始まりの日
目覚めを告げる音が鳴り響く。
窓から差し込む白い光。眩しくて瞳を伏せつつ枕元にあった携帯電話を何とか探し当てると、アラームをオフにした。
画面にはデカデカと北京で起きた災害のニュースが表示されており、一か月ほど前に起きた大地震によって中国国内は大規模な暴動が起きているらしいとの事だった。
何時も通りのニュースに目を通すと、メールの着信を知らせる表示。
それに目を通してチャット通信アプリを立ち上げる。
友人からの知らせに何時も通りの既読スルーを行ってベッドから起き上がった。
ベッド脇に置いてあった読みかけの小説を本棚に仕舞うと、壁に並べられたアーチェリーの一つを手に取りバッグに入れた。
今日は月初めの月曜日。
神が最初に世界を作り始めた日、と言うのは聖書の一節であったが僕は学校が始まる月曜日の朝に趣味の物を手にして家を後にした。
輪行バッグを幾つもマウンテンバイクの後輪に取りつける。
アーチェリーの道具は意外に多い。
三脚や双眼鏡、予備の矢に、予備のリリーサー。
メンテナンス用品がかなりの割合を占めている気もしないでもないが、一日中撃つのだから故障に見舞われる度に家に帰ると言うのは中々に骨が折れるので、こうやって必要に迫られる可能性の物品は予め積んでおくのが恒例となっていた。
自宅から射撃場までの道すがら、幾つかの信号に出くわす。
遠くから響くサイレンの音は何時もより多い。今日は何かあったのだろうか。
そう思いつつ日本海から吹き付ける強い風を感じていた。
射撃場は日本海に面した米山市内にあった。
シューターの間では風が強くて練習に成らないと不人気であり、閑古鳥が鳴く様な場所であった。
だけど、貸し切り状態のシューティングレンジと言うのは何処となく優越感をもたらす。
どんな弓を使っていても疎外感を感じないし、隣の人とか気にしなくて良いのは中々に貴重である。
こいつ、平日の朝っぱらから一日中撃ちまくってやがる、なんて思われて白い目で見られるのも嫌だ。
射撃に置いて集中できると言うのは存外、重要な要素だったりする。
射手が当たらないと思った矢はどう転んでも当たらない。
逆に当たると思った矢玉は面白いように当たる。
だからこそ、人が居ない時の方が自然と矢玉は高得点ゾーンに集中する事となる。
やはり撃つのならシッカリ狙いたい。余りにも当たらない状態に慣れ過ぎると射手として駄目になった気がして嫌だったからだろう。
そう思いつつ、70ポンドの弓を引いていくと、小さなクリック音。
弓が限界まで引かれた証拠だった。コンパウンドボウは引きの最初が一番重く、最後の引き終わりが一番軽い。
だから保持が楽であるのだが、弓矢と違ってリリーサーと呼ばれる弦をロックする道具を使用する事によって腕の力だけで矢を保持できる。
この機構の組み合わせにより、不登校児の僕にでも80メートル先の扇子を撃ち抜けるくらいの命中精度を与えてくれるのだが―――――そう思いつつリリーサーの引き金に指をかける。
ほんの少しづつ力を加え、サイトに目標を入れつつ引金を落とすようにして矢を放った。
バシン、と言う嫌な音が木霊する。
「うわ、矢玉が重なった」
一発目と同じ場所に当たった矢玉は互いを鞭打った状態になった。
中心の十点ゾーンに二発目も命中した証拠だった。言葉とは裏腹に少しだけ嬉しかった。
練習すればこの道具は答えてくれる。
孤独だった僕に答えてくれる唯一の物だったそれは、ある意味で心の支えでもあった。
こんな時だけは学校と言うモノレールからドロップアウトした事を幸せな事だったと思える瞬間だった。
学校のチャイムが聞こえてくる。
そう言えば、もうそろそろ期末試験か。もう関係は無い事であったが。
そう考えつつ、弦を引く。
「学年トップの優等生様が今は不登校児。人生どうなるか解らない物だよな」
そう呟いて、残りの矢を放っていった。
◇ ◇ ◇
市街から少し外れた場所、そこには広がる田畑の中にぽつりと佇む高校に鳴り響くお昼のチャイム。
見晴らしの良い立地は海から吹き荒む日本海の風に吹きつけられる。
その風は、すっかり涼しくなった夏の終わりを告げる日暮らしの鳴く声と共に教室内に入り込んでいった。
「ん~っ!やっとお昼だぁ」
「ちょっとユカ?またあの不良男に弁当持っていくんですの?」
丁度席から立ち上がり、お弁当箱を詰め込んだバッグを持ち上げるユカを胡乱な視線で制す人影。
「もう、不良じゃなくてハル君だよ~。相変わらずツンデレやな~、真理愛ちゃんは。本当は心配しとるくせにぃ」
「ち、ちがいます。ただ、無為に自身の才能を棄てているあの男が許せないだけですわ」
真理愛の様子に思わず笑みを浮かべるユカ。
「一緒に来ればいいのに。喜ぶと思うけどなぁ」
行きませんわ、と一言だけ言い残すとフイっと顔を背ける。
ユカは親友の何時も通りの反応を見つつ、大きめの鞄を背負い教室を後にした。
自転車に乗り込んだユカは学校から少し離れた場所へ向かっていた。
市内で数少ないアーチェリーなどを射ることが出来る射撃場であったそこは、ハルが何時も利用している場所であった。
毎日通う道であったため、ユカは何時もと違う街の様子に気が付くことが出来た。
「なんか、今日は警察の車多いなぁ」
通りを曲がる度に警察車両とすれ違う。
それは普通なら有り得ない。
小さな町に不必要な程の警察車両は何かを警戒しているようであったが、彼女が開いた携帯電話には何一つそれを示唆する情報は無かった。
不穏な空気と言うのは漂うモノである。
彼女の周りにもそう言った類の物が流れていた。
「煙臭い?なんやろ」
彼女は煤けた臭いを辿るように鼻をひくつかせると、その大本を見つける。
そこには、長い狼煙のような煙が上がっていた。
商店街に隠れてよく見なかったが、その方向は市内で唯一の警察署が有る場所であった。
「なんで、警察署の方から煙が――――」
言いようの無い不安は彼女の心の底から徐々に湧き上がってきた。
警察署とは、街の治安を維持する場所であり、人の体でいう所の免疫系を司る場所である。
そこか破壊されていると言う事は―――――細菌が増殖し放題と言う事であった。
彼女にも朧気であったがその事が本能的に分かったのだ。
だからこそ、その先から聞こえてきた悲鳴にも直ぐに気が付けた。
その悲鳴の先に視線を移す彼女の視界には沢山の人だかり。
見世物を見ているように集まる人々は何かを見ている様子ではあったが、それぞれの顔には得体のしれない恐怖が張り付いていた。
周りを見ていた男達は一様に警察を呼ぼうとはしない。
「どうしたんですか!?警察は!?」
そう言って急いで近くに駆け寄るユカ。
男達は顔を見合わせて答えた。
「警察?これだけ他の人が居るんだ。呼んでいるに決まっているだろ?それよりもあの男、目がやべぇぜ。ツイッターに上げたらフォロワー伸びるかも」
そう言って男は携帯電話で写真を撮っている。
その先には血だらけの男に噛みつく男。
噛みつかれた男の皮膚は破れ、ナニカが零れ落ちていた。
咄嗟に嗚咽を抑えるユカ。
この際、通報電話がタブっても良いと、彼女は藁をも縋る思いで警察へ電話するが―――――聞こえてきたのは知らない女性の声だった。
彼女は切羽詰まった様子で訴えかけてきた。
―――――――もしもし!?聞こえてるんなら誰でも良いから警察を呼んで!目の前で人が人を食ってるッ!アイツ、こっちに来た!
そう言い残し、通話は終了した。数多の発信局が同じ局に通話情報を伝えると違う人に電話が通じる事があるのだ。しかし、彼女はそれを知る由も無かった。
(なに、これ)
彼女は呪文のように心の中で叫び続ける。
狼煙のように上がっていた煙はその数を増していた。
不気味に広がる煙は何時の間にか市街地のあちこちから上がっていた。
ユカが通報をする数時間前、市内の警察署では非常事態に対応する為に幾つかの指令が降りていた。
と言うのも、北京で発生した暴動は凄まじい勢いで広がっており、同時に北朝鮮でも暴動が発生しておりその影響で、北朝鮮から大量の難民が発生していた。
そして同国の漁船と思われる漂着船が市内の海岸で発見されたとの通報があったのだ。
当然、北朝鮮の船が日本の哨戒網を掻い潜ったとあっては大問題になる為、その情報は“市民のパニックを防ぐ為”と言う至極真っ当に見える理由に梱包された。
当然、その判断は官邸がした訳だが、その判断自体が事を荒立てたくないと言う危機原則からすると最も忌むべき感情であった。そして彼等の懸念事項はもう一つ―――――――この大規模暴動がウイルスによって引き起こされたかもしれないと言う事だった。
「大臣、君は中国及び朝鮮半島で発生した同時多発的な暴動はウイルスによるものだと言いたいのかね?」
「はい。幾つかの情報筋から得た信頼性の低い情報ですが、既にロシアは国境を封鎖。警備を厳重に強化しています。我々も備える必要があるかと」
「しかし、野党が五月蠅いからな。唯でさえ南スーダンから自衛隊を撤退させたことを失敗だったと声を大にする連中だ。何を言われるか解った物じゃない」
「南スーダンの件は仕方ありません。誰も、部隊を撤退させた直後に虐殺が起きる事など予測できませんでしたから。それに、あの判断は正解だったかも知れません。現に中国海軍とロシア海軍は不穏な動きをみせています。今の自衛隊に他国を気遣っている余裕なんてありませんから」
「そうだな。だが、日米の絆は盤石だ。しかし何が有るか解らん。自衛隊には一応、非常招集をかけるように伝えろ。マスコミに悟られぬようにしろよ」
「はい。ではそのように」
日本がアメリカを頼りにしているのは誰が見ても明白であった。
だが、事がアメリカ国内に飛び火した時、彼等は簡単に日本を見捨てる事となる。
彼等も人間である。
自らの家でもないのにその国を命がけで守れと言われても素直に頷けないのが心情と言う物。
そして極東の国はその事実を身をもって知る事となる。