魔女は森の中へ 2-1
──一時間ほど、歩いた。
直線距離にしたら、一キロちょい、といったところか。
今の所、別段変わった所はない。
あたしの左手には、小型のトランシーバーくらいの機械がある。
軍用の、そこそこ優秀なエーテル計測器だ。
自然界に溢れているエーテル粒子は、場所によって濃度が濃かったり、薄かったりする。薄い分に関してはともかく、濃い環境下に人間が長時間留まると、脈拍や体温の上昇、めまい、吐き気、頭痛等の症状が出てくる。一般的に"エーテル酔い"と言われているものだ。一応言っておくと、限度を超えたらあっさりと死ぬ。
また、一定以上濃くても薄くても魔法の使用に支障が生じるし、濃いと通信の電波も阻害されてしまう。
このガルムデル大樹海内部では濃度の違いはかなり極端で、入った途端に気が遠くなる程濃い領域と、殆どない領域が隣り合っていたりする。しかも時間によって刻々と変化し、濃くなったり薄くなったり広くなったり狭くなったり移動したりと、規則性や法則性を見いだせないくらいにおかしな動きを見せるのだ。他の場所でもそりゃ多少の変動くらいはあるが、こんなにダイナミックじゃあない。
長年の研究により、一定濃度以上のエーテル粒子環境下に生物が置かれると、突然変異をする確率が跳ね上がることが分かっている。しかも交配によって次世代に変異が現れるのはもちろん、高濃度環境下で過ごした生物それ自体が急速に変質してしまう例もあるそうだ。ただし、そんな事例が見られるのは、当然だが全ての生物、動植物の中でもほんの一部でしかない。人間も含めて殆どの生物は、高濃度のエーテルの中では生きる事はできずに死滅する。丘の上で魚が生きていけないように、水の中で人が生きることができないように。ごく当たり前に。
この呆れるほど広大なガルムデル大樹海を形作っている多くの動植物が、その当たり前が通用しない、高濃度エーテル環境下に耐性を持ったもの……と言えば、ここの生態系の異常性がよりわかってもらえるだろうか。ただでさえおかしいのに、日夜濃ゆいエーテルを浴びているせいで、ここの動植物は新種や変異種、異常種の発見が後を絶たないのだ。計測不能なほどエーテルの濃度が高いと言われている奥地に行ったら、一体どんなのがいるか……あたしには想像すらつかない。
とはいえ……。
「……おかしいな」
小さく、つぶやいた。
エーテル計測器のメーター針が示す数値は別におかしくない。ちょっと高いかな? くらいのものでしかなく、すぐに人体に影響を及ぼす程じゃない。
鬱蒼と茂る木々のせいで、月明かりがあるとはいえ、周囲は濃い闇に沈んでいる。蜘蛛達はもちろん、あたしもある程度夜目は効くので相変わらず何の明かりも点けずに行動しているが……静かなのだ。
時折僅かな風が流れて下生えを揺らす音か、あたし達の足音くらいしか聞こえない。
それだけならまだしも、獣はおろか、虫の声ひとつしないのは、いくらなんでも異常と言えた。
ただでさえ森の中なんていったら、虫やら蛭やらが頼みもしないのに寄ってくるものだし、姿は見せなくとも、鳥や獣の気配くらいは漂っているものだ。特にここはガルムデル大樹海である。まだ浅い所とは言え、もっと早々にわけわからん獣の一匹や二匹が挨拶代わりに襲ってきてないとだめなのだ。いやだめじゃないけど。とにかくおかしい。これじゃ単なる夜の森林散歩じゃないか!
納得できないものを感じていると、ちょうど斥候役で先行させていた背中に何も乗せていない二体の蜘蛛のうちの一体が戻ってきた。
口になにか咥えているようだが、これって……。
「拳銃?」
オートマチックの拳銃、このモデルはうちの軍の正式採用のものだ。スライドが後退した状態なので、全弾撃ち尽くした後、という事だろうか。手にとって弾倉を抜いてみると、確かに空だった。しかし動作に問題はなく、錆や傷もほぼなし。十分にまだ使える品だ。銃身に触っても熱は感じないので、撃ってから多少時間は過ぎていると思われる。
……じゃあこれの持ち主はどうした? いや、それよりも……何に対して撃った?
ロミルは言っていた。軍の偵察部隊が消息不明だと。
軍の方でも捜索を開始する動きはあるようだが、実際に動くのは夜明けになってからの見通しになるとの追加情報ももらっている。まあ、夜のガルムデル大樹海にホイホイ踏み込んでいく命知らずなんて、普通はいないからね。
……ここにいるんだけどさ。
拳銃を蜘蛛の背負ったコンテナのひとつに放り込むと、あたしは咥えてきた一体に告げた。
「案内して」
反応は速く、すぐに回れ右して動き出す。
あたしとその他大勢も、直ちに後を追った。
今度は十分としないうちに、よく聞く手合の響きが耳に飛び込んできた。
タタタン、タタタン、という連続した音。間違いなく、銃声だ。しかも自動小銃っぽい。
木々に反響しているので、あたしには方向はよくわからない。だったらわかる奴らに任せればいい。
「散開! 突撃! 発砲者を確認しつつ援護!」
あたしの指示を受けた蜘蛛達が、瞬時に四方に散る。
「おまえはちょい待ち。あたしを乗せて撃ってる奴のとこに直行」
案内してきた蜘蛛の背に、ひらりと乗った。
木々の間を抜け、倒木を飛び越え、下草を揺らしつつ疾走する。彼等がその気になったら、この程度の障害物などあってないようなものだ。かなり速い。
銃声がどんどん大きくなり、やがて暗闇にマズルフラッシュの光がチカチカと見えるようになった。
「あそこだ! 突っ込め!」
さらに、ぐん、と加速する。
腰のホルスターからショットガンを抜いて──
「跳べ!」
おもむろに大ジャンプ。
ちょうど撃っている人間の頭上に放物線を描く軌道だ。頂点をやや過ぎたあたりでタイミングを測って、蜘蛛の背から飛び降りる。
チラッと見えた人影の少し後方に着地すると、勢い余ってそのまま地面を転がった。割と痛い。
「きゃ!?」
「なんだぁ!?」
声はふたつ。相変わらず暗くて見えないが、シルエットも二人分だ。男女ひとりずつ、かな。
「落ち着いて、こっちは味方!」
慌てて撃たれちゃたまらないので、大声を張り上げた。
ほぼ同時に、こっちに向かってなんか黒い小柄な影が飛びかかってきたので、起き上がりざまの膝立ち姿勢でぶっ放す。
どこん、と夜気を切り裂く新たな銃声。銃口から飛び出す派手な火花。夜だとやっぱり目立つよね、これ。
散弾は数メートル先の空中にいた目標の右半身にまんべんなく当たったみたいで、途中で軌道を思いっきり変えつつ、錐揉みしながらあたしの足元に落下してきた。適当な照準でも、至近距離なら結構当たる。銃口から飛び出た瞬間に散弾が広範囲に散らばるというこのソウドオフショットガンの特性は実にありがたい所だ。だからこそ、愛用しているわけだけれど。
それはビクビクと地面の上で僅かに痙攣しただけで、すぐに動かなくなった。見た目は体長一メートルちょっとくらいの猿だ。体毛は深い焦げ茶色。普通の猿とあからさまに違うのは、やたら筋肉質な事と、口の中に鋭く並んだキザギザの歯列だろう。歯並びだけなら鮫を思わせる程尖っている。
一目でわかった。ガルムデルカミツキザルだ。この森の固有種である。群れを形成するのは一般の猿と同じだが、こいつらはその群れでもって集団で狩りを行う。雑食で、性格は獰猛。かなり巨大な生物にも集団で襲いかかる凶暴さを持っているという、実に剣呑なお猿さんだ。危険度は高いが、この森ではせいぜいが並のレベルでしかない。
「……ん?」
ふと、気になるモノが目についた。
死体になった猿の首の所に、何かある。
しゃがみ込み、腰のパウチの中から小型のタクティカルライトを取り出し、点ける。猿の首の部分だけを照らしてみっつ数え、消した。まだ何がいるかわからない夜間戦闘中に、のんびり明かりをつけて目立つのはよろしくない。
とはいえ、"それ"を確認しなくてはならないと、あたしの中で湧き上がる衝動を抑えられなかった。
魔女の勘は、割と馬鹿にならない。特に悪い方向に働くときは。
あたしが光の中に見たのは、淡いピンク色をした杭のようなものだ。
水晶のような硬質感と透明さを持っており、長さは十センチ、太さは直径一センチちょいくらい。荒く削られた石器のように、表面はゴツゴツしていた。
それが……生えていたのだ。猿の首の横から。いや、刺さっていた、というべきか。ただ、接合面から血などは出ておらず、むしろ盛り上がり、火傷のケロイドのように変化した皮膚が放射状に広がっていた。
──なにこれ? 刺さった後で治癒した……というより、周りの組織と同化? あるいは侵食? 寄生?
いずれにせよ、こんなシロモノは見たことも聞いたこともない。