プロローグ
◆プロローグ
嫌な夢を見た。
暗くて深い闇の中で、どれだけ走っても辿り着けないある場所へ向けて、延々と走り続けるあの夢。苦しくて、寂しくて、けれど走るしか手立ては無くて。
そうしているうちにうなされて現実で目が覚めた。
背中にはじっとりとした脂汗が毛皮を濡らしている。
「……くそっ……」
小さく悪態を吐いて白い獅子の獣人である彼は仮眠していた寝床から起き上がり、手近な布で汗を拭って着流しの着物に着替えてから、貸し与えられていた小さな天幕から出、雇い主の元を訪ねた。
「おぉ、丁度良いところに来てくれたな。これから商談があるのだ、その間荷車の方の護衛を頼みたいのだが……」
彼の現在の雇い主であるこの商人は皇都ファーラーンから南西にある港町までの護衛を彼に依頼してきた。いや、正確に言うならば傭兵派遣のギルドに登録していた彼に偶々この依頼が回ってきた、という話なのだが。
ともあれ、とある旅の途中で資金稼ぎのために皇都にしばらくの間居を構えていた彼にとっては願っても無い仕事の依頼であり、報奨金も悪くない額だったので引き受けた経緯だ。
「承った、商談が纏まったら荷車まで来て知らせてくれ」
交易、というほどの荷物量ではないが、荷車にはそれなりに価値のある物が積まれているらしく、雇い主の商人は護衛の彼に対してやけに厳重な警備を要求してきていた。
無論彼とてそれなりに武の腕には自信があるが、それにしても少しばかり慎重が過ぎている、と幾ばくかは感じていた。
それほど大事な荷物ならば大きめの交易便に交えて貰えば良いものを、何故傭兵ギルドに依頼したのか。
ともあれ、考えていても仕方のないことではある。
大人しく彼は自身の得物の鯉口を小さく切り、その刃が衰えていないことを確認してから商人の天幕を出、彼に貸し与えられた天幕との間に鎮座している荷車の元と進んでいった。
「……っこいせ、と……」
荷車の側に腰を下ろした彼は周囲の気配を探ってから、空を見上げた。
夜空は晴れ、少しばかり欠けた月が傾きかけている。
幸いなことに良好な天気に恵まれているのもあり、今回の依頼は順調に進んでいると言っても過言ではないだろう。
悪天候に見舞われれば荷車を運ぶ足は遅くなる上、その隙を狙った野盗の襲撃などを受ける確率もぐんと上がる。野盗ごときに後れを取るつもりは更々ないが、それでも荷車と商人を同時に守りながら戦うというのは骨が折れる仕事だ。
夜空から視線を下ろし、荷車の方へとそれを移す。
至って何の変哲も無い、大きな革の覆いで中身を隠した荷車。商人が荷を運ぶ際、気をつけねばならないのはその荷が如何に価値のあるものだと他者に知られないこと。
例えそれが己の雇った護衛であったとしても、荷車の中身を知られるのは危険に繋がる可能性があり、また、そこから漏れた荷の情報が何処へ伝わるかもわからない。
故に彼にこの荷車の中身を詮索するつもりは欠片もなかった上、わざわざ面倒ごとに首を突っ込もうという気も更々なかった。
その荷車から、微かに人の声が聞こえるまでは。
「……ぅ……ぁ……」
夜の静寂に紛れるのに、その苦しげな悶えは些か彼の気を引き過ぎた。
幻聴として捉えるにはあまりにも近く、またその声は声変わりをしていない子供のもの。
荷車に積まれているのが人間、それも恐らくまだ年端もいかない子供だと推測した彼は考えるより先に荷車の紐を解いていた。
彼とて依頼主の仕事を放棄するということが、皇都で仕事を探している彼の評判に著しく関わることだと承知している。下手をすれば日照りどころか現在居を借りている場所からも追い出される可能性とてあり得る。
けれど彼にはこの衝動を抑えられない理由があった。
解かれた荷車から乱暴に革の覆いを剥ぎ、商人の積み荷ということも忘れて彼はその奥に詰め込まれていた子供を発見し、引っ張り出した。
気を失っているのか、その子供が動く様子はなかったが、体のあちこちに引っ掛けたような傷跡や打ち身、何より着ているのはボロボロのローブ一枚ということが彼の中の怒りを掻き立てた。
ふいに後方からバタバタと足音が聞こえ、振り向くと依頼主の商人が慌てて走ってくるのが見えた。
「何をしている! 貴様に頼んだのは荷車の護衛だろう! 雇われ護衛の分際で荷車漁りとは、今すぐ荷車を元に戻せ、これは命令だ!」
怒気を露わに彼を罵倒する商人に向けて、彼は轟と吼えて威嚇した。
途端、商人の覇気が薄れ、彼を睨みつけながら辛うじて立っているものの、言葉を発せなくなる。
「俺はお前の護衛として雇われた、それは確かだがこの子供は何だ! 人身売買は皇都の法で罰せられると知りながら荷車に押し込めて別の都に移動するお前こそ何様のつもりだ!」
ひとたび怒りを露わにした彼の表情は正しく獣のもの、商人が命の危機を感じて怯え始めるのは時間の問題だったが、彼はそれ以上に怒り、猛っていた。
轟々と吼え声と怒号をぶつけるうちに、怯えきった商人は震えながら言葉を発した。
「わ、わかった……! そ、その子供に関しては好きにすればいい、だから……頼む、い、命だけはみ、見逃してくれ……!」
まだ彼の中に燻っている炎は盛んに燃え続けていたが、ひとまず彼は溢れかえっていた怒りを一旦押さえ込み、懐から依頼を受けた時に渡されていた前金の入った小袋を商人の胸に叩きつけると、子供を抱えたまま、無言でその場を後にした。
たとえ依頼不履行と言われようが、今回ばかりは彼に迷いはなかった。
彼はこの子供の境遇に、過去の自分を重ねていたからだ。