理性が崩壊する瞬間
他に客のいない喫茶店内は、重苦しい空気に包まれていた。
箕島紗奈恵は、探偵部の二人を前にしてうつむいていた。膝の上の麦わら帽子を持つ手に力が入った。
「当時、校長先生に一体何があったのでしょうか?」
沢渕が訊くと、
「私もそれが知りたくて、一人で調べていたのです」
紗奈恵は答えた。
「それで何か分かりましたか?」
叶美が優しく訊いた。
「いいえ、今のところはまだ」
彼女は小さくため息をついた。
「箕島さん、あなたは実際に小学校に出向いて調査をしていた。つまり当時の資料を何かしらお持ちだと言うことです」
沢渕が指摘すると、
「ええ、まあ」
と口を濁した。
「それを見せて頂く訳にはいきませんか?」
「それは……」
紗奈恵は躊躇した。何かを考えているようだった。沢渕は辛抱強く返答を待った。
「でも、それは祖父の名誉を傷つけることになりますので」
彼女はそうはねつけた。そこには強い意志が感じられた。
「どうぞご安心を。僕らは誓って、それを公にすることはしません。あくまで事件を解決するための参考にするだけです」
どうやら箕島家というのは、由緒正しき家柄のようであった。彼女の行動一つでそれを汚すことになるのではないか、そんな不安から彼女はどうにも踏み切れないのだろう。逆に言えば、彼女の持つ資料は、それほどに校長の恥部をさらすものだといえる。
「箕島さん、僕ら山神高校探偵部が事件に関わった以上、きっと解決して見せます。そのために協力して頂けると嬉しいのですが」
努めて丁寧な口調で言った。ここで彼女に拒否されては、今後の捜査が困難を極めるのは必至だった。
紗奈恵は渋々といった調子で、
「分かりました。沢渕さんをはじめ、探偵部のみなさんを信じます」
そう言って、鞄から書類を取り出した。
「実は、祖父の日記があるのです」
彼女はテーブルの上に年季の入ったノートを一冊置いた。表紙には「学校日誌8月号」とあった。
「中を見ても構いませんか?」
「どうぞ」
表紙を開くと、几帳面な文字がぎっしりとページを埋め尽くしていた。それは知性豊かな者が書き記した文章に違いなかった。日付の下には、学校行事、感想、改善点などが微に入り細にわたって綴られている。
「祖父は9月からあの小学校に転勤になる予定で、どうやらその準備として夏休みから行事に参加していたようなのです」
「珍しいですね、年度の途中で転勤というのは」
叶美が言った。
「はい。でも7月号には、この小学校の校長が病気で倒れたため、急遽うちの祖父が担当することになった経緯が書かれています」
「なるほど」
叶美はそう言って、沢渕の方を向いた。しかし彼は日誌に目を走らせているばかりで、何も言わなかった。
ノートの最初は、前の小学校についての記述で占められていた。この辺りは、今回の事件とは関係がないと思われた。
沢渕は素早くページを繰っていった。隣で叶美もその様子をじっと見つめている。
途中、1ページの空白があってから、「8月6日」という日付があった。
どうやらここからが、新天地の記録ということになる。彼は新しい学校でも、仕事に対して厳格で真面目な態度で臨んでいたことを窺わせた。
「この学校においても校舎の増築工事が行われている。朝から晩まで作業の音が鳴り響いている。
津山教頭によれば、工事は2学期が始まってからも2ヶ月は続く予定だという。すなわち児童のいない夏休みを全て費やしても工事は完了しないというのである。
確かにどこの小学校でも教室が足りず、拡張工事が集中するあまり、業者の手が足りないことは理解できるが、休み明け2ヶ月も工事が続くのには問題がある。この手際の悪さについては、教育委員会でも取り上げるべき問題であろう。
これに関しては、問題点が主に三つある。それを以下に述べる。
一つ目は、工事の雑音によって通常授業が邪魔されることである。特に低学年は授業に集中できなくなる恐れがあり、その対処を考える必要がある。
二つ目は、児童の安全性の確保の問題である。現在のところ、運動場の4分の1ほどを工事関係者が占拠している。プレハブ小屋や資材置き場である。
特別教室や運動場への移動の際に、資材や工具が落下などして、児童を傷つけることがあってはならない。よって誘導する担当者を決め、児童には休み時間であっても不用意に教室の外に出ないよう周知徹底しなければならない。
三つ目は9月末に予定されている運動会の問題である。使える運動場の面積が少なくなっているため、例年通りの運営は難しいだろう。例えば徒競走ひとつを取っても、百メートルの直線が割り当てられないため、競技そのものを変更することも含め、検討しなければならない。
さらに父兄の観覧席にも変更が必要となるであろう。予め地域のPTAと話し合いを持っておくことが肝心である。それは月末の職員会議までに、私が叩き台を作ることにする」
沢渕はページをめくった。
「8月7日、
新しい学校での最初の仕事は、6年生の卒業記念行事への参加である。私にとってタイムカプセルの埋設というのは初めての経験で、正直胸が躍るものだった。
本日、6年生は228人が全員出席(欠席者なし)で作業を行った。
クラス毎に教室で、将来の夢を短冊に一文で書き、さらに原稿用紙一枚に作文をした。文を組み立てるのが苦手な児童も見受けられたが、担任の指導のおかげで、全員が時間内に仕上げることができた。
特に3組の高橋教諭の作文講座は実に参考になるものだったので、ここに記しておく。
原稿用紙の使い方として、第一文目にそのものずばり自分の夢を書く。その後で、理由を明記する。理由はなるべく具体的に書く。つまり、いつ、どのようなきっかけで、その夢を抱くようになったのかを入れると説得力が増す。
後半は、夢を叶えるため、どのような努力をすべきかを書く。実際に今取り組んでいることでもよいし、今後中学に入ってからの決意でもよい。
そして最後は、夢に対する強い決意を書いて締める。
高橋教諭の黒板を使った説明は、児童にはとても分かりやすく、みんな筆が進んでいた。
その板書の写真を撮っておいたので、今後の作文指導のお手本としたい」
沢渕は顔を上げると、
「校長の撮られた写真というのは、今でも残っているのですか?」
と訊いた。
「はい。元々祖父はカメラが趣味でしたので、学校でも個人的な記録として写真を撮っていたようです」
それは有り難いと思った。当時の写真があれば、状況を正確に把握できるからである。
「それらを見せてもらう訳にはいきませんか?」
隣で叶美が訊いた。
「分かりました。今は持ち合わせていないので、また今度お渡しします」
「どういった写真がありますか?」
沢渕が訊いた。
「校舎の改築工事の写真や日記に出てきた板書の写真、それにタイムカプセルを埋めた時の6年生の集合写真などです」
紗奈恵はしっかりとした口調で答えた。恐らくこれまでに何度も日記と写真を突き合わせて彼女なりの検証をしたのであろう。
沢渕はさらにページを繰った。
そこから先は同じ人物が書いたとは思えない文字があった。それは理性が崩壊した者の叫びと化していた。書き殴ったような文字は判読すら難しい。
「あり得ぬ」
「エや34」
「怖い」
「呪われた」
「殺される」
沢渕は戦慄した。叶美も身を乗り出してノートを覗き込んだ。
「何よ、これ?」
もはや文章ではなかった。震える手で書いたのか、文字が真っ直ぐになっていない。
さらにページを繰った。
「悪魔」
「悪魔に呼ばれた」
「呪い殺される」
「助けてくれ」
そこで日記は終わっていた。
「祖父はそこまで書いてから、列車に飛び込み、自殺を図ったのです」
紗奈恵の声は震えていた。




