような声で呼ばれていたのは、もうだいぶ前のことだった。さらりとした黒髪が揺れ、少しはにかむような顔でそう呼ばれる瞬間に、僅かに心の奥が擽られるような妙に居心地の悪い気持ちになったことを覚えている。それは、自分が他人から愛情を注がれるような価値のある人間ではないと頭のどこかで考えていたからなのかもしれないけれど。
────物好きだね
その言葉にそう返してしまったのは、皮肉ではなく本心だった。家族にですら「可愛げがない」と言われるような面白味のない人間に対してそんなことを言う彼女は、変わった女だと思っていた。
あたしがそう言えば、彼女は「そうかもね」と言ってくすくすと笑いながら煙草に火をつける。ラム酒のような少し甘い香りと紫煙が部屋に広がっていくのをぼんやりと見つめながら、いつしかそれに咳をしなくなった自分に少しだけ嫌気が差した。
八歳年上の姉の友人と付き合ってから、今年の春でもう四年になっていた。十六歳の頃から付き合い始めて、今年で十九歳。告白なんて生易しいものではなく、まるで絡め取られるように始まったこの関係をあたしは少しだけ気に入っていた────彼女が実際のところどう思っていたのかは、わからないままなのだけれど。
────煙草、高くない?
彼女の形の良い唇が黄土色のフィルターを挟むのをぼんやりと見つめながらそう言えば、彼女はふっと紫煙を吐き出して「たかーい」と言って笑う。彼女の吐き出した紫煙が、部屋の天井に向かってゆっくりと移動していく。
────でも、社会人には煙草でも吸わなきゃやってらんないってこともあるんだよ。冬樹みたいなコドモには解んないかもしれないけどさ
にやにやとこちらを見ながらそう言う彼女に「馬鹿にすんな」と頬を軽く抓れば、彼女は「やだ、反抗期?」と首を竦める。かちりと視線が絡んだ瞬間に伸びてきた手が柔らかく頬に触れて、思わずぴくりと小さく肩を跳ねさせてしまえば、薄く形の良い唇が自分の唇に柔らかく触れたのが解った。互いの舌の表面が合わさってざらりとした感触がして、口内に微かな苦みが広がっていく。
微かに上がっていく彼女の息遣いと静かな部屋に響く微かな水音に、皮膚がぞくりと粟立つ。彼女が離れていかないようにぐっと後頭部を抑えれば、反射的に自分を押し返そうとしていた彼女の手がぐっと自分の胸を押し返して、やがて諦めたように手を下ろした。
目の前で頬を上気させるこの女が、まともじゃないことなんか理解していた。これが恋なのか、それとも互いに満たされない心の穴埋めをしているだけなのかは解らない。それでも一人きりよりは二人きりの方がずっと満たされるし、ひとつをひとりで食べるよりはひとつをふたつに分けた方が罪悪感も減る。そんな誰に聞かせるでもない言い訳を頭の中で並べながら、そんな自分の思考をかき消すようにさらに口づけを深くした。
逃げられなくなってしまえば良いと思った。癒着してしまうようにひとつの形になってしまえば、苦しいことも、逃げられないか不安になることもない。逃げられなければ、傷つくことも、失敗することもないのだ。
(……君もあたしも、お互い以外見えなくなってしまえばいいのに)
頭の中が、まるで彼女と一緒に吸った煙草の紫煙のように白んでいく。酸欠だと冷静な自分が訴えて、どうでもいいと熱に浮かされた自分が答えていた。
(────どうでもいい。どうせ恋愛なんて、みんな常に酸欠なんだから)
これが恋なのかもわからない癖に、と冷静な自分が呟く。そんな自分自身に、小さく笑ってしまった。
────とは言えその数か月後の春には、彼女に「結婚したいから」と言ってフラれてしまったのだけれど。
「────き、ユキちゃん」
少しあどけなさの残った声が聞こえてゆっくりと目を開ければ、目の前には彼女────ではなく、姉の娘の顔が覗き込んでいて。少し寝ぼけた頭で「……どうした?」と尋ねれば、彼女はテレビを指さしながら「終わった」と国民的ヒーローアニメのDVDの再生画面を指さしていて。もうそんな時間かと思いながら小さく欠伸をすれば、携帯の着信画面に【姉】と表示されたのが解った。
「もしもし? ……うん、今DVD見せてたとこ。……そう、夕飯食べさせようか? ……うん、じゃあ」
ピ、と無機質な音とともに電話を切れば、こちらを不安げに見つめる姪の様子が見えて。「……ママちょっと遅くなるから、今日はユキちゃんがご飯作るね」と言えば、間髪入れずに「オムライス!」と返って来た言葉に、ふっと小さく笑った。
「……くまさんオムライス?」「うさぎさんー!」「いいよ」
髪を結んでエプロンを付けていたあたしの裾を引っ張り「あたしもやりたい」と言う彼女のために子ども用のエプロンを出してやりながら、自分も紺色のエプロンを身に付ける。卵を割ると、菜箸で先程までの夢をかき消すように混ぜた。
「────ばいばーい、ユキちゃん」「うん、またおいで」
20時ごろ迎えに来た姉に連れられて帰っていく彼女を見送ると、あたしは玄関の鍵をかけてベランダに出る窓を開ける。夜風が柔らかく髪を揺らすのを感じながら、そっと煙草に火をつけた。
春の柔らかな風に乗って、吐き出した紫煙が消えていく。アパートの角部屋かつ左隣の入居者は先日引っ越してしまったから、気を遣うこともない。裏返せば、だからこそ吸いすぎてしまうのだろうけど。
温暖な地域の空の宮は、春にはもう桜の花はほとんど散ってしまう。緑色に色づいた街路樹をぼんやりと見つめながら、ふと、先程見た夢の言葉を思い出した。
「────確かにやってらんないよな、大人って」
小さく呟いた自分の言葉は、吐き出した紫煙とともに夜の町に溶けていく。通り過ぎていく車のヘッドライトの明かりが、彼女から教えられたまま何となく変えられずにいる銘柄を照らしていた。