堀元直貴の推理(1)
直貴の任務は、8月9日に起きた箕島校長の鉄道自殺を詳しく調べることである。
音楽準備室の亡霊を撮影した時にも感じたことだが、現代巷に溢れるデジタル機器は探偵の仕事を実に楽にしてくれている。
この調査も、ネットに日付と名前を打ち込んで検索すれば、たちまち情報が手に入るものだと信じて疑わなかった。
ところが様々な言葉で検索をかけても、ネット上に、そういった記事は一切存在しなかった。よく考えてみれば、無理もないことである。これは三十年も前の事件なのである。ネットが普及するどころか、存在さえしてなかったからである。
直貴は気を取り直して、アナログ的手法に切り替えた。
すなわち図書館に出向いて、当時の新聞を閲覧することにしたのである。
事件は9日に起きていることから、新聞に載るとすれば、その日の夕刊か、翌日の朝刊ということになる。しかし図書館では夕刊を所蔵していなかったので、翌日の朝刊を何社か当たってみることにした。
ここでもパソコンを使っての検索になる。
直貴は新聞という媒体ならば、記事は必ず見つかると思っていた。
しかし意外なことに全国版、地方版とも、その日自殺の報道は一件もヒットしなかった。
さすがに直貴も焦り始めた。
これはどういうことだろうか。事件を知ることが、これほど困難を極めるとは考えてもみなかった。
自殺の報道は、遺族の心情を察すれば、安易に紙面に載せられる種類のものではないかもしれない。特に事件性がなければ、新聞社も腫れ物には触れないというスタンスなのだろう。
仕方がない。それでは見方を変えて、当時鉄道のダイヤが乱れたというニュースは出ていないだろうか、直貴はそう考えた。
箕島校長が駅で列車に飛び込んで自殺を図ったのなら、当然駅は大混乱になったはずである。さらにそれが原因で列車が大幅に遅延したとなれば、そんな記事が載っていてもおかしくはない。
しかしこの方法も壁にぶち当たった。翌日の紙面に、鉄道の話題はどこにも載っていなかったのである。
それでも直貴は諦めなかった。
ここはさらにアナログ的手法を推し進めてはどうだろうか。すなわち駅まで出向いて、当時の業務日報を見せてもらうのだ。
しかし三十年前の書類が今も残っているかどうか分からないし、何よりも一介の学生に企業が内部資料を開示してくれるとも思えなかった。
そこで、直貴は再度攻め方を変えてみることにした。
検索をやめ、夏の地方版の記事をつぶさに見ていった。
花火大会や盆踊り、ボランティア活動などローカルな話題で埋められている。
それら一つひとつの記事には、通常文責者の名前は書いてないのだが、大きな特集記事になると、末尾に書いてあったりする。
三十年前の夏に発行された地方版から文責者探しを行った。そのうち何度か登場する名前に出くわした。
それは、鹿沼武義という人物だった。
恐らく彼は地方支局の新聞記者だったのだろう。
小さな支局では、記者の人数は限られるため、彼は全ての事件に首を突っ込んでいた可能性が高い。
よって鹿沼は箕島校長の鉄道自殺についても取材したと考えられるのだ。
他にも何社かの新聞で同じことを試してみたが、文責者の名前が判明したのはこの一人だけだった。
直貴はこの男に賭けてみることにした。
直接この人物と会って、当時のことを問い質すのである。果たして上手くいくかどうか分からないが、今はこれしか道はない。
図書館の休憩所から、新聞社の支局に電話を掛けてみた。
なかなか電話を取ってくれない。ひょっとすると、この時間記者は全員出払っているのだろうか。
留守番の録音機能に切り替わったので、そっと電話を切った。こみ入った内容だけにメッセージとして残すには、どこかはばかられた。
その後、図書館で調べ物をして、夕方にもう一度電話を掛けてみた。
今度は若い女性が出た。
そこで直貴は、鹿沼武義という名前を出して、今も新聞社にいるかどうかを尋ねた。彼女は、三十年前の記者については分からないと答えた。
確かにその通りかもしれない。
鹿沼が仮に当時三十歳としても、現在六十歳。今は会社を辞めていてもおかしくはない。
念のため、そちらには三十年前の事件が分かる人はいないかと尋ねてみた。
すると驚いたことに、彼女はこの支社で働いているのは自分一人だけだと答えた。
さらに、自殺に関する記事が見当たらないことを伝えると、遺族の意向もあり、基本的には扱わないと言う。同じようにお悔やみ欄にも載せることはないらしい。
ただし事件性がある場合、あるいはいじめなどの場合は取材をして、遺族の許可を取った上で載せることもあると教えてくれた。
直貴は自宅に戻ると、今度はこの鹿沼武義という人物をネットで検索してみた。
昔、新聞記者だったことから、今もそういった方面で活動しているのではないか、そう睨んだのである。今度はネット上に彼の書いた記事があるかもしれない。もしそうならメールを送って、箕島校長の自殺について訊いてみるつもりだった。
すると、フェイスブックにその名前が出てきた。
フリーのライターとして今も現役であることが分かった。プロフィールや友人関係を見ると、どうやらこの人物が三十年前、地方支局にいた新聞記者に間違いなさそうだった。
そこで直貴はこの人物にメールで連絡を取ってみた。
敢えて箕島校長の名前は伏せて、三十年前の夏の事件について知りたいことがあると書いた。
三十分ほどで返信が来た。さすがフリーライターだけあって、フットワークは軽かった。
「堀元直貴様、私としても大変興味深い話です。詳しくお話を伺いたいと存じます」
鹿沼はプロのライターである。直接会うのはどこか危険な香りがした。昔はともかく、今はどんな人物か分からないからである。
何より箕島家の恥部をさらすことは絶対にあってはならない。相手のペースに乗せられてはならないのだ。
直貴は心して彼と会う約束を交わした。




