魔女は夢を見、そして目覚める 6-4
「どれ、じゃああたしも久々にあれを虐めてやるとするかね」
爽やか、とはとても言えない笑みを浮かべたまま、バルザイール様が前に進み出る。腰のポーチから何かの小瓶を取り出すと、蓋を外して無造作に振った。空中に細かい粉のようなものが広がり……すぐに見えなくなる。
「あいつの身体に直接穴を空けることはできるかい?」
「いえ、私の能力では無理そうです」
「やっぱりあれかい、単純にやたら硬いものや、生きているものには穴が開けにくいんだね?」
「はい」
「そのへんもドメイラと同じだね。なるほど、確かに受け継いでいるようだ。でも、ドメイラの奴はあいつらにも穴を空けてたよ。それに比べたらまだまだだね」
「はい、精進します」
「そうしな」
二人がそんな会話を交わしているうちに、穴から鋼の獣が這い出してきた。先程と同じように、また目に強い光を帯び始めたが……。
「もう撃たせる気はないよ」
獣の頭が、急速に膨らんだように見えた。だが、実際はそうじゃない。何の前置きもなく、獣の頭全体が、すっぽりと大きな白い塊に包まれたのだ。
目のあったあたりで鈍い音がして爆発が起こり、衝撃で倒れた獣がまた穴の中に逆戻りしていった。
……なに、今の……?
「あれが菌糸の魔女の能力のひとつです。急速に菌の増殖を促して、対象に大量に付着させ、自由を奪う。もしくは……」
「菌に対象を食わせる」
魔女王様が説明してくれようとしたが、途中からバルザイール様が自ら口にする。
「まあ、今のはどっちでもないがね。あの光線は撃つ直前に出口を塞ぐと暴発するんだ。前の戦争でも散々使った手さ。ちなみに今のは麹菌。対人だったら白癬菌あたりをよく使うよ」
それを聞いて、ようやくあたしも理解できた。
そっか。さっき瓶から撒いていたのは、麹菌の胞子かなんかだったんだ。
白癬菌っていうのは……確か水虫の菌だね。
前の大戦では、敵兵を片っ端から水虫やたむしに感染させまくって大活躍だったという話は有名で、あたしも知ってる。たかが水虫と侮ることなかれ。菌糸の魔女の操る水虫は並じゃなく、たちまちのうちに全身に広がって、犠牲者は気が狂うほどの痒みに襲われたという。そうなったらどんな英傑だって戦意を失う。
他にもキノコを大量に生やした、なんて話もあるから、多種多様な菌を扱えるのだろうと思う。ただ、菌ならなんでも扱えるというわけではなく、あたしの虫なんかと同じで、自分自身の心が扱えると感じたものだけだ、たぶん。
「こちらも準備しましょうか。このままだとあの二人が倒してしまいそうですから」
「はい」
あたしが片袖をまくると、魔女王様は肩に掛けたバッグから使い捨ての注射器その他を取り出した。慣れた手付きであたしの腕にゴム管を巻き付けると、消毒薬が染み込んだ脱脂綿で軽く拭き、注射器の先端を軽く押し当てる。
「最後に確認します。あの獣を相手として、召喚は可能ですね?」
「はい、大丈夫です」
頷くあたし。袖をまくっていない方の手が、自然と胸──心臓の上へと移動する。
自分の鼓動を感じながら、今も穴を這い上がろうとしている獣を見る。
──あれは……滅ぼすべき敵だ。
何者かの意志が、そう告げていた。
あたしには、理解できない。
いや、そもそも理解してはいけないものなのかもしれない。
あたしなんていうちっぽけな人間の小娘一人には到底収まりきれない、強大で、破滅的で、狂気に満ちたもの……。
けれど、どういうわけか、あたしとそれは繋がった。
そいつにとって、あたしは門みたいなものなのだろう。
あたしという存在を介さなければ、こちらに出て来ることができないのだ。
ただ、そいつに比べたら、あたしなんて何もかもが矮小過ぎて問題にならない。
だから、そいつが持つ本来の力の、ごく限られた一部しか顕現できない……はずだ。
「……ラーゼリア」
ふと、名前を呼ばれる。誰でもない、目の前のルナティリア様に。
魔女王様はしゃがんであたしと目線の高さを合わせていた。思ったよりも顔が近く、ちょっと焦る。
「注射は苦手ですか?」
「は? ええ、と……あまり得意ではありません、が……」
真面目な顔でいきなりそんな事を問われて、返答が怪しくなった。
「そうですか。ではこうしましょう」
「うわ」
魔女王様の言葉と共に、注射器が消失する。いや、針を当てられている感触はあるので、見えなくなっただけのようだ。顔をちょっと動かして角度を変えても、全く目に映らない。注射器を持っている魔女王様の手はそのままの形で見えているのに、注射器だけが空気と同化してしまったみたいに、完全に消えている。
「光の屈折率を変えて透過するようにしました」
「ふわぁ……」
説明されてもため息しか出ない。凄いなこれ。一瞬でこんな事できるんだ。
「殆どの人にとって、光とは目に入ってくる情報でしかありません。ですが、私にとって光とは、掴めるものであり、曲げたり伸ばしたり、色を変えたりできる便利なものなのです。この感覚は、おそらく他の人には理解できないでしょう」
あたしの目をじっと見つめたまま、魔女王様は言葉を続ける。
「おおむね魔女の力というのは、そういうものです。使える自分だけが感覚的にわかるもので、他の者にはわかりませんし、伝わりません。言葉での説明はできますが、それは表面的に見える部分だけであり、本質的な部分まで他人に理解してもらえることはありません。それどころか、能力を使える魔女本人ですら、自分がなんでこんな事ができるのかわからないのです」
……そう。魔女の能力とは、そういうものなのだ。
魔法でもなく、科学でも解明できない、未知の力。もっと先へと時代が進めばいずれは謎が解き明かされるのかもしれない。あるいは、超越遺物を生み出した超古代文明が栄えていた時代には、謎ではなかったのかもしれないと……そんな風にも言われていたりする。
「怖れる事はありません。それがどんな力であろうとも、結局は使う者次第なのです。便利なものを危険に使うことも、危険なものを便利に使うことも、決めるのはその力を持つ個人です。そしてなにより、力を持っているのは貴女ひとりではありません。私もそうですし、他にも大勢います」
「……はい」
「貴女がもし、道に迷うようであれば、私達が力になります。ここはかつて、異端の力と呼ばれて恐れられた能力を持った者達が集い、多くの血を流して作った国です。恐れず、怯まず、己の能力に向き合って前に進みなさい。それがどんな能力であったとしても、貴女は魔女です。私達の同胞なのです、魔女ラーゼリア」
「……はい!」
魔女王様に面と向かってそんな事を言われたら、心が奮い立たずにはいられない。魔女ならば例外なくそうだろう。少なくともあたしのやる気は一気に天井まで駆け上がった。
よーしやってやる。なにが鋼の獣だ、あんな動物のできそこないなんか、地の果てまでぶっ飛ばしてやる!
穴から這い上がろうとしてはファロディアさん達に能力でもってちょっかいをかけられて落ちる、を繰り返している獣。なんかその姿は少々哀れを誘う気がしないでもないが、遠慮なんてしない。してやらない。
「おーおー、ちょっと励まされただけですっかり鼻息荒くして。随分と簡単な性格してるじゃないか」
しわしわの老婆がなんか言ってたが、そっちを見ることもしなかった。というか、あからさまにそっぽを向いてやった。英雄に対して無礼かもしれない。が、無礼には無礼で返したっていいだろう。何しろここにはこの国の頂点である魔女王様がいらっしゃるのだ。それ以外の人間なんてもうおしなべて平等だ。そう思うことにする。いいんだよ! 魔女王様だって特に注意してこないし。苦笑してる気がするけど。いいの!
「はい、採血できましたよ」
「ありがとうございます。魔女王様」
いつの間にか注射器での採血も終わっていた。見えなかったせいか、痛みも殆どなかった気がする。さすが魔女王様!
「じゃあ、やります。あたしの側から離れないで下さい。それで危険はないはずです」
血液が満たされた注射器を、顔の前にかざした。そのずっと向こうに、穴から性懲りもなく這い上がってこようとしている鋼の獣がいる。
「好きにおやりなさい」
「お手並み拝見だね」
ルナティリア様とバルザイール様が、あたしを挟んで両隣に立つ。ファロディアさんは音もなく、魔女王様の背後に移動した。
あたしはひとつ頷くと、注射器を持つ手とは逆の手のひらを心臓の上あたりに置く。
あたしはそいつに命令をしない。頼みもしない。
ただ、この場に出てくる事だけを選択させる。
故に、問う。
答えのわかっている問いを、放つ。
「あれは……お前が相手をするに相応しいものか?」
そして──あたしは初めて"心臓"を召喚し、それを見ることもなく気を失ったのだった。




