第一話 名付け親
◆第一話 名付け親
皇都に戻るべく、商人と進んできた道を胸元に子供を抱えながら進んでいく。
夜空の月は先刻より傾き、もう数時間もすれば朝陽が地平線から顔を覗かせるだろう。
そんな中、ふいに抱えていた子供がかたかたと身を震わせ始めた。
「どうした、寒いか?」
気温は夜中ということで昼間よりは下がっているが、そう凍えるような素振りを見せられる程の寒さではない。
ただ、子供からは返事はなく、歯をかちかちと小さな音を立てて鳴らしながらうなされるように身を捩る様子は寒さとは違う原因があるように思えたので、彼は慌てて足を留めて皇都への街道沿いから少し離れた大木の下に腰を下ろした。
依然として子供の顔色は悪く、若干熱にうなされている様にも見える。
もし何かしらの病だとしたら、彼に医術の心得はない。皇都に辿り着く前に衰弱死してしまう可能性もあり得る。
けれどじっくりと子供の容態を観察して、一つ判った事があった。
一見すると病の様に見えるが、これはマナの欠乏症だ。
身体中の無数の傷が癒えていないことも、体内のマナが枯渇して自然治癒力に廻っていない、そう考えれば合点はいく。
しかし、肝心の症状が判ったところで、彼に己のマナを分け与えるなどという高尚な技術は持っていない。
だんだんと呼吸の音も小さくなっていく子供の様子を目の当たりにして、何かこの子供を生かす手段はないか、と必死で頭を回転させる。
そして、ひとつだけ、この子供をマナ欠乏症から救う手立てが存在した。
「……頼む、死ぬなよ……!」
悩んでいる猶予はない、彼は己の口を子供の小さな唇に押し当てた。
あまり常用される手段ではない、粘膜を介した魔力供給。
即効性があり、急を要する場合に使われることもあるが、あまり一般的ではない。
その理由は図らずとも理解できるものだが、敢えて言うならば供給手段としては些か貞操観念に引っかかる、といったところだ。
恋仲の間柄などといったものならば兎に角、まず見知らぬ関係で使われる手段ではないだろう。
それを踏まえてでも、彼はこの子供を助けてやりたかった。
別段恩義や謝礼を求めるためにそれを行なった訳ではない。
ただ、昔の自分を重ねたその影を、むざむざ見捨てるということが出来なかっただけだ。
「ん……っ……」
口付けをしていて、想像以上にこの行為は分け与える側に負担があるという事だけは理解した。
体内のマナ、所謂全ての物に宿っているエネルギーの塊。
それが枯渇している対象に、いくら健康体とはいえ己のエネルギーを半ば吸い取られる様に分け与えるこの手法は確かに常用するには危険すぎると彼も認めざるを得なかった。
けれど、この手立てで今口付けている子供の命が助かるのならば。
ふいに、うっすらと子供の瞼が開いた。
彼の目を若干虚ろな瞳で捉え、今自身に行われている行為に対して理解を示したのか、抵抗するような素振りは見せなかった。
透き通る様な蒼の瞳に見つめられて居たたまれなくなり、彼はゆっくりと子供の唇から口を離した。
「っ……ふぅ……大丈夫か? 気分は?」
「……」
沈黙。
子供は何かを答える様なそぶりは見せなかったが、自らの胸にそっと手を添え、静かに佇んだ。
段々と沈黙の重さに耐えきれなくなり、徐に口を開こうとした彼に対し、ふいに子供は小さく呟いた。
「……なんで……?」
ぽつりと呟かれたその言葉はとても静かで、風が吹けばそれに運ばれて消えてしまいそうなほどに微かなものだった。
今の言葉には様々な意味合いが含まれているのだろうことを彼も若干察してはいたが、先ずは問いよりも状態の安否だと考え、彼は再び子供に声をかけた。
「大丈夫か? 意識はちゃんとあるか? 身体の調子はどうだ? とりあえずどれでも良い、答えてくれ」
彼の言葉に対し、子供はすっと視線を合わせてゆっくりと頷いた。
「大丈夫……だと、思う……体内のマナは吸収、及び変動、影響を受けながらも安定化しつつある……でも……」
「でも、なんだ?」
一旦言葉を区切り、視線を伏せる子供。
一呼吸置いてから、子供は聞こえるか聞こえないかわからないくらい小さな声で、再度呟いた。
「……なんで……生きてるんだろう……」
彼が助けたから、という事実は答えにならないのだろう。
それほどまでに、その小さな呟きには複雑な感情が込められていて、彼にはそれを察することは出来ても、その中身まで理解することは出来なかった。
故に、彼は問う。
「生きてちゃあ、駄目なのか?」
そんなわけはない、何処かでその応えを期待していた。
けれど、子供の言葉は端的で、鋭い刃の様な鋒で彼の言葉を抉った。
「生きてる……べきではなかった……そう、思う」
彼にはわからなかった。
自身で自己の生を否定する様な人生を歩んできたつもりは無く、それ故この子供の年端も行かない出で立ちでその様な事を口走るのかが理解出来なかった。
この子供を助けた事、己のマナを分け与えてまで命を繋いだその行為に微塵も後悔はなかったが、自己の生を自ら否定するその言葉だけは、耐える事ができなった。
「俺は、俺はお前が、どういう生を歩んできて、どんな苦難や絶望を味わったのか知る由もない。 だけど、それでも……これだけは言わせてくれ。 生きていていけない命なんてない、偽善だと言われても良い。 それでも……自分から自分の命を有るべきではなかったなんて、言わないでくれ」
子供の肩に手をかけ、俯きながら絞り出す様に出てきた彼の言葉を、その子供は静かに聞いていた。
不意に、そっと子供の小さな手のひら、か細い指先が彼の頬を撫でる。
「……ごめんなさい、助けてもらった手前で言うべき言葉じゃあなかった。お兄さんがボクを助けてくれた、それはとても有り難いことだと思ってるし、お礼をしなきゃいけないよね」
そう言うと、子供は胸の前に掲げる様に両手を広げ、小さく深呼吸して軽く目を閉じた。
謝礼を求めるために助けたわけでは、と口にしようとした彼は、思わず言葉を飲み込んだ。
子供の手のひらに、何か途方も無いエネルギーの塊が収束している。
視覚化されたマナとでも言うのか、それほど高濃度のマナを瞬間的に集めるなどという芸当を彼は未だ見た事がなかった。
柔らかく、暖かい光が子供の胸元で文字通り小さな花弁を一枚ずつ花開かせる。
その手のひらには、魔力で編まれた小さな花が咲いていた。
「これ、どうぞ」
迷いなど無いように子供が彼にそれを差し出す。
しかし、彼にはこんな魔力の塊をどうしたらいいのか見当もつかなかった。
おどおどしつつ、とりあえず手を伸ばし、両手でそれを受け取ろうとした彼の身体に、それはゆっくりと、しかし着実に染み込んでいった。
彼が子供に分け与えたマナ、それによって肉体的、精神的な疲労を気付かぬうちに背負っていた彼の疲れをその花は一枚、また一枚と花弁を散らすごとに癒していった。
しかし、こんな芸当をすればまた子供のマナが枯渇するのでは、と思わず子供の顔を伺った彼に、子供は大丈夫、と小さく答えた。
「今お返ししたのは先程お兄さんから分けてもらったマナをボクの中で吸収、変換、精製、そして増幅させたものだから、ボクにとってはほんの僅かなもの。命を助けてもらったという事実に対してのお礼には、全然釣り合わないけれど」
これほどの魔力量を僅か、と宣う子供に対して彼が不思議そうな顔をしていたのを理解したのか、子供はゆっくりと言葉を続けた。
「ボクは、『被験体3987号』は、そういうものだから」
またしても不可解な言葉を投げられて、彼は混乱しつつもそれを問うた。
「被験体……? お前、名前は……?」
「それがボクの名前。 ボクが出来ることは魔力の花を咲かせること。 ……ごめんなさい、自分のことだけれど、ボクにはそこまでしか記憶がないんだ」
先程の商人に問いただしたい謎は山程あるが、彼は一先ず俯いている子供の薄桃色の柔らかな長い髪を優しく撫でてやった。
「名前が無いなら、俺が付けてやる。記憶がないなら思い出せる様に努力すれば良いし、無くてもこれからのことは憶えていける。だから、そんな悲しそうな顔はするな」
きょとんとした顔を見せた後、ふっと子供は少しだけ口角を上げた。
荷車から助け出した後、初めてその子供が見せた人間らしい笑顔だった。
「よし、お前の名前は『リノア』、さっきお前が手のひらに咲かせた花の名前だ。記憶がないならわからないかもしれないが、あの花は咲くための条件がとても厳しい。それこそ人間が一生をかけて頑張っても一輪、場合によっては一生かけても咲かせることは出来ない程、貴重で珍しい、そんな花なんだ。 それ故、その花は別名『幻想花』とも呼ばれる」
「リノア……でも、お兄さんはどうしてボクにその名前を……?」
子供の問いかけに少し視線を逸らしながら、彼は答えた。
「理由はまぁ、色々あることはあるんだが……まぁ、今は言わずにおこう。 いつかお前が忘れてた記憶を取り戻した時にでも教えてやる。それまでにさっきみたいに『生きてるべきじゃあなかった』なんて言えないぐらい笑わせてやるさ」
そう言って彼は立ち上がり、リノアの方に手を差し伸べた。
「リノア、立てるか?」
その問いに、名前をもらった子供は小さく頷き、彼の手を握った。
「そういえばボク、お兄さんの名前をまだ聞いてない」
「俺か? 俺は……俺はクロード、クロード・ファティール。 好きなように呼べば良い」
小さな声で反芻した後、リノアは噛みしめるようにして、彼を呼んだ。
「じゃあ、クロさん」
「呼ばれた事がない感じの呼び方だが、まぁ、良いだろう。着いてきてくれ、あまり遅れるなよ」
呼ばれ慣れない名前に若干気恥ずかしさを感じながら、クロードはリノアを立たせて、皇都ファーラーンへと戻る道の先導を始めた。
少しずつ昇り始めた朝陽と澄んだ朝の空気が清々しく、思わず空気を胸いっぱいに吸い込んだクロードの様子を見て、リノアも同じように息を吸い込んだ。
「……なんだか不思議な感じ。 空気中のマナも、ただ気温が少しずつ上昇しているくらいしか大気に変化はないのに……少しだけ、すっとした気がする」
その呟きに対して、軽く笑ってからクロードはぽんぽんとリノアの頭を優しく叩いた。
「これからそういう不思議をたくさん経験していけば良い。 人生っていうものは、案外捨てたものじゃないからな」
「……うん、そうだったらいいな」
歩みを進める中で、少しだけリノアの抱えていた悲壮感が和らいだ、そんな気がしてクロードは荷物を肩に掛け直して、リノアの歩調に合わせながら皇都へと二人で戻っていった。