道化の様な夫はただ妻との思い出に涙する
目が覚めると、見知らぬ天井があった。
いや、違う。確か俺は、あの場から逃げ出した後、この宿屋に泊まったんだ。
寝室で見たエマは、俺の知っている彼女ではなかった。
まるで娼婦のように見知らぬ男に媚びへつらい、俺達のベッドで激しく愛し合う様は、今思い出しても吐き気がする。
……寝室に乗り込んだ後。
エマは俺の姿を見ると一瞬動揺したような様子を見せたが、次の瞬間には、まるで俺に見せつけるように男と舌を絡め合った激しい口付けをしたのだ。
そして、妻は。
『んちゅ、ちゅっ……ミゲルさんの唾液、凄く美味しいです。もっとください』
美味しそうに、奴の唾液を。
「ぐっ……おええっ……」
あの時の状況を思い出してしまった俺は、たまらずトイレに駆け込む。
少し前まで愛し合っていた妻が、優しく穏やかな笑顔を俺に見せていた最愛のエマが……裏ではあんな事を平然としていた事実に心が耐えられない。
俺がこうして苦しんでいる間にもあの2人は、昨日のように愛し合っているのだろうか。
俺達の家で、俺達の寝室で……今も。
「ぐっ……クソッ! なんでだよ!? なんで、あんな男とっ!!……なんで、なんだよ、エマ……ちくしょう……ちく、しょう」
本当に、最悪の気分だ。
俺は今まで、あんな女のために必死に働いて……人生を無駄にして来たっていうのか?
こんな事になるなら、あの時酔っ払いに絡まれていたエマなんか助けなければ良かった! 無視して、関わらなければ。
仲良くなんて、ならなければ。
……だけど、当時のエマは、とても純粋で優しい女性だったんだ。
助けたことを切欠にエマと話す度に、彼女の事がどんどん好きになっていった。
彼女から告白された時は、今まで感じたことがないほど幸せな気持ちとなった。
彼女と初めてキスをした時は、このまま時間が止まれば良いと思った。
彼女と結ばれた時は、俺が必ず幸せにしなければと強く決意した。
結婚してからも、上手くいってたんだ。
仕事で辛いことがあっても、家に帰れば笑顔のエマが出迎えてくれたから。
彼女がずっと笑顔でいられるように、俺なりに頑張ってきたつもりだった。
それなのに――彼女は俺を裏切り、他の男と浮気した。
身体だけじゃない、あいつは……心まであの男に陥落したんだ。
男と繋がったまま、嬌声を漏らしながらエマは俺に吐き捨てるように言った。
いかに俺がミゲルという男より劣っているのか。
ミゲルという男を、自分がどれだけ愛しているのか。
俺といて、今までどれほどつまらない人生を送っていたのかを、エマは奴との行為を俺に見せ付けながら、何度も何度も繰り返し……叫んでいたのだ。
最初は怒りに染まっていた俺も、そのような言葉を何度も叩きつけられ、やがて心が折れた。エマとミゲルは、そんな俺の事などお構いなしにお互いを求め合うかのように絡み合い、行為もどんどんと激しくなっていった。
俺達のベッドで、まるで本物の夫婦のように激しく愛し合う2人を見た俺は……その場から立ち去った。もう、あの家に俺の居場所などなかったのだ。
いつから、どこまでが偽りだったのかは分からない。
だけど、一つだけ確かなのは……エマは、俺の事など最初から好きではなかったという事だ。
ははは……笑い話にもなりゃしないよな。
エマと想いが通じ合ってるなんて、今の今まで信じていたのだから。
本当に救えない、道化のような人生だ。