突破口
「ねえ、これから何をするつもり?」
叶美が歩きながら訊いた。二人は今、小学校に向かっている。山神高校とは目と鼻の先なので、いつもの通学路とほとんど変わりがなかった。
「箕島校長の日誌を最初から読んでみようと思います」
「でも、それって捜査会議で何度も検証したじゃない?」
部長はお腹いっぱいという顔をした。
「何か、見落としがあるかもしれません」
「別に構わないけど。夜明けまではたっぷり時間があるしね」
「はい。回り道かもしれませんが、原点に立ち返り、亡霊抜きで考えてみたいのです」
「確かにこの事件は最初から亡霊ありきで、推理がねじ曲げられてしまった印象が否めないわね」
隣で叶美は同意してくれた。
「それで、私は何をすればいい?」
「僕の考えをあらゆる角度から否定してください。疑問点があればどんどん言ってもらいたい。それに全て答えることができれば、自然とゴールに辿り着くことになります」
「なるほど。他人の粗探しなら任せて頂戴。生徒会ではいつも無理難題を吹っかけられて、相手の意見をねじ伏せるのは得意中の得意だから」
「それは、心強い味方ですね」
二人は顔を見合わせて笑った。
すっかり日が沈んで、細長く伸びた雲が茜色に染まっていた。遠くに黒い影と化した校舎が見える。
沢渕に付き合ってここまで足を運んできたものの、教職員が残業で残っていたらどうしようかと、叶美は心配していた。しかし夏休みのこの時間は誰もいないようだった。正門と裏門には頑丈な鉄扉が行く手を阻んでいたので、運動場の周りを囲むフェンスの切れ目から中へ入った。
ねぐらに帰るのか、カラスの鳴き声が妙に近くで聞こえた。
「誰もいない小学校って、ちょっと不気味よね」
叶美が辺りを見回して言う。
今は夏休みだが、日中は児童の声が絶えない場所のはずである。そんな賑やかなイメージも、こんな時間になると無機質なものへと一変してしまう。
運動場から見える家々には明かりが点り始めた。どの家庭も今は夕食の準備で大忙しだろう。そこには人の営みを感じ取ることができる。一方でこの敷地には冷たいコンクリートしかない。
しかし三十年前のあの日は違っていた。用務員親子が住んでいたからである。
この学校内で二人は温かく暮らしていた。それを無残にも引き裂いた人物がいる。月ヶ瀬親子の無念を晴らすべく、必ずやこの事件を解決してやろうという気持ちが一層強くなった。
二人は校庭の隅に半分ほど埋まったトラックのタイヤに腰掛けた。ちょうど水銀灯が手元を照らしてくれるので、都合のよい場所である。
沢渕は鞄から箕島校長の日誌を取り出した。
その時、ページの間に挟んであった紙切れが勢いよく飛び出した。
叶美がすかさず拾い上げる。
例の2枚の写真だった。暗闇の中、片方には小さな明かりが、もう片方にはそれが写っていない。
光が点いたり、消えたりする現象――これと同じような経験をした覚えがある。それがいつどこだったのか、沢渕は思い出せなかった。
「この写真も随分と検討したわよね。これって明かりが点いたのか、それとも消えたのか、結局分からず終いね」
叶美は昔を懐かしむように言うと、写真を返した。
「点いたのか、消えたのか、その順序が重要なのでしょうか?」
沢渕は思わず口にしていた。叶美はぽかんとしている。
いや、そうではないのだ。
以前同じ経験をした時、それは問題ではなかった気がする。要するに、変化が重要なのだ。点いていた光が消え、消えていた光がまた点く……。
そうか、ようやく思い出した。
音楽準備室を撮影した時だ。亡霊が窓を横切ると外の明かりが遮られ、消えたり点いたりを繰り返した。あれと同じ現象ではないのか。
つまり光の手前を横切る物体が存在したということだ。だが写真の光は校舎の4階付近だという。どうしてそんな位置に明かりがあるというのか。
ここで閃いた。
あの白い点は月の明かりではないだろうか。月光が窓に映っていたのだ。それを何かが遮った。しかしそんなことができるのは、空を自由に飛ぶ鳥ぐらいのものであろう。
4階の高さを自由に移動できる人間――そう考えて、全身に電流が駆け巡った。
慌てて箕島校長の日誌を開いた。ページをめくるのももどかしかった。
「8月6日。
この学校においても校舎の増築工事が行われている。朝から晩まで作業の音が鳴り響いている」
日誌はこの文章で始まる。
「ねえ、どうしたの。そんなスタート地点で立ち止まったりして」
叶美は遠慮ない一声を掛けた。
「校舎の増築工事」
この文字が何かを伝えようとしている。
「朝から晩まで」
そうか、そうだったのか。
やっと、やるべき仕事が見つかった気がした。いよいよ自分が正しい方向へ踏み出した手応えを感じる。
当時、校舎全体は足場に覆われていたのだ。真っ黒な写真では分からないが、本来足場が組まれてあったのだ。だから4階の高さでも光を遮れる人間はいた。
ここまで来ると、推理の歯車が噛み合って勢いよく回り始める。
その人物とは、足場を利用する者、すなわち工事作業員だ。
「ねえ、どうしたの? さっきから黙りこくって」
「森崎先輩。三十年前の8月、この校舎は増築中でした。しかも工事は朝から晩まで続いていました」
沢渕は徐々に興奮した口調になった。
「ええ、そうね。確かに日誌にはそう書いてあるもの」
叶美は無感動である。
「校舎は足場によって囲まれていた。そこには昼夜を問わず工事業者が居たということですよ」
「ええ、箕島校長の写真の中にも、校門から校舎を撮ったものがあったわ。初めてこの学校にやって来て記念に撮ったものが」
迂闊だった。他の写真にもヒントはあったのだ。当たり前の風景として何も疑問に思わなかった。どうして今まで気づかなかったのか。
「それがどうだと言うの?」
「これで、第三者が存在する可能性が出てきたじゃないですか」
「工事業者ってこと? でも、夜間工事するのは近所迷惑だから、みんな帰っちゃうでしょ?」
「いや、一人だけプレハブ小屋に寝泊まりしていた人物が居たのですよ」
「まさか、現場監督?」
叶美が叫んだ。
「その通りです。校長の日誌にも敷地内に小屋があったという記述がある。現場の責任者である監督がそこで朝を迎えることがあってもおかしくはない」
「それは十分あり得るわ。今うちの近所でマンションが建設中なんだけど、夜遅くまでプレハブ事務所に明かりが点いているもの」
「この時代、児童の数が多くて小学校はどこも増築工事に追われていた。納期に追われた現場監督が夜遅くまで残って仕事をしていたのです」
「確かに第三者の存在ではあるけれど、それが事件とどう関係してくるの?」
叶美はまだ本質を理解していないようだ。しかし沢渕は、真実だけが持つ手応えを感じ取っていた。
「さっきの写真ですよ」
「えっ?」
「この真っ黒な写真。2枚のうち、片方には光る点があり、もう片方にはそれがない」
「音楽室を見上げて撮ったやつね」
そこまで言って、叶美は「あっ」と小さく声を上げた。
どうやら彼女も沢渕の思考に追いついたと見える。
「あれは足場の上を歩く現場監督を撮ったってこと?」
「そうです。箕島校長は偶然、現場監督が4階の足場を移動しているところを撮ってしまったのです。真っ黒の失敗写真はここに残っていますが、撮り直してきちんと写った写真は持ち去られてしまった。それは犯人にとって不都合なものだったからです」
「では、あの白い明かりは?」
「窓ガラスに映った月明かりです。窓の手前を移動する人物によって、光が遮られた。つまり足場を移動していた人間がいたという証拠です」
「なるほど、それで白い光がついたり消えたりしたのね」
叶美は満足げに頷いて、
「現場監督は自らの存在を消しておく必要があった。だから現像後に不都合な写真だけを持ち去ったのね」
と付け足した。
「以前、校長室からカメラを盗んで現像に出せるのは、内部の人間しかいないと考えましたが、現場監督なら可能です。工事期間中は校舎の鍵を渡されていたはずですから。それに用務員の部屋を荒らすことだってできます」
「ついに突破口が開いたって感じね。三十年前のあの夜の事が、少しずつ分かってきた」
叶美は嬉しそうだった。
しかし喜ぶのはまだ早い。現場監督の存在によって、事件の全てが説明できるのか検証しなければならない。さらにそれを裏付ける証拠を見つけなければならないのだ。今はまだゴールは遙か遠くにあると言わざるを得ない。
「ちょっと待ってよ、沢渕くん」
叶美が申し訳なさそうな声で言う。
「早速、ダメ出しなんだけど」
「どうぞ」
「白い光は窓ガラスに映った月光って言ったけど、あれを見てよ」
叶美は空を指さした。
「今は雲に隠れてはっきり見えないけど、この時期、月は校舎の反対側に出るのよ。その位置関係では、教室の窓に月光は反射しないんじゃない?」
その指摘は正しかった。今も三十年前も天体の位置は変わらないからだ。
「いきなり出鼻をくじきますね」
沢渕は苦笑した。
「ごめん。でも事実でしょ?」
しかしそれはむしろ歓迎すべき指摘と言ってよかった。全てのことを合理的に説明できれば、最後は真実にぶち当たるからである。
「それは大した問題ではないですよ」
沢渕は少し間を置いてから返した。
「これは僕の推測になりますが、光が反射するもの、例えば鏡が足場の支柱に取り付けてあったとしたら、その鏡に反射した月光が窓に当たっていたとも考えられます」
「なるほど。現場は安全第一だから、足場に左右確認用のミラーが設置してあってもおかしくはないわね」
叶美は納得した。
「でも、箕島校長はどうしてそんな写真を撮ったのかしら?」
それはもっともな疑問だった。
「三脚を立てていることから、突然出くわした物を狙った訳ではなく、構図を決めてから撮影したことになります」
「つまり、彼にとっては単なる記録写真だった?」
「そうなりますね。8月6日、初めて学校に来た夜、足場に覆われた校舎をスナップとして撮ったのでしょう」
「そこに偶然映り込んだ人物がいた」
「はい。それが田中だったという訳です」
「それって、校長の写真を現像に出した人物ね」
叶美は笑った。
「先輩、僕はこれから一人で事件について考えてみます」
「分かった。その間、私は何をすればいい?」
彼女は物分かりが早くて助かる。
「調べてほしいことがあります」
「いいわよ」
叶美はすぐに手帳を開いた。
「三十年前この小学校の増築工事を請け負った業者、現場監督の名前が知りたい。それから設計図など工事の概要が分かる資料を手に入れてほしい」
「クマのお父さんが電気設備業をやっているから、業者のつてで調べてもらうわ。それから工事概要については、卒業生の佐々峰知輝さんから学校側に働きかけてもらいましょう」
「設計図があればそれに超したことはないのですが、なければ、当時の学校写真をなるべく多く集めてもらいたい」
「オーケー。雅美ちゃんがこの近くに住んでいるから、近所の人に運動会など行事の写真を持ってないかどうか、当たってもらうわ」
叶美は手帳を閉じると立ち上がった。
「それでは、また後で会いましょう。沢渕くんの推理を聞くのを楽しみにしているわ」
そう言い残すと、一人駆け出していった。




