文化的な最低限度の生活
「満島さんの診断結果ですがね、健康面には問題はないものの、文化指数が3.5と大変低い数値となってます。40代男性の平均は25.7なのでかなりまずい値です。ご存知の通り、この文化指数がマイナスを下回った場合、『すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む義務を有する』という日本国憲法25条に違反するとして強制入院の措置が取られる可能性があります」
会社から受けさせられた人間ドックから一ヶ月。追加診療のためクリニックを訪問した私は、医者から悪夢のような診断結果を伝えられた。正直ここ数年の生活習慣からひょっとしてとは思っていたものの、想像以上の低い数値が出てしまい、深いため息が出てしまう。医者は丸い眼鏡をくいと上げ、非難するような眼差しで私を見つめる。
「すみません。ここ数年仕事が忙しく、文化的な活動をする時間が取れなかったんです……」
「最後に文化活動を行ったのはいつです?」
「ええっと、半年前に地元の個展にぶらっと立ち寄ったくらいですね」
私の答えに医者が眉をひそめた。医者のその態度に、私は申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
「うーん、お立場は理解できますが、この数値まで放っておいたのはちょっと良くなかったですね。努力義務とはいえ、労働法では企業に対して被雇用者の文化指数の管理が明記されてます。会社の立場も悪くなりますし、巡り巡って満島さん自身の評価も悪くなりますよ」
「そ、そんな」
「この数値のままではまずいので、とりあえず点滴を打って、文化指数を一時的に上げておきましょう。それから生活習慣の改善についてカウンセリングを行います。さあ、奥のベッドに横になってください」
私は医者に促されるままシャツの袖を捲り上げ、そのまま奥のベッドに横になった。すると、奥からすらりと背の高い看護師が医療器具を携えてベッドへとやってきて、ガチャガチャと音を立てながら点滴の準備を始める。文化指数を上げるための点滴は初めてだったので、私は好奇心から看護師のセッティングをじっと見つめていた。
「文化指数って確か美術館に行ったりコンサートに行かないと上がらないじゃないですか? 点滴って一体何を注入するんですか?」
看護師が私の方を振り向いた。そして、私が指差した液体パックを見てようやく我心が言ったのか頷き、それからゆっくりと丁寧な口調で教えてくれた。
「これは『人間の内なる泉の神』というチェコの現代アーティスト、クビションナが生み出した芸術作品です。クビションナは人間の内部こそに至高的な美があると考え、美のイデアを外界の自然や神に求める伝統的な芸術感へのアンチテーゼとして、この点滴用液体パックを創作しました。この芸術作品は見るだけではなく、実際に点滴を使って身体の内部に取り込んで初めて作品が完成するというものでして、最近の流行でもあるインタラクティブアートの走りとして、20世紀を代表するエポックメイキング的作品と評されています。つまり、まとめますと、この点滴という行為自体が芸術的であり、その作品の中に満島さんが組み込まれることによって、結果的に文化指数があがるといいうわけなんです」
なるほど、と私はとりあえず納得して頷いた。
「ちなみに液体の成分はなんですか?」
「液体自体は単なるブドウ糖注射液です。じゃあ、入れていきますねー」
腕に刺された針から『人間の内なる泉の神』が私の体内へと入り込んでくる。文化指数の低い私には、現代アートというものがよく理解できないが、この点滴自体が一種の素晴らしい芸術作品であることは伝わった。確かに液体パックの水位が低くなっていくにつれ、自分の文化指数が少しずつあがっていくような気がした。
「看護師さんって芸術にお詳しいんですね」
「はい。一応、芸大出身ですので」
「ちなみに文化指数っておいくつなんですか」
「私の文化指数は1億です」
「1億……! とても文化的な方だ……!!」
一時間ほどで点滴を打ち終えると、医者が戻ってくるまで先程の診療室で待つように促された。そのタイミングで看護師から何枚かのパンフレットを渡されたので、退屈しのぎに内容を確認してみた。パンフレットは近場の美術館やクラシックコンサートの案内で、右下には、これが健康保険の適用対象であり、実質三割負担で来場可能であることが大きく記載されていた。
「それでは今後の満島さんの生活習慣についてのカウンセリングを始めましょうか」
医者が書類を携えて戻ってくると、開口一番にそう言った。
「カウンセリングと言ってもそんな素晴らしい提案をできるというわけではないんですがね。とりあえず理想的な治療としては、満島さんに美術館やコンサートへ定期的に通ってもらうことなんですが、どうでしょう?」
「もちろんそれが一番であることは重々承知しているんですが、最初にお話しした通り仕事が忙しくて、そういう場所に行く暇がないんです」
「困りましたねぇ。仕事帰りの30分も駄目ですか? 提携先の美術館なんですがね、国内の若手現代アーティストの作品を24時間展示しているところがあるんです。現代アートなので作品の背景やコンテキストを学ばないと中々理解できないという問題はありますが、いかがです?」
「その場合、どれくらいの頻度で通えば文化指数を上げることができるんですか?」
医者は資料をペラペラとめくり、何かを確認する。
「そうですね……。芸術というのも結局は、ただ見れば良いってものはなく、理解したり感動しないと意味がないですからね……。現代アートはきちんとその素晴らしさを理解できる人には大変効果があるんですが、文化指数の低い方にはそれほど効果がないと言われてます。なので、満島さんの場合、週三回通ってようやく現状の文化指数を維持できるくらいで、文化指数を上げるためにはそれ以上の頻度で通う必要がありそうですね」
「うーん、さすがにそこまで余裕はないんですよね」
「そうですよねぇ」
「わがままを言って大変申し訳ないのですが、何かもっと手軽に文化指数を上げる方法ってないんでしょうか?」
私の質問に医者が腕を組み、必死に案を考えてくれる。そして、数分間の熟考の後、何かを思いついたのかポンと膝を叩いた。
「そうそうこの治療法をすっかり忘れてましたよ。芸術は見るだけのものではないですからね、自分が作る側であってもいいのです。むしろ、上昇率で言えばただ見たりするだけよりもずっと効果的なんです」
「芸術を作るですか? そんな……浅学な私にはとっても無理です」
「いえいえ、芸術に優劣なんてありませんから、思うがままに芸術活動を行えば良いんです。そうですね、この医院では患者さんに絵を描くことを一番おすすめしています」
「昔っから絵心はとんとなくて、自分の下手くそな絵を見てストレスが溜まっちゃいそうです」
「それでは小説はどうでしょう?」
「小説ですか? それもまた難しそうじゃないですか? ストーリーなんて思いつけないですし」
「いえいえ、簡単ですよ。フィクションだけが小説ではないですからね。例えば、今日の出来事や会話を時系列に沿って文章にまとめて、自分がその時どう思ったのかをちょろっと書くだけでも立派な短編小説の完成ですよ。それだけだとつまらないのであれば、ちょっとだけ嘘を紛れ込ませるのも良いかもしれませんね」
「でも、きちんと最後まで書けるか自信がないです」
「初めは原稿用紙10枚程度の短い話でもいいんですよ。途中から疲れて、後半が会話分ばっかりになってもいいんです。とりあえず完成させること、それが一番重要なんです」
「そう言われると確かにできそうな気がしてきました」
「では、満島さんにはその治療法を行ってもらうこととして、一週間後に経過観察をしてみましょう。小説を一作品でも良いので書いてもらって、それが続きそうか、どれくらい文化指数が上がるかを見てみましょう」
「はい。わかりました。それでは一週間後、よろしくお願いします」
私は深々と医者に頭を下げ、そして、決意を胸に帰路につくのだった。
私は自分が書いた小説を読み返してみる。
うん、生まれて初めて書いた小説としては中々の出来ではないだろうか? きちんとあの日のことを順序立てて描写できているし、読みにくいところもあまりない。確かに後半は前半に比べて地の文が少なくなり、会話文ばかりになっているが、医者の言う通り完成させることが一番重要なのだからそれくらいには目を瞑ってもいいだろう。
そして、この小説の中の一番気に入っているのは私が看護師に文化指数を聞く所だ。実際には、看護師とこのような会話を交わしてはいないのだが、医者の言う通り、ちょっぴり嘘を入れた方が面白いだろうと思って入れたのだ。3.5や25.7という数字が出た後に、1億というありえない数字が出すところに面白みがある。思いついた時には、クスリと自分でも笑ってしまうほどだった。
大変ではあったが、実際にやってみると小説を書くということは中々に楽しいことだと思った。これなら、無理に美術館に通うよりもずっと続くような気がする。明後日の経過観察で文化指数が多少なりとも上がってることを願うばかりだ。