第二話 生活するということ
◆第二話 生活するということ
皇都の門まで辿り着いた頃には太陽は頂きに差し掛かっていたが、それでも先程までの容態の悪さが嘘のようにリノアはきちんとクロードに着いてきた。
クロードが歩調を合わせてやっていた面もある事は否めないが、気付けばぼろぼろのローブから垣間見えた傷口や打ち身なども綺麗に治癒されていた。
リノア自身が口にしていた『マナの吸収、変換、精製、増幅』という手順が滞りなく行われた結果なのだろうと曖昧に推測はしていたが、その治りの早さたるややはり常人のものではない。
「この都の銀鹿亭に滞在しているクロード・ファティール、職は傭兵、こっちは道中で保護した子供だ。名前はリノア、有事の際の責任は俺が保護者として担う」
門番に身分を提示して滞在証を見せると、あとはすんなり事が進んだ。
「……人がいっぱい……」
思わず口から漏れたであろうリノアの言葉に、軽く頷いてからクロードはリノアに手を差し出した。
きょとんとしてクロードの手と顔を交互に見つめるリノア。
「これだけの人だ、道もわからないリノアじゃあ迷うだろう。ほら、行くぞ」
ひらひらとクロードが手を動かすと、ようやくリノアはおずおずとその手を右手で軽く握った。
柔らかくて温かい、人の血が巡っている証拠。
そんなことをふと考えながら先を歩いていると、リノアが小さく呟いた。
「クロさんの手、あったかい」
「まぁ獣人種だからな、毛皮がある分人間種よりは温かいだろうさ」
軽く流したクロードの言葉にリノアはそっと首を横に振った。
「ううん、そうじゃなくて。 生きてるんだなって思ったらなんか言葉になってたみたい」
奇遇にも同じようなことを考えていたのを知られまいと、顔を背けて往来をずんずんと突き進むクロード。
「お、ほら、見えてきたぞ。 銀鹿亭、俺が今この都で部屋を借りてる宿屋だ」
銀鹿亭の看板が見えてきたのを指差したクロードだったが、リノアとクロードでは身長に随分差があることを忘れていた。
一生懸命背伸びしてそちらを見ようとしても、往来は人通りが多い上にほとんどが成人以上ということでリノアにはなかなか見えないようだ。
その様子を見ていてふと微笑ましくなったクロードは、リノアの後ろに回り、その脇に両腕を入れて持ち上げてやった。
「わ、すごい……こんなにたくさん背の高い人がいるのに、遠くまで見える。 クロさんはもっと背が高いんだね」
少しばかり気が高揚したのか、弾んだ声で応えたリノアに満足してその身体を下ろす。
「銀鹿亭は見えたか?」
「うん、たぶん。 角の生えた動物の顔が彫ってあった看板のお店だよね?」
回答に頷き、再びリノアの手を引いてクロードは往来を進み、銀鹿亭の前に到着してほっと溜息をついた。
「エルゼさん、部屋を借りてるクロードだ。今仕事が終わって戻ってきた」
宿のドアを開いて中に入りつつ、カウンターにクロードが声をかけるとカンター内で帳簿をめくっていたふくよかな女性が顔を上げた。
「おや、クロードの旦那。 無事で何よりだね」
「無事っていうとまた少し違うんだが……まぁ帰ってこれた意味でなら無事か。 あとで洗い場を借りたいんだ、汗もそうだが護衛依頼だと昼夜問わずゆっくり身体も洗えやしないのは勘弁してほしいね」
苦笑いと共に軽口を叩いて、そうだ、とクロードは後ろに隠れているリノアの頭をぽんぽんと軽く叩いた。
「この子供、今回の依頼の途中で保護したんだが、ちょっと厄介ごとっぽくてな。 ただ、悪い子供じゃあないんで宜しくお願いしたい。 ほら、リノア」
おずおずとクロードの後ろから顔を見せたリノアがエルゼに挨拶する。
「あの……クロさんに助けられて、今はクロさんと一緒にいます……その、よろしくお願いします……」
クロードが助けた時はわりかし普通に話をしていたと思っていたが、どうやら人見知りはするらしく、リノアはぺこりと頭を下げてまたクロードの後ろに隠れてしまった。
しかしそれに気分を害することなく、エルゼはにこにこしながらリノアに返事した。
「リノアちゃんっていうのかい、まぁまた綺麗な子だねぇ。 髪の色も瞳の色もここらじゃあ見ない感じで素敵だね。 服次第では見違えるよ」
その言葉に照れたのか、リノアがクロードの着物を掴んでいた手にきゅっと力が入る。
「まぁそんなわけで一人連れが増えたんだが、部屋の借り賃の方は……」
「やだねぇ、『部屋』の借り賃なんだから人数は構いやしないよ。 まぁ、人数集め過ぎて床が抜けたりしたらまた考えるかもしれないがね」
からからと笑いながらクロードの杞憂を晴らす女将にぺこりと頭を下げて、クロードはリノアと共に借りている二階の部屋へと向かった。
部屋に入り、鍵をかけてからようやくクロードは大きく伸びをしてからベッドに倒れ込んだ。
「クロさん?」
「ああ、悪い。 つい、な。 リノアもほら、飛び込んでみろ、柔らかいぞ」
不思議そうな顔をしながらクロードを見つめていたリノアに手招きをして、クロードは自分が寝そべっているベッドの脇にスペースを空けた。
おずおずとベッドに近寄り、とりあえず手を伸ばしてその感触を確かめるリノア。
「……ほんとだ、柔らかい。 これは何のための設備?」
「ん? ベッド……所謂寝台のことだが……まぁ小難しいことはいいか。 基本的には眠るための設備だよ。 ほら、野営ばっかりだと身体が痛くなるだろ?」
納得したようなしていないような声を微かに発して、リノアはベッドを撫でてからゆっくりその上に腰をかけた。
「人間は眠ることにも質を求めるんだね。 身体的な休息と精神的な休息を兼ねるためなのかな」
リノアの言葉に些か不思議な言い回しを覚えてクロードはそれについて問うた。
「……? 俺は獣人種だから亜種的な感じだが、リノアは人間だろ?」
そう言ってから、ふと昨晩の出来事を思い出したクロードが少し考え込む。
「いや、どうなんだ……リノアが昨日やって見せたような芸当は俺の知る限りでは見たことがないし……でも単純にその方面に秀でていれば可能ではあるのか?」
その言葉にリノアはゆっくりと首を横に振る。
「昨日言った通り、僕は被験体だから。 今持ってる能力がもともとあったものなのか、それとも植え付けられたものなのかもわからないし……それに、記憶が欠けてるから」
「その欠けてる記憶っていうのはなんで欠けてるってわかるんだ? 忘れたもののことを思い出すには何かしら切っ掛けみたいなもんが要るんじゃないかとは思ってるが……忘れた事自体を認識するのは前後の記憶あってこそなんじゃないか?」
ベッドに片肘を突き、リノアの方へ向いて問うクロードの言葉に、リノアは背中を向けて俯いたまま小さな声で答えた。
「忘れている、っていう認識はたぶん出来てないと思う。 でも、ここに今生きているっていうことは現在を遡れば過去は必ずあるわけで、その遡った記憶が一定の場所までしかないから。 何か忘れてるな、っていう感覚じゃあなくて、何もないからこそ何かあったはず、っていう感覚の方が近いと思う」
ふむ、と顎に手を当ててクロードも考え込む。
確かに一時的な記憶の欠落なら忘れている事そのものを憶えていない、もしくは認識できないというケースもあるのだろう。
けれど、リノアの記憶の欠落というのはもはや欠落という言葉に当てはめるには大きすぎるのだろう。
自分の思い出せる記憶が一定以上何もない、その感覚は実体験することは出来ずとも、そうなったらと考えるだけで背筋に冷たいものが走った。
すっと空いている腕をリノアの方に伸ばしてゆっくりとその背中をさすってやると、リノアは驚いたような顔でクロードの方を振り返って、ふっと沈痛な面持ちを軽く解した。
「不思議だね、思い出せない過去のことについて考えてるといろんな感情が渦を巻いてその中に飲み込まれそうになるけど……クロさんと話してると少しだけ楽な気がする」
「それなら何よりだ。 さて、俺は洗い場を借りて諸々の洗濯と一緒に身体を洗ってくるが……リノアはどうしたい?」
その問いかけに少し考えてから、おずおずとリノアは言葉を発した。
「……ボクが一緒に行っても、いいのかな?」
「……? 別に洗い場だから誰に気を使う必要もないとは思うが……まぁ洗濯の手が増えるには越したことはないし、手伝ってくれるならありがたいぞ」
頷き、すっとベッドから腰を上げて立ち上がると、リノアは床に投げられていたクロードの荷物を抱え上げた。
「これだよね? 昨日からずっとクロさんが持ってたもの」
「そうだな、よし、洗い場は一階の裏手だ。 そこまで運べるか?」
若干足元がふらついてはいたが、リノアは任せて、と小さく頷いてみせた。