用務員の一人娘
狭いアパートの一室は静まり返っていた。壁時計の秒針を刻む音がはっきりと聞こえてくる。コーヒーカップもすっかり冷え切っていた。
沢渕が何も言わなくなったことをいいことに、
「ひょっとしてお父さんのクラスに用務員さんの娘がいなかった?」
多喜子が突然訊いた。
「そう言えば、そんな子もいたかなあ」
「ええっ、本当?」
あまりの即答に、多喜子はむしろ信じられないという表情を浮かべた。
「噂は本当だったのね」
と奈帆子。
「噂って何だい?」
知輝は娘二人の顔を等分に見た。
沢渕が説明をする。
「実は山神高校には、昔から亡霊が出るという怪談がありまして、その亡霊というのが用務員さんの娘だと噂されているのです」
「ふうん、そうだったのか。私は山神高校の怪談は知らないんだが、当時私たちの小学校にも似たような噂が流れたことがあったよ」
いつしか多喜子は身を乗り出していた。
「その亡霊というのは、グランドピアノを弾きにやって来るのよ」
「そうそう、そんな話だった」
知輝は一人大きく頷いた。
「ということは、小学校にもグランドピアノがあったのね」
奈帆子が目を輝かせた。
「当時、どうしてそんな噂が立ったと思われますか?」
「夜中に学校のピアノを弾くことができるのは、やはり用務員の娘ぐらいしか考えられないからね」
「お父さん、その子の名前って分からない?」
多喜子がさらに身を乗り出した。
「それが思い出せないんだよ。今回の卒業生リストには入ってなかったし。月とか星とかっていう名前だったような……」
「お父さんも薄情ね。クラスメートの名前を覚えてないだなんて」
「そうは言うけどな、確かこの子は転校してきて、またすぐに転校になったんだよ。だからあまり印象がないんだ」
父親は娘の追求をかわそうと必死になった。
「タイムカプセルを埋めた日付は正確に分かりますか?」
沢渕が話を先に進めた。
「今からちょうど三十年前。8月7日だよ。掘り起こしたカプセルに日付が書いてあったから間違いない」
沢渕はメモを取った。
「夏休みのまっ只中ですね?」
「その日は登校日で、6年生全員で作業をしたんだ」
「出席状況は分かりますか?」
「小学校に当時の出席簿が残っていれば分かると思うが、今となっては調べようがないだろうね」
知輝はそう言ってから、
「待てよ。あの日は学校に来てから、みんなで将来の夢作文を書いたんだ。教室でそれをカプセルに入れて校庭に埋めた。ということは、カプセルを開けてみて、作文が出てきたら、その生徒は出席していたことになる」
「それじゃあ、欠席した子はどうなったの?」
そんな多喜子の質問に、
「昔はね、こういう行事を休む子はほとんどいなかったんだよ」
と返した。
「残念ながら6年2組のカプセルは見つかっていませんから、その日の出席状況は不明ということになりますね?」
「そうだね」
「それでは、お父さんの記憶を頼りにお伺いしますが、その日、用務員さんの娘は居ましたか?」
沢渕は核心に迫った。
「さあ、どうだったのかなあ。居たような、居ないような……」
「そこは何とか思い出して頂戴」
「しっかりしてよね、もう」
娘二人は父親に鞭打った。
「彼女は夏休み明けから学校には来てなかった気がするんだ。急に引っ越して、それっきりになってしまった」
「では、さっきの小学校の亡霊話は、彼女が急に姿を見せなくなってしまったことで、まことしやかに囁かれたものとは考えられませんか?」
「それはあり得るな」
「それで、お父さん。今回出てきた白骨死体がその子っていう可能性は?」
多喜子が真剣な眼差しで訊いた。
「正直分からないよ。でも、タイムカプセルを埋めた場所は当時の関係者しか知らないはずで、そこから子どもの死体が出てきたのであれば、当時の6年生の誰かがあの夏休みに埋められたと考えるのが自然な気がするなあ」
「転校して居なくなった用務員の娘の可能性が高いってことよね?」
多喜子が眼光鋭く言った。
「ちょっと待ってくれ。その子について他の学級委員にも訊いてみるから」
知輝は立ち上がって電話を掛け始めた。
数人と連絡を取ったところで、
「やはり他のクラスの連中も、用務員の娘を覚えてないようだ。しかし亡霊の噂話はみんな聞いたことがあると言っている」
さらに電話を掛け続けて、話の途中に「何だって」と大声を上げた。
電話を切ってから、
「どうやら先生が埋めた小型カプセルの中にも、6年生全員が書いた『夢』の短冊が入っているらしい。短冊と作文は別々に書いたんだ。もしそこに彼女の短冊があれば、当日出席していた証拠になる」
自分にそう言い聞かせて、知輝は隣の部屋から鞄を持ってきた。そこから取り出したのは小型カプセルだった。それをテーブルの中央に置いた。
「実は、うちのクラスのカプセルだけ見つからないから、代わりにこれを預かってきたんだ」
「ねえねえ、開けてみようよ」
多喜子が弾んだ声で言った。
ロックを外すと、中からは細長いわら半紙が出てきた。意外と保存状態はよさそうだ。クラス毎に束ねてある。
知輝は2組の束を手に取った。見ると、五十音順で並べられている。素早く短冊を繰っていった。三十年前の生徒たちが次々と語り掛けてくる。
「あった、この子だ」
感嘆の声とともに、一枚の短冊を見えるように広げた。
そこには「月ヶ瀬みなみ」という名前があった。
「練習をいっぱいして、ピアノの先生になりたい」と書かれている。
沢渕をはじめ、佐々峰姉妹は言葉を失った。やはり、音楽準備室の亡霊は彼女だったのだ。
この先、彼女には大いに悩まされそうな予感がした。沢渕は自然と渋い顔になった。