兆し
地球人口は80億人を突破しようとしていた。
人類は地表で最も繁栄した種となったが、同時にそれは狭い地表に犇めく様に暮らさなければならない事を示していた。
狭い事は多くの感染症を媒介する為にプラスに働いた。
現に、人が感染する病気は大抵の場合、あっという間に広がった。
一重にそれは人種の密度が高い事に起因した。
だが、過去、数千年間に渡って人種は病気が引き起こした惨禍から生き残る事が出来た。
これは、パンデミックを引き起こしたウイルス達が極めて致死率の高い感染症だったからだ。
生きた宿主が居なくなってしまえば、感染が広がる事は無く、ウイルス達は自慢の致死率によって地球上から消え去る運命にあったのだ。
だが、もし感染して死亡しても死体が歩き続けたらどうなっただろうか。
宿主が死んで尚も動き続ける事が出来ればウイルスは他の生きた宿主となる生き物と出会う確率が上がる。それはつまり、過去発生したパンデミック危機の終息原因であった宿主の激減と言う現象が起きない事を意味していた。
そしてこの手のウイルス達はその他のウイルスと交配する事が知られていた。一つの細胞の中に二つのウイルスが混じり合うと、ウイルスとしての特性が移るのだ。
豚インフルエンザがヒトインフルエンザになった様に、この手の変異は彼等にとっては日常茶飯事。
しかし、偶然にも生まれたウイルスは人類史上類を見ない特性を持っていた。
◇ ◇ ◇
カギとなる出来事は中華人民共和国にあるバイオセーフティーレベル4の隔離能力を持った研究所で起こった。
所謂、P4エリア内にはエボラ出血熱やマールブルグ熱などの人類に対して一番危険性が高いウイルスが保管されたエリアだった。この中には試験中に偶然生まれたウイルスも隔離されていた。
元々は国立だった当施設は資金難によって企業に資金を出資してもらう事によって存続していた。
その為、企業の開発する新薬やワクチンの開発などで利用され、当然研究員達の給料も企業が負担する事となっていた。そして、この施設を買収した企業は癌治療薬としてベクターウイルスを研究していた。
このウイルスは癌化した細胞にのみ感染し、細胞を破壊する事によって悪性腫瘍に対して高い治療効果を持っていた。
しかし、研究員たちは見落としていた。DNAをやり取りしたウイルスは、自身のDNAも書き換えてしまう事に。
それによって、試験中のノックアウトマウスの体内に侵入したこの薬は癌細胞とDNAを取り込んでしまった。そこから得られた特性。それは神経細胞を変異させることだった。
「ねぇ、これを見て頂戴」
防護服に身を包んだ研究員の女性は、ラットの脳髄から取り出した脳細胞を顕微鏡で覗いている。
プレパラートに伸された細胞は画面に映し出される。
雪の結晶の様に足を延ばした神経細胞は蜘蛛の巣の様になっている。
本来であれば取り出されて直ぐに細胞は死んでしまうが、画面に映った脳細胞は不気味に蠢いていた。
「こ、これは!?この神経細胞は生きているのか!?有り得ない……」
「B210ウイルスの影響かしら。ATPの酵素活性が異常に高いわ。この神経細胞は感染していないマウスと比べて神経細胞の活性度が十倍以上に跳ね上がってる。それに――――――」
女性の研究員は隔離された安全キャビネット内の飼育ゲージを見つめると、その中に居たマウスたちの惨事が映し出された。
「共食い、してるのか?しかし、生き残っているマウスも居るぞ」
「それは多分ノックアウトマウスの方。食われたのはB210に感染していないマウスね」
不気味にゲージを齧り続けるマウスの口には臓物の血潮がべっとりと付着しており、クリアケースを赤く汚していく。
研究員達はその様子を見つめながら、未知なる生物との邂逅を果たした。
「これは、局長に報告しなければ」
手に負えないと思った男はP4エリアを抜ける為に研究室を後にした。
この出来事の後に、未知なる生物が引き起こす第一号感染者が北京で発生する。
人類の黄昏はこうして静かに始まった。