婚約破棄されそうでされない、少しされるかもしれない令嬢の話
「アニエス! お前のような悪女との婚約は解消させてもらう!」
「異議あり!」
部屋の中に転がり込むように乱入してきたのは、ヴァーノン殿下だった。
「で……殿下? 」
私に婚約破棄を言い渡し、得意げな顔になっていた婚約者は目を丸くした。もちろん、私も驚きでポカンとなってしまう。
「……何故ここに?」
「アニエスの危機と聞いて参上した! ……アニエス、私が来たからにはもう大丈夫だぞ」
「は、はあ……」
自信たっぷりに笑う殿下に対し、私は曖昧に返事する。婚約者は納得がいかないような小声で、「何だこいつ……」と言っていた。
「ところで殿下、先ほどの『異議あり!』とは、どういう意味ですか?」
「君はアニエスを『悪女』と言っただろう。その意見には賛成できないということだ」
ヴァーノン殿下は私の婚約者を押しのけて無理にスペースを作り、当然のようにソファーに腰掛けてしまった。どうやら彼も話し合いに参加する気満々のようだ。
何だか変な展開になってしまったと思いながら、私は婚約者に質問する。
「どうして私が悪女なんでしょう?」
「ご、ごほん。知りたいのなら教えてやる!」
ヴァーノン殿下にソファーの端まで追いやられてしまった婚約者が、気を取り直すように咳払いした。
「僕はある噂を耳にしたんだ。アニエス、お前は自分の家の使用人をいじめて泣かせたんだろう。そんなことをする女が、悪女じゃないわけあるか!」
「それは……」
「異議あり!」
私は反論しようと口を開いたけれど、先にヴァーノン殿下から大声が飛んだ。
「アニエスは他の使用人にいじめられていた子を庇っただけだ! 疑うなら証拠を見せてやろう!」
ヴァーノン殿下が指をパチンと鳴らす。すると、どこからともなく黒服の男性たちが私の家の使用人を連れて部屋に入ってきた。
「アニエスお嬢様は、私を助けてくださいました」
まさかの事態に戸惑う私と婚約者を余所に、使用人は証言を始める。
「お屋敷にいるのは意地悪な先輩ばかりです。でも、アニエスお嬢様がお優しくしてくれるから、私は頑張れるんです」
「ご苦労、下がっていいぞ」
黒服さんたちに連れられて、使用人は帰っていく。ヴァーノン殿下はしてやったり、という顔で婚約者を見た。
「あの……殿下、彼女は……」
「アニエスの黒い噂ならまだあります!」
どうやってうちの使用人を連れてきたんですか? と質問しようとしたけど、婚約者は話を先に進めることを選んだらしく、険しい表情になる。
「アニエスは下級貴族に暴言を吐いたのです! 『馬糞をぶちまけるわよ』と!」
「それだったら……」
「異議あり!」
私の反論は、またしても殿下に遮られた。
「証人召喚!」
殿下がまた格好よく指を鳴らし、黒服さんたちがある貴族令息を連れてきた。
「ア、アニエス様は悪い人じゃねぇだ」
令息はつっかえながらも懸命に話す。
「おら、田舎から出てきたばっかりで、皆にバカにされてたけど……アニエス様は気さくに声をかけてくれただ。『作物に元気がないの? それなら、畑に馬糞を混ぜてみたらいかが?』って……」
「よく証言してくれた。帰っていいぞ」
令息が退出する。ヴァーノン殿下は得意げな顔だった。
「な、なら、これはどうです!」
婚約者はまだ諦めない。……って言うか、私に関する悪い噂、どれだけあるの?
「これは殿下の妹君に関係することです! 恐ろしいことに、アニエスは姫様を突き飛ばして転ばせたのです!」
「それは言いがかりです! 私はただ……」
「異議あり!」
どうも、ヴァーノン殿下は私に証言させる気はないらしい。人差し指をビシッと立てて、婚約者に突き立てる。
「妹よ、出番だ!」
「承知しましたわ、お兄様!」
黒服さんたちにエスコートされた姫が颯爽と登場する。
「アニエスはわたくしの命の恩人ですわ。彼女が突き飛ばしてくださらなかったら、わたくし、落ちてきたシャンデリアの下敷きになっていたに違いありませんもの」
ではごめんあそばせ、と言って姫は優雅に退場した。
何か聞くなら今しかないと思い、私は急いで殿下に質問する。
「ヴァーノン殿下……。何故こんなに都合良く証人を召喚できるんですか?」
「それはな、アニエス。私がいつも君のことを見ているからだ。そして、君が窮地に陥った時にすぐに助けられるように、普段から周囲に根回ししていたんだよ」
「ま、まあ。殿下ったら……」
意外な答えに頬が熱くなる。そこまで私のことを思ってくれる人がいたなんて……。
それに比べて私の婚約者はどうだろう。私は、彼から気持ちが徐々に離れていくのを感じずにはいられなかった。
「で、でもほら、アニエスって見た目があんまりでしょう」
もう私を断罪するネタが尽きてしまったのか、婚約者はどうでもいいことに対して難癖をつけてきた。
「顔立ちがモブっぽいというか……」
「異議あり! これを見てみろ!」
ヴァーノン殿下が指パッチンする。今度は黒服の女性たちがやって来て私を立たせ、その周りを衝立で囲った。
「あ、あの……?」
「動かないでくださいまし」
髪型をいじられ、白粉を塗られ、着替えまでさせられる。何が起きているのか分からないままに、衝立が取り去られた。
「な、何だと……!」
婚約者が間抜けな顔で固まっている。私は部屋にあった姿見に視線を移した。
フリフリのドレスを着て髪を縦ロールにし、ケバいメイクを施した私は、確かにモブとはほど遠い見た目に早変わりしている。……いや、これ本当に私?
「正直に言ってすごく好み……い、いや、僕は騙されないぞ!」
婚約者は気合いを入れ直すように、両頬を手のひらで叩いた。そんなに私との婚約を解消したいのかしら……?
「これは言い逃れできないだろう! 先週の僕の誕生日に、アニエスがくれた絵だ!」
婚約者は、ソファーの後ろから一枚の絵画を取り出した。
「アニエス、お前は絵が得意だったはずだ。なのにこれが僕の肖像画だって?」
婚約者はキャンバスを叩く。
「輪郭はズレてるし、横顔を描いてるのかと思いきや、口は正面から見た構図になっている! 目の高さだって左右で違うじゃないか! 僕はこんな怪物みたいな顔はしてないぞ! これを侮辱と言わないで何と言うんだ!」
「そ、そんな……」
渾身の力作を批判され、私はショックを受けた。もはや作品の解説する気も起こらない。けれど、またもや殿下は「異議あり!」と言ってのける。
「これだから芸術を解さない者は……。分からないのか? これぞアートの新しい境地だ!」
「アートの新しい境地……?」
「その絵は、あらゆる角度から見た対象をキャンバスの上で再構築したものだ! これこそ芸術! 分解と結合! 破壊と再生! 二次元ではなく三次元……いや、四次元的ですらある! そんな複数の次元を画面上に収め、これを再び一つの次元に収束させようと……」
美術館に置いてあるガイドブックに載せられそうなほどの熱い演説をかましながら、ヴァーノン殿下は指を鳴らす。
黒服さんたちが次々と絵を持ってきた。全部、私が婚約者の誕生日に贈った絵と同じタッチで描かれた絵画だ。
「これは宮廷画家の作品だ」
もういいぞ、と言って、殿下は黒服さんたちを帰らせた。
「物分かりの悪い君にも理解できるように言ってやろう。つまりアニエスは、優しさと深遠なる知識と美しさと卓越した芸術の才能を持って生まれた、千年に一人の逸材なのだ!」
「そ、そうだったのか……!」
婚約者は雷に打たれたような顔になっている。褒め言葉をこれでもかと並べられた私は、何だかこそばゆくなってしまった。
ふと、婚約者が恍惚とした表情で私に向き直る。
「アニエス……どうやら僕はお前を分かっていなかったようだ。やっぱり、婚約の解消はなかったことにしよう」
「異議あり!」
「えええぇっ!? 何で!?」
殿下が割り込んできて、婚約者は顔を引きつらせた。
「そこは『異議なし!』でしょう! もう僕はアニエスの素晴らしさに気付いたんですから!」
「今さら遅い! 君みたいな男にアニエスを任せられるか! アニエスは私がもらっていく!」
「どうしてそうなるんですか!? アニエスは僕のものです!」
もはや、何が何だか分からない。今度は何故か三角関係が始まってしまった。……いや、そんなことを言ったって、私の心はもう決まってるんだけど。
「あの、すみません」
ヴァーノン殿下を見習って、次は私が二人の間に割って入ることにする。
「盛り上がってるところ申し訳ないのですが、何だか収拾がつかなくなってきたので、もう一度、初めからやり直しませんか?」
「そうだな。実は、僕もちょっと混乱してきたところだった」
婚約者は姿勢を正した。ヴァーノン殿下は律儀にも退出していく。『婚約破棄テイク2』の始まりだ。
「えー、アニエス! お前のような悪女との婚約は解消させてもらう!」
「まあ、どうしてですか!」
私は本来言うはずだったセリフを口にした。婚約者は、「心当たりがないのなら、特別に教えてやろう!」と返す。
「お前は数々の悪事を働いた! ええと……僕の誤解だったが使用人をいじめ、これまた僕の勘違いだったが下級貴族を脅し、人命救助のために姫を突き飛ばし、オシャレをすれば存在感が出て、最高のアートを生み出してくれた! よって、お前との婚約は解消させてもらう!」
「はい、謹んでお受けいたします」
「そうだろう、そうだろう。やっぱりお前も婚約解消は嫌……って『お受けいたします』!? 何を言っているんだ!?」
婚約者はのけぞった。私は腕組みする。
「だって、ろくに真相の確認もしないで、相手を疑うような人って最低じゃないですか。……ヴァーノン殿下もそう思いますよね?」
「異議なし!」
部屋にヴァーノン殿下が入ってきて、大きく叫ぶ。彼はそのまま私の足元に跪いた。
「君は素晴らしい女性だ。愛しているよ。どうか私と婚約してくれ」
「もちろん、異議なしです」
私たちは愛を誓い合う。フラれてしまった元婚約者は、我に返ったような表情で「異議あり!」と抗議した。
けれど、私たちはそれを聞く気はない。
二人揃って無視を決め込んで、喚く元婚約者を黒服さんたちに押さえ込んでもらいながら、私たちは浮かれた足取りで部屋を出たのだった。