その九
もはや用はないと言いたげに一瞥もくべずに次の獲物を探すべく首をゆるりと町に向けて、伸びでもするように上体を起こして翼を拡げる。
これで助かった、少なくとも自分達は襲われない等と浅ましく自分勝手に安堵してしまう。
それはあらゆる意味で正しい心の動きだろう、これで助かった、死なずに済む、生命の根幹に根差した安心感。
ある者は去り行くその背中を見送ろうと、ある者は自らの家に向かわないかを確認するため、窓から羽を打ち下ろす竜を見上げた。
だから、そんな姿は目にも入らない、あり得ないから、起こり得ないから、目に入っていても認識しない、簡単に竜が殺せると思い込んだ時のように、まるで死角で物事が起こっているかのように。
だからだろう、気付いた時には地に落ちた竜と片翼、まるで神が一息に切り裂いたようにスッパリと切り裂かれた片翼と血を噴き出しながら屋根から中庭に落ちた竜、そして半ばで折れた名剣をもう用はないと投げ捨てた無傷の英雄を全く認識していなかった。
グズグズと燻り朽ちていく屋根からおっかなびっくり、なんとか足場を見付けては少しずつ降りていき、その途中で何度も足を滑らして、何度か床を踏み抜いて、それでも少しずつ少しずつ僅かでもマシな足場を支えに降りていき、ようやく形を保った廊下に転がり込んで、挫いたらしい足を引き摺りながら階段へと向かう。
そこに在った筈の教室と授業を受けていた筈の生徒の骸には目もくれずに、廊下の奥へと消えていき、そのまま階段を降りて中庭に出る、そのまま当たり前のように竜に近付いていくその姿に一切の怪我も埃一つない。
全てを溶かしたブレスを受けて服どころか髪の毛一本揺らがなかったかのように、唯一の負傷は無理矢理屋根から降りた時の捻挫だけだと言うように足を引き摺りながら歩いていくその姿は英雄とは程遠い、吟遊詩人の詩にある流麗な剣の舞を踊る姿でも、身の丈程の大剣を振り回す姿でも、数多の魔術師が裸足で逃げ出す魔術の使い手でもなく、何処にでもいる、人の群れに紛れ込めば注視しない限りは追えないだろう程にありふれた姿。
腰に帯びた、ゴブリンの骨でさえ切り落とせばその瞬間に廃棄する事になるだろう安物を抜いてのたうち回る竜の尾をまるで紙でも切り裂くかのように根本から切り落とし、すぐさま追撃として片足を切り落とす、まるで冗談か何かのような光景。
これが喜劇なら劇作家は首を吊れと非難を浴び、悲劇ならあれだけの犠牲はなんだったのだと嘆くしかない程に壮絶で、悪夢にしても酷すぎる。
血潮に濡れた剣を投げ捨てて今度は建物の影で上半身がグズグズに溶けて僅かに背骨だけが残っている生徒の腰からかろうじて残っている剣を抜いて踵を返して痛みに暴れまわり耳障りな声で泣きわめくその首をなんの躊躇いもなく、一切の手心なく、剣が止まる事すらなく、その首を切り落とした。