第9話 A メンヘラ出刃包丁!
その日は、妙に暑い日だった。
随所で気温が40度に迫り、エアコンの効きもどうにも悪い。
ゲーミングPCが常時稼働する美来の部屋は、冷やしても冷やしても、28度より下に下がらない。
平日の昼下がり。
まだ希海は学校だ。
美来は1人、黙々とSNS監視を続けている。
暑さのせいだろうか、どうにも頭がボーっとしてしまう美来。
彼女の脳裏に浮かぶ、あの風呂場での光景。
躊躇いもなくユキに口づけをして見せた希海。
無論、人命救助のため、彼はあの場における最適解を選んだだけだ。
だが、自分以外の女の家に平然と泊まったり、救護のためとはいえ、必死の口づけを繰り返している様は、彼女の胸を未だざわつかせている。
希海にとって自分は特別な存在ではないのかもしれない。
彼からすれば、毎日自分の家に来るのも、帰り道のついでに過ぎないかもしれない。
電脳戦に付き合ってくれているのも、彼の他者への親切の一つなのかもしれない。
そんな不安が、暑く薄暗い部屋の中、美来の火照った頭を巡り続ける。
「もしそうだったら……嫌だな」
ボソリと呟く美来。
自分にだけ優しくしてほしい。
自分にだけ時間を費やしてほしい。
そして、自分にだけ、好意を向けてほしい。
「はぁ……何考えてるんだろ私……」
きっと暑さのせいだ。
そうやって雑念を振り払い、彼女はSNS監視を再開した。
そして、見つけた。
不穏な炎上を……。
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「なあ! ちょっとこれヤバくないか!?」
いつものメンバーと共に、食堂で昼食をとっていた希海。
噂と炎上好きのソウマがまた、燃えているアカウントを見せてくる。
「昼飯時に嫌なもん見せるなよ……」と言って、コロッケそばを啜る希海。
だが、希海の隣に座るユキがそれを覗き込む。
「うわ~。これヤバいね。メンヘラっていうか……病んでるよこの人……」
「だろ? これ下手したら死人出るんじゃね?」
「これ警察とか動かないの?」
「いや……痴情のもつれではなかなか動かないって言うぞ……」
「「ヤバ~……」」
などと盛り上がられると、流石に希海も気になってくる。
蕎麦の汁を残さず飲んだ後、ソウマの画面を見せてもらう希海。
そこには、例によって凄まじい数の引用がついた呟き。
出刃包丁の画像が添付されたその呟きには、特定の男性を示した愛憎の言葉が長々と綴られている。
あからさまな無理心中匂わせ呟きである。
希海は慣れない手つきでその呟きを探し、アカウントの言動を遡る。
どうやら、当初は幸せな交際をしていたものの、恋人の浮気疑惑で心がすり減り、結果、このような呟きをする事態となっているらしい。
しかも、その疑惑の相手は一切の連絡を切って逃げ回っているそうだ。
「これは……阻止しないとヤバいよな」
希海は美来に連絡し、その呟きの主の行動を追跡するように依頼する。
「おい希海! お前まさかこの人を……」「午後の授業はー!?」という声を背に受けながら、希海は塀を飛び越え、熱気を帯びた街へと走っていった。
美来からの返答は、妙に遅かった。
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「やめてください!! こんなもの振り回しちゃ駄目です!!」
その女は、早々に見つかった。
希海にとっては好都合なことに、狙った男めがけて刃物を振りかざし、襲い掛かる直前。
一瞬で間合いを詰めた希海が2人の間に割って入り、振り下ろされた包丁を受け止めた。
ガキン!という音を立て、肌の表面でその刃が止まる。
希海はすかさず包丁を女の手から奪い、刃の部分を丸く握り潰した。
彼は呆気にとられている2人の手首を掴み、逃走を許さない。
「放せ! このストーカー女が!! もうお前の距離感にはほとほと困ってんだよ!」
「貴方が! 貴方が私を求めたからでしょう!? 結婚を前提に付き合うって言ってたじゃない!」
「こんな面倒な奴って知ってたら付き合わねぇよ!! クソみてぇな束縛してきやがって! 死にたきゃ一人で死ね!!」
希海を挟んで言い争う二人。
うっかりお互い傷つけあわないよう、希海は一定の距離をキープさせ続ける。
サイバーグラスの音声認識機能で警察を呼ぶと、近隣を巡回していたパトカーがすぐに駆け付けてくれた。
最近の怪事件対策のため、巡回数を上げているらしい。
希海は警察に事情を話してその包丁女を引き渡し、早急に学校へ戻るべく、もと来た道を走っていった。
制止している最中、結構な数のカメラに晒されていたのを知っていたので、希海は途中、スマホを見ながらさらなる炎上が起きていないか確認する。
幸運にも、彼の行動を元にしたバズり、炎上の類は起きていない。
そして、彼女のアカウントの炎上も、ほぼ完全に鎮火していた。
希海はそれを幸いとしか捉えなかったが、多少見識のある者から見れば、それはあまりにも不自然な事態であった。





