魔女は奥の手を使う 5-6
「……あ……こんな……」
痛い、というより、むしろ驚いた顔をしたジアは、腹に空いた傷を手で押さえ、そこから溢れ出る血を見ている。
背後では妹を内包した巨大水晶が、かなり早い勢いで明滅していた。その様は、まるで悲鳴を上げているようにも思える。中の妹、メリエは相変わらず、身体どころか表情もまったく動いてはいないが。
残っていた全ての柱が一斉に立ち上がると、唸りを上げてこちらに迫ってきた。
大亀の甲羅にも、今まで以上に強い光が籠もっていく。
「おー、さすがに怒ったか?」
「みたいですね……でも」
二人が、こっちを見ていた。
あたしが、立ち上がった所を。
「お待たせ。交代するよ」
あたしの右手には、血が満たされた注射器。
「ああ、後は頼んだ」
「美味しいところ、全部持ってっちゃって下さい」
なんて、二人が言ってくる。
その期待には、答えなければなるまい。
とはいえ……。
「あたし自身がやるわけじゃないけどね」
苦笑しつつ、左手を胸のあたりに置いた。
そう、やるのはあたしじゃない。今から呼ぶ存在が、全てを片付ける。
「……あれは、お前が相手をするに相応しい者達か?」
あたしは、問う。これからこの場に召喚するモノに。
答えは既に知っている。
そいつは、相手を選ぶのだ。
そいつ自身が敵と認めるに相応しいだけの相手がその場にいなければ、決して呼びかけにはこたえない。
そしてあたしは、そいつが求める敵がいれば、なんとなく察することができる。
目の前の姉妹は……間違いなく敵だ。
あたしには、それが既にわかっている。感じている。
わかっていながら……あえて問うのだ。
そいつ自身に、この場に現れる事を選択させるのだ。
そいつは……本来あたしなんかが手を出しちゃいけないモノだ。
だから、極力関わりたくない。
あたしはそいつに、命令をしない。頼みもしない。
そいつ自身が選んだ相手の前に、選んだタイミングで出てきてもらう。
だから聞く。そして選択を促す。
あたしの胸が、大きく一度、ドクンと跳ねた。
そいつが、あたしがとっくに知っている答えを告げてくる。
──是、と。
これで、決まりだ。
「ならば来るといい。現れるといい。そして思うままにその力を示すといい。今、扉を開け、その鎖を解き放つ──」
瞬間、あたしの右手に握られた注射器にヒビが走り、砕けた。
当然空中に飛び散るはずの血は、どこにもない。何かに吸われるようにして一点に集まり、消えていく。
そいつは、あたしの血でしか呼び出せない。
注射器の中にあった全ての赤い液体が消えると、あたしの意識もまた、暗闇の中に落ちていく。
そいつを呼び出す時は、いつもこうだ。
あたしは、必ず意識を失う。
なので……この後起きたことを、あたしは一切見ていない。
レグゼムとミディオレが最初に目にしたのは、こちらに向かって叩きつけられようとしていた無数の水晶の柱や、大亀の放った強力な熱弾──それらの全てが一瞬にして消え失せる瞬間だった。
「……は?」
思わず間の抜けた声が漏れたレグゼムの反応は当然だったろう。
蟹の鋏が生えた柱も、蛇の身体をくっつけた柱も、先端に何も付いていない柱も、例外なく消失した。亀の放った熱弾など、最早熱の痕跡すら感じない。目に見える物体だけでなく、熱のようなエネルギーすら、刹那とも言える時間のうちに無くなってしまったのだ。それこそ夢や幻、悪い冗談とでも言う他ない、圧倒的でありえない破壊現象だった。
ただ、単にこれらが消えた、というわけではない。
飛来した熱弾こそ跡形もなくなったが、柱の方はレグゼム達に向かって攻撃しようとしていた先端部のみが掻き消えている。大体先から五メートル程、とレグゼムは判じた。そこからの部分は未だ健在であり、激しく空中や地面の上でのたくっていた。大多数がまだこちらに向かってこようとしている。しかし、尽くが近寄れない。近づこうとすると、それが空中であっても地上であっても、削り取られるように無くなっていくのだ。
自分達を中心として、おおよそ半径五メートル程の絶対安全圏が築かれている。レグゼムはすぐに、それを理解した。しかもその範囲は急速に広がりつつあり、範囲の外にある全てのものを容赦せずに飲み込んでいっている。後に残るものは……殆どない。ほんの僅かに、空中に白いものが散らばるだけだ。
それはまるで雪のように空を舞い、レグゼムの下にもふわりと降りてきた。
身体についても特に異常は起きないのを見て、レグゼムは指先で軽く撫ぜてみる。感触は殆どなかった。触れただけでサラリと崩れて指先に汚れを残す様は……。
「……灰、か?」
指先をじっと眺めて、彼は呟いた。まさしく灰だ。そうとしか思えない。
ごく少量の灰のみを残して、触れるもの全てを喰らうもの……そんなもの、聞いたこともない。あの魔女殿は、一体何を召喚したというのか……。
「レ、レグゼム軍曹……」
小さな声で呼ばれ、彼は振り返る。
召喚直後に倒れてしまった魔女に膝枕しつつ、自らも地面に座り込んでいるミディオレがそこにいた。
「なん──」
なんだ、と返事をしようとしたが、途中で止まる。
ミディオレの顔は真っ青で、身体も細かく震えている。先程までの勇ましい彼女はそこになく、ただ怯えた一人の女性の姿があった。
呆けたような彼女の視線は、真っ直ぐ頭上へと向けられ、微動だにしていない。
ゆっくりと……レグゼムも上を見上げた。
「…………!?」
咄嗟に、言葉は出なかった。息と共に、思考さえ止まってしまった。
彼等の頭上高くに……巨大な"心臓"が浮かんでいた。
左右の心房と心室、そこに繋がる太い動脈と静脈……構造的には、人のそれ、だろう、おそらく。ただ、そのサイズは優に三メートルを超えている。
ゆっくりと拍動を繰り返しているが、音は一切聞こえない。
全体は、赤黒い肉の質感だ。ただ、ところどころにそれ以外の部品が融合していた。巨大な複数の歯車が噛み合いながら回転し、曲がりくねったパイプからはときおり白煙が立ち上り、幾つものピストンが激しく上下している。何かと接続するためのものか、用途不明のコードが幾本も垂れ下がり、ゆらゆらと先端の端子部を揺らしていた。
明らかに肉の質感を持ちながら、機械も組み込まれ、それらが全て奇妙な調和を見せて動き続ける心臓。
断ち切られた動脈や静脈の先からは、拍動に合わせて赤と黒が複雑に絡み合った煙──何がしかの粒子が噴出し、それが心臓の上空で雲となって広がっていく。その範囲が、どうやら破壊の範囲と同一らしい。広がる雲の直下、その空間に含まれるものは、何もかもが例外なく灰となって、ただ静かに崩壊していくのだ。
唯一の例外が、レグゼム達のいる心臓の真下だった。
ここだけは、およそ半径二メートル程の円形空間が一切の影響を受けていない。
安全地帯の中心点になっているのは、間違いなく国家認定魔女、ラーゼリアその人である。
──準備が済んで発動したら、あたしの側から絶対に離れないこと。でないと死ぬ。
レグゼムは彼女の言葉を思い出していた。
まあ、確かにこれは死ぬわな。多少大げさに言っているんだろう、なんて考えていた自分はとてつもなく甘かったようだ。
レグゼムは彼女達に並ぶ位置に移動すると、コンテナを背にして座り込んだ。
「レグゼムさん……こ、これって……あの、あれですよね……」
「ああ、たぶんな。なるほど、こりゃ確かに最重要機密だ。迂闊に外部に漏らしたらそりゃ命のふたつやみっつくらい取られたっておかしくないぞ」
「ふわぁ……本物なんだ、これ……」
畏れと、若干好奇心も混じった瞳で、ミディオレは心臓を見上げる。
結構慣れるの早いなこいつ、とか思いつつ、レグゼムは、
……本物、かどうかはわからんがな。
と、胸の内で呟くのだった。
かつて、この世界を滅ぼした大きな要因と言われている魔神。
古代人達がその姿を描いたとされる壁画は世界各地に遺されており、どれにも大きな共通点がある。
それが、巨大な人の姿をした胸の部分に、必ず大きな赤黒い心臓が描かれている、という事だ。
この空に浮かぶ禍々しい心臓と、今目の前で繰り広げられている破壊の現場を目撃すれば、まず人は真っ先に魔神の心臓を思い浮かべる事だろう。レグゼムとミディオレが実際そうだったように。
しかし、本当にこれが魔神の心臓なのか、と問われれば、誰も断言はできないのだ。
各地の壁画に描かれた魔神の心臓に限りなく近いと思われる何か、というのが正確な所だろう。
何しろ、実際に魔神を見た者など誰もいないのだ。残された手がかりも、古い壁画だけ。
それに何より、ここにあるのは心臓のみである。巨大な人など、どこを見回しても影も形もない。
故に……これと壁画に描かれた魔神の心臓が同一かと言われたら……近いものかもしれないが、同じだと断定するには決め手にかける、というのがレグゼムの感想だった。
……なんにせよ、常識外れなものばかり召喚するよな、この魔女殿は。
目を覚ます気配のないラーゼリアを見ながら、複雑な顔をするレグゼム。呆れ、疲れ、同情、苦笑……彼の中でさまざまな感情が混じり合って発酵しているものと予想される。
「ただひとつ確実に言えるのは……」
一転して、レグゼムは鋭い視線を一点に向けた。
「お前等はもう終わりって事だ」
ジアとメリエ、敵である姉妹へと。




