亡霊、ついに現る!
8月に入ると、いよいよ音楽準備室の監視が始まった。
探偵にとって、現代は実に都合のよい時代であるといえよう。身の回りにある電子機器を駆使すれば、実際に現場に出向くことなく、自宅で張り込みが可能だからである。これほど楽な活動はない。
クマは二十四時間の監視を力説していたが、そもそも亡霊が朝や昼にのこのこ現れるはずもない。よって本当の勝負は夜、しかも深夜ではないかと思われた。
監視を始めてから数日が経った。
これまでに亡霊が出現したという報告はない。しかしメンバーはみんな深夜遅くまで本当に監視をしているのだろうか。沢渕は正直疑問を抱いていた。しかし、それは杞憂に過ぎなかった。なぜなら、見張りが始まる直前、クマから電話連絡が入ったからである。
「おい、晶也。ちゃんと起きてただろうな?」
威圧感たっぷりの声が深夜の自室に響いた。
「はい、起きてましたよ」
憮然として答えると、
「それならいいんだ」
まもなく午前2時になろうとしている。まさかクマは探偵部のメンバーに、毎晩確認の連絡を入れていたというのか。その執念には鬼気迫るものがある。
「ひょっとして、毎回仕事前にチェックしてたのですか?」
「当たり前だろ。タキはともかく、森崎と橘はぐっすり寝てやがったからな」
「そうなんですか?」
「あの二人のやる気のなさには殺意が湧く。だからサボっている奴がいないかどうか、毎回点呼をとってるんだ。それじゃあ、後はよろしく頼むぞ」
そう言って、電話は切れた。
沢渕の受け持ちは、今から朝の5時まで、何と3時間もある。
一つ大きなあくびをすると、つけっぱなしのパソコンのモニターに目を遣った。
画面は黒一色の世界に支配されている。
ちょっと見たぐらいでは、何も写ってないように思える。しかし昼間の様子を目に焼きつけておいたので、グランドピアノとガラス窓の位置関係を画面に重ね合わせることができた。同じ黒色であっても、微妙な濃淡の違いで区別ができるのだ。窓の外と思われる空間には、街の光が白い点となっていくつか映っていた。
本当にここに亡霊が現れるのだろうか。沢渕はどこか半信半疑だった。
こんな単調な画面でも、凝視しているとすっかり目が覚めてしまった。
仕方がない。しばらく亡霊のことを真面目に考えてみようかという気になった。
問題の亡霊は、幼い少女という話である。昔、学校に住み込みで働いていた用務員の一人娘で、病気で亡くなったらしい。
昔というのは、いつ頃のことなのであろうか。
用務員の労働形態から考えると、仮に三十年ぐらい前のことだと仮定してみよう。
するとこの亡霊は毎年ここに現れているのなら、もうかれこれ三十回も足を運んでいる計算になる。今後も飽きることなく続けるつもりなのだろうか。
いや、そんなことより興味深いのは、亡霊のやって来る時期である。彼女は夏だけ現れるのか、それとも他の季節にも現れるのか。もし夏限定でやって来るのであれば、それはどんな理由が考えられるだろうか。
亡霊は一般的に夏に出るものだという世間の常識に従っているのだろうか。もしそうでないとすれば、夏にやって来る合理的な理由が何かあるというのだろうか。
このようなジャンルには、まるで知識の持ち合わせがないので何とも断じがたいが、少女の命日が8月で、それに合わせて出没するのかもしれない。
いずれにせよ、霊界の常識については一度多喜子に聞いておく必要がありそうだ。
論理的な思考をする際に、この亡霊というのは実に厄介な存在である。たとえ名案を思いついたとしても、果たしてそれが霊界に通用するのかどうか分からないからである。
よって、校舎への侵入方法やその経路については目をつぶることにする。3階の窓をすり抜けて、外部から入って来たとしても、それはそれでよしとしよう。
次に亡霊の目的についてである。
少女は毎晩弾いていたピアノを懐かしんで、死んでからも弾きに来るらしいが、最初その話を聞いた時、疑念を抱かずにはいられなかった。
亡霊というのは、誰かを恨んでこの世に現れる存在ではないのか。何かを懐かしむといった、まるで生きている人間同様の感情を持っているとは思えない。これもまた、心霊研究家の意見を待たねばならないが、どうにも納得がいかないのだ。
沢渕の持つイメージとしては、亡霊というのは自分の呪うべき人間の前に突如姿を現し、その人物に心理的恐怖を与えるもの、そんなふうに考えていた。
亡霊が昔懐かしいという理由で、この世に定期的に現れては、生きている人間にとっては迷惑極まりない。まあ、ここは亡霊の生態をまるで知らない人間が、あれこれ言ってみても始まらないのだが。
さて、ここまでは雲を掴むようなもので、まるで推理の体を成してはいないが、明らかに変だと思えるのは、グランドピアノについてである。
これがいつどこからどのようにして搬入されたのかは知らないが、鍵が紛失しているせいで、普段はピアノを弾くことはできない。どうして亡霊はそれをいとも簡単にやってのけるのだろうか。
亡霊なのだから何でもありと言えばそれまでだが、ここにどうしても人間臭さを感じてしまうのだ。つまり、亡霊は人間を超越した存在であるから、鍵の掛かった部屋や窓をすり抜けるのは一向に構わない。それが霊の強み、すなわち「現実離れした」ことだからである。
しかし逆に言えば、彼らは物理的にドアノブを回したり、ガラス窓を開けたりはできないと思うのだ。それは現世に生きる者しかできない「現実的」なことだからである。
そうであるならば、鍵を外して、蓋を開いてピアノを弾くという一連の行為は、実に人間じみているではないか。
ピアノは確かに音を奏でていたという証言がある。亡霊の手によって、実際に弾かれていたというのだ。果たして亡霊が、我々と同じように人や物に対して物理的な働きかけをすることができるのだろうか。
ピアノを解錠し、蓋を開いて鍵盤を叩く。その後律儀に施錠までするのである。これはどう考えても人間の仕業にしか思えない。
ピアノの鍵については、紛失した経緯は不明だが、亡霊と思しき少女がそれを持っていても不思議はないだろう。当時用務員である父親から受け取っていたことは十分考えられるからである。しかしそれを使って解錠し、さらに音を出すなどというのは、亡霊としてはいささかやり過ぎな気がするのだ。
沢渕はそんなことを考えながら、画面を注視していた。
知らぬ間に時は随分経っていたが、特に何の変化も見られなかった。ついには窓枠に切り取られた空間が白んできた。夜が明けたのである。
沢渕の心は、何事も起こらずにほっとした気分と、肩すかしを食った気分とが入り交じっていた。
いつまでこんな見張りが続けられるのだろうか。疲労とともに次第に虚しさがこみ上げてきた。
音楽準備室の監視を始めてから一週間が経過していた。
今のところ、何の変化も認められなかった。本当に亡霊は現れるのか。そもそも学校の怪談にどれだけの信憑性があるのか。探偵部員たちも恐らくはこの活動に意味を見い出せなくなっているのではないか。沢渕はそう思い始めていた。
その日の深夜3時半だった。
突然メールの着信があった。沢渕はすぐに気がついた。連日の見張りのせいで、睡眠が浅いためである。クマが部員に一斉送信したものだった。
「今すぐカメラを見ろ」
沢渕は直ちにベッドから跳ね起きると、パソコンの前に座った。常にカメラの映像を表示してあるので、直ちに監視態勢に移ることができる。
何のことはない、いつも通りの光景である。闇の中にはグランドピアノの影と、窓の外には小さな光が浮かび上がっている。
これがどうしたというのか。
いや、何かが違う。
沢渕は画面を凝視した。闇の濃淡がゆらゆらと変化する感じがあった。よく見ると、白い点がついたり消えたりしている。誰かが室内を移動して、光を遮っているのだ。
電話が鳴った。沢渕はすぐに応じた。
「おい、晶也。亡霊が網に掛かったぞ」
クマはそんなふうに言った。
確かに画面の中では、布で顔を覆った亡霊がピアノと向かい合うところだった。
これが、噂の亡霊か!
「録画してますか?」
「ああ、自動で録画されているはずだ」
「みんな、この事態に気づいていますかね?」
「タキと直貴からは返信が来た。女二人はまた寝てやがるみたいだ」
沢渕は画面から一時も目を離さなかった。
「この亡霊、背が低いですね」
「ああ、子どもっていう噂は本当だったんだな」
今、ピアノの蓋が開かれた。さらに手を伸ばして、後ろの屋根も持ち上げられたようである。
「おい、本格的に演奏を始めるみたいだぞ」
「そうですね」
「くそ、俺が校内に張り込んでいれば、こんなのひっ捕らえることぐらい、何でもないんだが」
クマは実に悔しそうな声を上げた。
亡霊が鍵盤を叩き始めた。設置したノートパソコンのマイクが割れんばかりの音を拾っている。深夜誰もいない校舎に流れるピアノの音は不気味だった。
まずはドレミファソラシドを順に奏でた。一年ぶりのピアノの音色をゆっくりと確認するかのようである。途中で同じ鍵盤を何度か叩く場面があった。
妙な話だが、彼女はピアノを弾いているというよりは、何か訳あって弾かされているような感じだ。演奏を楽しんでいる風ではない。
「おっ、橘から応答だ」
クマが突然声を上げた。
「晶也、お前はそのまま亡霊から目を離すなよ。俺はこれから橘を学校に向かわせる」
「えっ、今からですか?」
「あいつの家は学校から近いんだよ。この時間なら自転車で5分だ。校舎から出てきたところをあいつに捕まえさせる」
「そんなの危なくないですか?」
「あいつなら、大丈夫だって。とりあえず一旦切るぞ」
確かに探偵部員の自宅はみんな学校から遠い。しかし、雅美も今からすぐに家を出たとして、果たして間に合うだろうか。
それはともかく、沢渕は画面に神経を集中させた。
亡霊はピアノを奏でているというよりは、鍵盤を力任せに押しつけているように見える。調律されていないピアノから出る音は、甲高く狂気すら感じさせた。
今、亡霊の動きが止まった。
何かに気づいたようだ。顔だけをゆっくりとこちらに向けた。まさか、撮影しているのがバレたのだろうか。
いや、これはむしろチャンスかもしれない。沢渕は思い直した。亡霊がカメラに寄ってくれれば、顔がはっきりと写るからである。今、亡霊の姿は遠く、しかもノイズまみれで顔の判別は難しかった。
やはりカメラの存在に気づいたようだ。こちらに歩み寄ってくる。
沢渕は胸が躍った。もう少しだ。
すると突然、画面が真っ暗になった。カメラの電源が落ちたようだ。指定されたアドレスを叩いても何も映らない。「接続がありません」という無機質なメッセージが表示された。
一体これはどうしたことか。亡霊はカメラには触れていなかった。まだ数メートルの距離を残していたのだ。まさかカメラを睨みつけただけで、破壊してしまったというのか。
映像を記録していたノートパソコンは無事だろうか。それまで破壊されていたら、せっかくの証拠が台無しになってしまう。
最早これは超常現象と呼ぶしかないのか。沢渕は背筋に冷たいものを感じた。