5話 約束
彼女の様子が少し変わったと思い始めたのはそれからすぐだった。
まずひとつは、彼女はよく遊ぶようになった。
と言っても、もともと活発な性格でアクティブな彼女だから、それほど大きな変化というわけではないとは思う。
だが、長年の付き合いの僕だからその小さな変化も見逃さない。
彼女は、学校帰りにほぼ毎日、色々な友達と遊びに行くようになった。
あと、最近では親友の晴子との「鎌倉女ふたり旅」などというものを計画しているらしく、つい先ほどそのことを僕に嬉しそうに話してきた。
そしてもうひとつ、これは一つ目と付随しているとは思うが、彼女はあまり勉強をしなくなった。
これは大きな変化だ。真面目とはお世辞にも言えない性格だが、宿題を忘れてきたり授業中に居眠りをしたり、上の空だったりと流石に眼を見張ることが多くなった。そのことについては僕も彼女に聞いてみた。
すると、彼女曰くこれは人生の取捨選択らしい。
おいおい、今は受験に向けて遊びよりも勉強の方が大切だろ。
そんなことを言ってやると、彼女はいつものいたずらをする前の子供のような顔をして「今にわかるよ」などと言い放った。
「どう思う?」
近づいてきた某テーマパーク男旅にむけての話し合いの最中、僕はコータローたちにそのことを相談してみた。
「んー。一つだけ思いついたことがある」
言い出したのは、同じ軟式野球部の仲間の敬太だった。
「柏木は大学にはいかないんじゃないかな?」
「いや、でもこないだまでは絶対に東大に行くとか無駄に張り切ってたけど?」
「その時とは状況が変わったんだよ。例えば、親の体調が悪くて働かなきゃいけなくなったとか!」
「それはないな。あいつの家は結構金持ちだし、ついこないだも両親を見かけたけど元気そうだったぞ」
だが、この考えはあながち間違いだとは言い切れない。
彼女は「人生の取捨選択」と言った。
つまり今しかできない大切なことをやって、それ以外は切り捨てる。
大切なことが彼女にとって遊びで、切り捨てるべきことが勉強。
だが、彼女の家の様子を見る限りは、彼女が進学を諦めて働きに出なければいけないということは考えにくい。
勿論、家庭の都合ではなく彼女自身が進学しないことを望んだのであれば別だが。
「芸能界デビューとか?」
コータローが思いついたように言い放った。
馬鹿げた発想に聞こえたが、確かにそれはなくはない。
昔から彼女はとにかく目立つことが好きだった。
小学生の頃は、学芸会では主役に立候補したり、ある時は当時流行っていたバラエティ番組の影響で「芸人になる」と言いだし、僕を無理やり引き連れて漫才の練習(ただ僕が頭を叩かれていただけ)をしたりもした。
さらに彼女は、僕がいうのもなんだが、かなり容姿は整っている。
以前、原宿に遊びに出かけた時に、スカウトを受けたと自慢げに話していたっけ。
そんな彼女のことだ、アイドルグループのオーディションでも受けてデビューが決まった、などと急に言いだしてもおかしくはない。
そう言えばこないだは、貯金を使い切りたいとか言ってたっけ。
それはこのあと、お金をたくさん稼げる、あるいはお金を使う時間もないということなのではないか。
そうそう、半年後には一緒にテーマパークにいけないとかも言ってたぞ。そりゃ、これからアイドルになるなら僕なんかとテーマパークになんかいけるはずもないな。
なるほど、そういうことか。
僕は勝手に今までの彼女の不可解な言動が腑に落ち、喉につっかえていた魚の小骨がとれたようなスッキリした気分になった。
「柏木ならありえるかもな。もし、そうだったらすげえな。今のうちにサインもらわないと!」
この意見にはどうやら敬太も賛成のようだ。
「いいなー。もしそうならお前、アイドルの彼女ができるんだな。羨ましいぜ」
コータローは悪戯でかつ羨望な眼差しを僕に向けた。
「もしそうなら、美咲は僕とは付き合えないんじゃない。ほら、恋愛禁止とかっていうし」
「ばか、あんなの建前でバレないようにみんなしてるんだよ」
「けど、芸能界にはカッコよくて、できるやつがたくさんいるだろ、取られちまうかもな」
敬太のその言葉に僕の心は乱気流に飲まれた航空機のように揺れ動いた。
僕は今まで、彼女が遠くへ行ってしまうなどと考えたことがなかった。
彼女はいつも僕のそばにいて、隣で笑ってくれているものだと思っていた。
そんな彼女が遠くへ行ってしまうかもしれないのか。
「これはもう、早く告白しちまうしかないな」
コータローが新しいおもちゃを見つけたガキ大将のような顔でそう言った。
「そうだな。夏の花火大会の時とかどうだ?」
僕はこれまで、彼女への気持ちを彼女に知られないように努めてきた。
勿論、そんな僕の気持ちに彼女は気づいているのかもしれない。
だが、そう言ったことに関して、彼女から何かアクションが起きたこともない。
とにかく、僕は彼女とのこれまでの関係を壊したくなかった。このまま、彼女と一緒に時間を過ごせればそれでよかった。
「よし、そうと決めたら早速作戦開始だ!」
コータローは新しくもらったおもちゃを壊してもいいよと言われたガキ大将のような顔をしている。
もうこうなったら、手の施しようがない。
幸いにもテーマパークの打ち合わせはほとんど終わっていたから、僕はもうこの流れに逆らうことをやめて、素直に?僕のことを考えてくれている親友たちに身を委ねることにした。
その勝手な妄想から始まった作戦会議は、彼女からの呼び出しの電話が鳴り響くまで2時間ほど続いたのであった。
彼女からの呼び出しを受けた僕が、急いで我が家まで戻ると、家の前で彼女はキョロキョロと辺りを見回していた。
どうやら僕を探しているようだ。彼女は僕の姿が見えると嬉しそうに手を振り、ピョンピョンと跳ねてみせた。
「早く早く!」
彼女は閑静な住宅街だというのに構わず大きな声で僕のことを呼びながら、あいも変わらずピョンピョンと跳ね続けている。
これ以上大声を出されたら困ると、僕は小走りをして彼女の元へと駆け寄った。
僕が彼女の元へつくと、彼女はニンマリと笑った。
「遅かったね。普段からの走り込みが足りないんじゃないの?」
「急に呼び出して一体なんの用?わざわざうちまで来て」
「ごめんごめん。今日はお母さんが家にいないから鍵を持ってけって言われてたんだけど」
「忘れたのか。で、わざわざうちまできたと」
「うん。今日は部活もないしもう帰って来てると思ってね」
「それにしたってわざわざこんな遠くまで来なくたって、他に近くで時間を潰せるところがあっただろ」
「そうなんだけどね、久々に淳平の家に行ってみたくなってね」
「美咲は本当に奇想天外だね。まあ、別にいいけど」
「まあまあ、早く上がろうよ」
「そうだね」
僕は鍵を取り出すと、家の鍵を開けて玄関のドアを開けた。
「お邪魔しまーす!」
彼女は大きな声で挨拶をしたが、返事はなかった。
当たり前だ。今日は母は留守だし、父は仕事に出ている。返事が返ってくるはずもない。
「こうやって大きな声で挨拶すると、小学校の頃を思い出すね。玄関も懐かしい」
「いいから、早く上がりなよ」
「あれ、今日はおばさんはいないの?」
「母さんは今日は君のお母さんと出かけてるよ」
「あ、そうだった!だから鍵を持ってけって言われたんだった」
「ねえ、わざと鍵を忘れて僕んちに来たでしょ。誰もいないの知ってて」
「ん?なんのこと?」
彼女はわざとらしく僕を見て笑うと、玄関で僕を追い抜き、迷わず突き当たりにある僕の部屋へと向かった。
「待って!リビングで待ってて。部屋を掃除するから!」
「お構いなく。あ、さては見られたくないものでもあるんだな」
それから余計に足を早めた彼女は、躊躇もせずにドアノブを引いた。
「なーんだ。なんも変なものないじゃん」
「当たり前だろ。母さんがいつ入るかもわからないのに」
「てことはどっかに隠してるんだね。探しちゃお!」
「人の部屋を勝手に漁らないで!もう。ジュースかなんか入れてくるからそこでじっとしててね」
僕はリビングに向かい冷蔵庫の缶ジュースを二本取り出し部屋へ戻った。
彼女は僕のベッドに堂々と寝転がり何やら古びたアルバムをめくっていた。
「勝手に本棚漁ったでしょ。何読んでるの?」
「小学校の卒業アルバム」
「また勝手に。君ん家にもあるでしょ。わざわざうちで見なくても」
「わかってないね。人の家で見るから面白いんじゃん。ねえ、見て小学校の私!可愛い!!」
彼女が指差した先には小学校低学年くらいの頃の彼女がいた。もちろん今の彼女とはだいぶ違っているが、大きな美しい瞳と真っ白な肌は変わっていない。
「みてみて!こっちは淳平じゃん!かわいい!今と別人!」
次に彼女が指差した先には、同じ頃の僕の姿が映っていた。そういえばこの頃からだったっけ。彼女を好きになったと自覚したのは。
「ねえ、これ泣いた後じゃない?」
写真の僕は、少し目が赤く充血していて腫れぼったかった。
この時のことを僕は鮮明に覚えていた。
これは運動会のリレーの写真。
リレーの選手に選ばれた僕は、この時カーブで転んでしまい、そのせいでチームは負けてしまった。
痛いのと悔しいので泣いていた僕のところに彼女は来てくれた。
彼女は、慰めるのでもなくただ笑った。
そして、「かっこよかったよ。」ただそう言って、ピンクのタオルを僕にくれた。
タオルは柔軟剤の甘い匂いがしていた。
その匂いも鮮明に覚えている。
僕はその時、彼女に恋をした、んだった気がする。
「ねえ、この時なんで泣いてたんだけ?」
「さあ、わすれちゃったよ」
僕は忘れたふりをした。
「私は覚えてるよ」
「え?」
彼女の一言にぼくの胸が高鳴った。
「あの日の、淳平は本当にかっこよかったな。何よりも一生懸命だったもん。私のヒーローだった。あのタオルはね、私のお気に入りのタオルだったの。それから次の日に、君は私が貸したタオルと真新しいタオルを2つ私にくれた。血がついて汚れちゃったからって。それからは、2つのタオルが私のお気に入りになったんだ。君は私の初恋の人だったから」
僕は彼女の言葉を黙って聞いた。
というよりも何も言葉が出なかった。
ただ僕は黙って彼女の方を見つめた。
彼女はアルバムを見たまま、僕の視線には気づいていなかった。
いや、あえて気づかないふりをしていたのかもしれない。
彼女の横顔は、アルバムに写る彼女が、まだしたことがないような悲しげな表情に見えた。
しばらくは彼女がアルバムをめくる音だけが鳴り響いていた。
そんな小さな音でさえ、僕の耳に鮮明に聞こえてくるほどにこの部屋は静かだった。
次に言葉を発したのは彼女だった。
「ねえ、大事な話があるの」
彼女はアルバムを閉じ、ようやく僕の方を向いた。
その表情はいつもの彼女のいたずらな笑顔ではなかった。
僕はゴクッと唾を飲み込んだ。
これから彼女が話すことは、きっと良くない話なのだろう。少なくとも僕にとっては。
「何?」
彼女は大きく息を吸い込んだ。
僕の鼓動は彼女に聞こえるのではないだろうかと思うほど強く脈打っている。
きっと、彼女も僕と同じような心境なのではないだろうか。
しかし、僕の鼓膜には彼女の鼓動は聞こえてこない。
その代わりに、聞き慣れた声が聞こえてきた。
その声は、彼女の声よりも聞きなれた母の声だった。
「ただいまー。誰か来てるのー?」
彼女は我に返りいつもの彼女の顔に戻った。
「お邪魔してまーす!」
「あら、その声は美咲ちゃんね。ちょと待ってね。お菓子買って来たから持ってくわ」
「ありがとうございます。けど、もう帰るところだから大丈夫です!」
彼女はアルバムを本棚に戻し、脱ぎ捨ててあった制服のブレザーを着始めた。
母が部屋にやってくる頃には、彼女は帰宅の準備を済ませていた。
「あら、久しぶりね。事故は大丈夫だったの?」
「はい、全然大丈夫です!」
「よかったわ。もう暗くなってきたから気をつけて帰ってね」
「はい。お邪魔しました」
彼女は母に向かって深く頭を下げた。
母と話しているときの彼女の表情は、いつもの彼女だった。
さっきまでの出来事は幻だったのではないか。
そうすら感じるほどだった。
「淳平。美咲ちゃんをおうちまで送ってあげなさい」
「大丈夫ですよ!」
「いいのよ、この子暇そうだし」
「じゃあお借りしますね!」
本人の許可もなく勝手に、とは思ったが、確かに、ついこないだ事故にあったばかりの美咲を一人で返すのは心配だ。
それに、さっきの話も聞かなければならない。
僕は制服の上着を羽織ると、彼女と一緒に家を出た。
「ねえ、さっきの話は?」
「なんのこと?」
彼女から突拍子も無い答えが返ってきた。彼女の表情はいつもの彼女だ。
「大事な話があるって」
「それかー。んー。やっぱり話すのやめた!またの機会に!」
彼女は持っていたスクールバッグをくるくると回した。
「じゃあ、僕から美咲に質問してもいい?」
「なになに?恋の相談とか?」
彼女はまたいたずらな笑顔を浮かべた。この顔は慣れっこだ。
「違うよ。最近美咲の様子がおかしいと思って、みんなで噂をしてたんだ」
「へー。私って人気者だね。それで?」
ついさっきあんなに真面目な顔をしていた人だとは思えない声色で僕に問いただす。
僕はコータローたちと話した結論を彼女にぶつけた。
すると、彼女はわざとらしく腹を抱えて笑い出した。
「なにそれ!うける!!やっぱ男子って馬鹿なんだねー」
「だって的を射てるだろ。勉強をしなくなったことも。毎日毎日、もうそんな自由がなくなるんじゃ無いかってくらい遊び通していることも」
「んー。まあ、君たちの脳みそではそれが限界だったか。まあ君たちにしたらよくやった方だね」
「じゃあなんだって言うんだ」
「それは秘密!てかいちいち人のことを詮索するんじゃ無いよ、ホームズくん!」
彼女はまた嬉しそうにバッグを振り回し始めた。
僕はそれに当たらないようにうまく彼女と距離を置いて歩いた。
少し進むと、彼女はある交差点で急に立ち止まった。
「どうした?」
「ここ、私が事故にあったところ」
なるほど、確かに見通しが悪い道だ。おまけに大きなトラックが交差点の目の前に停車している。
「あっちから行こうか?」
僕は一つ前の分かれ道の方を指差した。彼女はコクっと頷くと、きた道を少し引き返した。
しばらくすると、彼女はまた元気を取り戻し、やれテーマパークのお土産がどうだの、自分が芸能人になれるほど可愛いだの、ワーワー喚いていた。
いつも通りの彼女の姿を見た僕は、無性に安心した。
僕たちの予想は外れたが、これで今まで通り彼女と一緒に居られるんだ。
そう思う一方で、僕の心にはある想いも芽生えて居た。
彼女に僕の想いを伝えたい。
彼女の家の前に着いた。
「ありがとね!じゃあまた明日!」
彼女はそう言って振り返り大きな綺麗な一軒家に足を運んだ。
「待って!」
僕は、彼女に向けたものとしてはあまりにも大きすぎる声で彼女を引き止めた。彼女の足がピタッと止まった。
少しだけ時間を置いてから彼女は僕の方に振り返った。
「なに?」
彼女は笑っていた。
僕の緊張した表情が、面白かったからだろうか。
いやそうでは無いだろう。
その笑顔はいたずらなものではなく、本当に嬉しそうな笑顔だった。
「あのさ、一緒に花火見に行こうよ。二人で」
僕の声はさっきとは打って変わって震えていた。
彼女は、少しだけ驚いたような顔を見せたが、すぐにさっきより満面な笑みを浮かべた。
「いいよ。ただし、次の野球の試合でかっこいいとこ見せてくれたらね!」
彼女はそう言うと、家の方へと歩みを進めた。
そして、玄関のドアを開けると、軽く振り返って僕に向けて手を振りいなくなってしまった。
すっかり暗くなってしまった帰り道だったが僕の足取りは軽かった。