堀元直貴の推理(3)
「では、実際に現場に行ってみますか」
鹿沼はコーヒーを飲み干すと、直貴を促すように席を立った。
喫茶店を出ると、夏の日差しが容赦なく肌を刺した。三十年前の8月9日も、これほど気温は高かったのだろうか。もしそうであるなら、この熱気が人間の狂気に影響を与えることも十分ありそうに思えた。
二人は駅の正面が見渡せる場所に立った。
「この駅舎は、校長が自殺を図ってから数年後、建て替えられましてね」
鹿沼は写真を一枚取り出して、直貴に渡した。
そこには現在とはまるで違った外観が写っていた。建物は低く、薄汚れていて、古めかしさを感じずにはいられなかった。
「あの辺りには今、商店が並んでいますが、当時は有料駐車場だったのです」
鹿沼はもう一枚、別の写真を取り出した。
「これが、その駐車場に停めてあった、箕島校長の車です」
白いセダンだった。写真は鮮明さが失われていたが、それでもボディには手入れが行き届いているようだった。ここからも箕島の几帳面さが窺えた。
「校長は何時頃ここへやって来たのですか?」
有料駐車場に車を入れたのなら、極めて正確な時刻が記録されていても不思議はない。そう考えての質問だった。
「ええっと」
鹿沼は手帳を開くと、
「駐車場の管理者が、入庫した時刻をノートに書きつけていました。それによると、11時43分ですね」
「校長は、この駅へ自宅から直接来たのですか、それとも学校に出勤後に来たのですか?」
「教職員の証言によると、校長は職員会議に参加していたらしい。その時間は10時から11時までとなっています」
「その時、校長に変わった様子は?」
「津山という教頭が、どこか落ち着かない様子だったと証言しています」
もうこの時点で、箕島は気が触れていたのだ。それを他人に悟られないように、会議に参加していた。
「残念ながら、会議終了後の彼の動きは不明です」
「見掛けた者は、誰もいなかったのですか?」
「校長室は個室ですからね。引き籠もってしまえば、誰にも分かりません。極端な話、窓からこっそり抜け出しても気づかれることはない」
確かに鹿沼の言う通りである。
何しろ彼はまだ正式な校長ではなかった。よって公務に束縛されることなく、自由に動き回れる立場だった。
彼の日誌の中に、「悪魔に呼ばれた」という記述がある。
それが何かの比喩ではなく、事実に即しているならば、会議の後、誰かに呼び出されたということになる。
しかし、この点が腑に落ちない。
自ら「悪魔」と呼ぶほど凶悪な相手の指示に、どうして素直に従う必要があるのだろうか。「呪い殺される」ほど身の危険を感じていながら、のこのこ駅まで出向いたのには説明がつかない。たとえば教職員の誰かを誘って、一緒に駅に行くべきところではないのか。
いや、そうではない、直貴はすぐに思い直した。
箕島校長は自分の置かれた立場を、誰にも打ち明けることができなかったとしたらどうだろう。彼は独力で何かを解決する必要に迫られていた。だからこそ、逃げ出さずにたった一人で「悪魔」に会いに行ったのだ。
二人は入場券を買って、ホームへ上がった。
「校長は切符を持っていましたか?」
「背広の上着のポケットに一番短い区間の切符が入っていました」
「どこへ行こうとしていたのでしょうか?」
鹿沼は駅の案内図を確認して、
「ホームの番号は昔と変わっていませんね。彼は2番線で上りの列車を待っていました」
二人は跨線橋を渡り、ホームに立ってみた。
鹿沼の当時撮った写真と今の風景とを突き合わせてみると、ぴったりと重なった。どうやら建て替えたのは駅舎だけで、ホームや線路、跨線橋は当時のまま使用しているようだった。
「このホームを12時15分に出発する上り列車がありまして、それに乗るつもりだったと考えられます」
「しかし、実際はその列車には乗らず、飛び込んだ訳ですね?」
「そうです。箕島校長は跨線橋を下りてすぐ、この辺りに立っていた。当時はここに小さな売店がありまして、その若い売り子の証言があります。きちんとした身なりで反対側のホームの方を眺めていた男性が、突如異常な行動をしたと」
直貴は身構えた。どんな不可解な事実でも全て受け止める準備ができていた。
「12時13分、上り列車の到着を告げるベルが鳴る。すると突然思い出したかのように跨線橋とは反対の方向へと駆け出す。近くに居た人をかき分けるようにして、助けてくれ、と2回大声で叫ぶ」
鹿沼は実際に同じような仕草を披露した。
「そして入線してきた上り列車に飛び込んだ」
「飛び込んだ場所は?」
「その辺りだ」
直貴も実際に立ってみた。
階段と反対方向に走り出したのは、そちらから何かが迫ってきたからに違いない。正確に言えば、それが日誌に出てくる「悪魔」ではないだろうか。
もちろん「悪魔」と言っても、それは彼にとってのイメージであって、一般客からすれば普通の外見をした人間だったはずである。
しかし不可解なのは、どうして校長は殺されると思い込んで、自ら列車に飛び込んだのかである。当時の駅の混雑状態は分からないが、真っ昼間のことだから、何人かの乗客が居たはずである。そんな衆人環視の場所ならば、「悪魔」とやらが近づいてきたところで、まさか命まで奪ったりはしないだろう。
どうして校長がそこまで精神的に追い詰められていたのかが理解できない。
案外、狂気に支配されていた状態だったとすれば、彼の目には、何でもないものが殺人鬼に映っただけのことかもしれない。
(いや、ちょっと待てよ)
直貴はあやうく深い森に迷い込むところだった。根拠のない思い込みで推理が間違った方向へ進んでいた。今立ち止まれたのは幸運である。ずるずると闇に引きずり込まれるところだった。
ついさっきまで正しい道が開かれていた気がする。もう一度考え直してみよう。
「悪魔」と会うために、箕島校長は一人で駅に出掛けた。
なぜだ? それほど怖い相手なら、呼び出しを無視するか、少なくとも同僚に頼んで一緒についてきてもらえばよかったではないか。
しかしそれは彼にはできなかったのである。
なぜなら他人には知られたくないことだからである。
箕島はある人物と密かに会う必要があった。「悪魔」と命名していることから見て、彼は以前からこの人物を知っている節がある。
この人物とは少なくとも2度目の接触だったのではないか。しかもそれを言い出したのは相手の方だ。つまり箕島はその「悪魔」に弱みを握られていたのではないか。
そう考えると、これは「悪魔」との取引だ。無視すれば「呪い殺される」のだ。絶対に出掛けなければならない案件だった。
では、駅で一体何の取引をするつもりだったのか?
ここまで正しい道を進んできたら、ゴールは目前だ。
直貴は、ほくそ笑んだ。
恐らく現金である。理由は分からないが、箕島は「悪魔」から揺すられていたのだ。
「鹿沼さん、箕島校長は車から降りた際、何か手に持っていませんでしたか?」
その質問には、初老のライターは鋭い眼光を向けた。
「どうしてそんなことを訊くんだい?」
「これから列車に乗って旅立つなら、何か手荷物があるのではないかと思いまして」
探偵部がこれまで掴んだ情報をやすやすとこの男に渡す訳にはいかない。特に箕島校長が残した日誌の存在を明らかにすることはできない。
「ふうん、私には妙に自信があっての質問に聞こえるのだが」
鹿沼は鼻を鳴らした。
直貴はそれには応じず、
「そんなことより、どうなんですか。駐車場の管理者が何か見ていたのではないですか?」
「トランクから黒のアタッシュケースを取り出したという証言がある」
やはり睨んだ通りである。
その中身はずばり紙幣だ。箕島は「悪魔」と金銭で片をつけようとしていたのだ。
「何か知っていることがあるなら、きちんと私に話してくれないと困るね。こちらは君に随分と協力しているつもりなんだがね」
「もちろん、知っていることがあれば、包み隠さずお話しますよ」
「先程の売り子の証言では、このホームで列車を待っている際には、何も持っていなかったというんだ」
やはり、そうだ。跨線橋を渡る際に「悪魔」に金を渡したのだ。
しかしそうなると、今度は別の疑問が出てくる。
現金を受け取った相手は、どうしてさらに箕島校長に恐怖を与えるようなことをしたのだろうか。もう取引は済んだのではないか。それとも現金に飽き足らず、まだ別の要求をしたというのか。それにしてもそこで突然、列車に飛び込むという行動には結びつかない。しかも周りの乗客に助けまで求めているのだ。
現金の取引が跨線橋上で行われたとしたら、箕島校長は一度相手とは別れてこのホームに来たことになる。どうして反対側のホームを眺めていて、新たな恐怖を感じることになるというのか。
別れた後、「悪魔」は反対側のホームに姿を現す。それを箕島校長はじっと見つめていた。そのとき相手が何か決定的なことを言ったとは考えられないか。しかしホームとホームは離れているので、大声を出さないと声は届かない。それに乗客の目もある。校長を恐怖に陥れる言葉を投げかける訳にもいかない。
とするならば、何かを見せたというのはどうだろう。「悪魔」は校長を恐怖のどん底に突き落とす何かを見せたのだ。それは一体何だろうか。
直貴の考えをよそに、鹿沼の話は続いていた。
「当時私はこれは単なる自殺ではなく、事件ではないかと思って取材した。しかし消えたアタッシュケースは発見することはできなかった。再度駐車場係に聞き込んでみると、持っていたような気がしただけで、自信がないという話だった。係員も事件に巻き込まれたくないと思って訂正したのかもしれないがね」
直貴は黙って立ち尽くしていた。
今、自分に考えられるのはここまでだった。三十年前、このホームで一体何があったのだろうか。どこまでいっても箕島校長の不可解な行動に説明をつけることができない。まるで亡霊が取り憑いたかのような振る舞いである。
そう、この事件も月ヶ瀬みなみの亡霊の仕業ではないのか。直貴はそう結論づけて、全てを投げ出したくなる衝動に駆られた。
果たして探偵部の力で、この亡霊に打ち勝つことができるのだろうか。
そんな彼の傍を貨物列車が轟音を立てて通過していった。真夏だというのに、彼の身体を抜ける突風は真冬のように冷たく感じられた。




