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死華

作者: Alecsandra

 誠に清かな沈黙を、鄭重に奏でる稚き華があった。

 四海八荒に咲乱れた幾億の華々の中に、やや稀代な甚美さを傲慢に連ね、輝かせて、高楼の遥か楼下の朧げの如きに、それは清かに佇んでいた。

 その強かな華の様には、人は誰しもが幽邃な恍惚を持つことを禁じ得なかっただろう。 譬えれば、清歡な恍惚に染上げられた私という己の鏡は、烟が甚だしく蓋って不鮮明であった如く、その痛々しいほどの恍惚的執着に逃避したことが、決して己の冷静沈着な決断の賜物であったと盲信することは容易であった。

 結果、それが私というものの存在を酷く卑しめる肯定であったのだという公明の事実にも、全くもって対峙しなかったのだという自身の滄桑たる堕落の破片にも成り下がった。 今はただ、無聲の角落に於いて、私は嘆息を戒めて楼上の有り様を仰ぎ、愛を貪り、戡殄し、それらを愛しげに瞪た。

 それだけが、私にとって最大限の哀求であった。


 「──私はね、もうどうなっても構わないんだよ」

 華抄はそう冷漠に言い放つと、深紅の消えうるように淋しい外套を深々と羽織り、茜色の空を後景に、翡翠に染った黑髪を靡かせてよろよろと立ち上がった。

  「翔成が決めて欲しい。あなたが永濛術に翻弄され続けるのなんて、もう──」

 「そんなこと、全部分かってるよ」

 遠くの、遥か先の雲翳の彼方からは、烏の啼く聲が聴こえていた。耳元を舐め回すような姦しい諠鬧は何もかもが届かず、僕たちをたった二人だけ残して深閑としていた。⻩金色に彩られて輝く高層ビルの頂上から、見るに耐えないその爛々として壮観な光景を、僕たちを透過して吹き荒れる朔風と共に、静かに聴き守っていた。楼下の紅に染った街並みを黙々と俯視しながら、今だけは、彼女の話を遮らなければ良かったと後悔した。

 僕は深淵から澎湃として湧き上がる数多の感情を押し殺しては、彼女の靡く髪先を眺めながら乾き切った眼を瞬こうとした。雪白の鮮麗な指先を柔らかくゆっくりと握り締めるようにして胸元へ抱き寄せる仕草を見て、僕の中心にある蠢爾な感情が押し潰されそうになりながら必死に黙した。

 「永濛術のことは、もうこれ以上私たちだけの問題に留めておけなくなる。惟瑤だって──」

 そう言いかける彼女を、僕は咄嗟に勢い良く押し倒して、左手を力強く華抄の口に押し付け、塞いでしまった。華抄の髪先が揺らりと浮いて、僕の左頬にそっと触った気がした。華抄の、何にも形容し難いような甜く暖かい馥郁とした香りが鼻の奥をついた。僕は悪寒を感じて、思わず目を強く瞑った。華抄は床に身体を強く押し倒されて、片手を微小にピクピクさせながら、両目を緊く痛々しげに閉じていた。しばらく、彼女は何も言わなかった。

 「僕は──」

 揺曳する沈黙に堪らず、押さえつけていた左手を、まるで腐敗した亡骸から手を払うように勢い良く離した。僕は薄墨色の外套を身に纏い、フードを目下まで深々と被って、あえかに彼女を覗き見た。華抄は両膝を腕で抱え込むように座った。遠くの暗闇を凛として眺望しながら、僕にはたった一瞥もくれずに潺湲と噎び泣いていた。

 あらゆる彼方から、怒りが雄叫びを上げる如く囁いてくるようだった。⻄の背後から煌々と燃え盛る太陽が、焼燬するような炯眼で睨みつけてくるようだった。段々と薄暗く没落していく⻄の空には、惟瑤の耐えがたい憎悪が沸々と煮えたっているようで、どうしても怖かった。今や何もかもが独りの僕を睨みつけていた。本質的に寵愛されなかった。愛が僕を蔑ろにした。見せかけの感情に翻弄された。だからこそ僕は、こうして心から愛していると信じる人たちをも、この高楼の最上から突落として、自らの手によって殺害することしか出来ないのだ。華抄はもう受け入れているのだ。即ちそれは、僕に殺害されることを理性的に納得しているということであって、 生来僕が切望する愛には遠く及ばないだろうし、彼女は僕にとって消耗品でしかなかった。そう思えてしまうことが、何よりも痛々しく、僕の中心に刺さって苦しかった。

 烏が暗澹とした大空を帆翔していた。まだ稚い少女ように微笑む彼女たちを、僕はどうしても愛おしく想ってしまった。彼女たちの潸然と泣く様すら、僕はどうしようもなく好きだった。燎原の火が僕の中心を果てしなく焦がすようだと思った。呆呆として思った。綿綿と、幾時も傍に在ると信じていたかった。

 「私を──好きでいて欲しいの──」

 嗚咽を洩らし、睚眥の眼差しで懇願する華抄を、僕はただ瞪返すことしか出来なかった。

  「──立とうよ」

 僕がそう告げても、華抄は泣き止まなかった。瀲灩に世界が揺らめいているようだった。自らの脈拍が上がるのを感じて、僕は狼狽え、惑った。散落しそうな脆く儚い想いの数々が、僕の脳裏を駆け巡った。今すぐに彼女を緊く緊く抱き締めて、何もかもを終わりにしたい衝動にさえ駆られた。

 「最期にさ──」

 華抄は息のような聲をしていた。彼女はいつか、虚空を抱いて眠りたいと話した。阿迦奢の角落に咲く算無しの華々として、いつまでも在り続けたいのだと言った。そうして彼女は今を笑っているのだろうかと思った。

 「──抱き締めて」

 そう言って華抄は僕に背を向けて立ち上がった。朧げな薄明の空を哀しく瞪て、稚な両手を胸にそっと置いて、ゆっくりと目を瞑った。

 厳かな彼女の姿だった。その綺麗な様が、僕の数多の桎梏として縛り付いていた。帳望して、 彼女は僕を愛していたのだろうか。今の僕にはもう彼女の何もかもが分からないのだろうと思い、そしてこれが抗うことすら許されない幻想であり悪夢であるということすら、何もかもが分からないだろうと思った。

 「──うん」

 僕はすぐさま彼女の背中を押して、殺した。静まり返る夕闇の哀黙の中に、高楼から堕ちゆく彼女の無念の号哭だけが響いていた。華抄の居ない虚空を抱き、僕は彼女の全てを自らに受けいれた。僕は新たな翼を強かに広げ、大空を永遠と帆翔した。彼女はいつまでも泣き止まなかった。




永濛術(えいもうじゅつ)……人としての正しさを追い求める人間が、必然的に囚われてしまう呪縛。呪縛が強力になるにつれて、翼を持つなどの超自然的な能力を有することができるようになるとともに、愛する人間を殺害しなくては呪縛による毒素の分解が追いつかなくなり、それ無しに自己の生命の存続が不可能になる。

惟瑤(いよう)……翔成に殺害された女の子の名前


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