見ていたい景色
「主様、もしよかったらなんじゃが、ここで何か絵を描いてみてはくれぬか?」
「え、今ここでかい?」
食べ終えた弁当箱を片付けていたジェードは、突然の提案に目を丸くした。
「よいじゃろう? わしは主様が絵を描いているところを見たいのじゃ!」
「僕は構わないけど、君は本当に見てるだけになっちゃうよ? それはつまらないんじゃ──」
「つまらぬものか。主様の描く絵がどんなふうに出来上がっていくのか興味があるのじゃよ!」
アンバーはジェードの言葉を遮り、腰を下ろしたまま彼に懇願するようににじり寄ってくる。
本当に好奇心旺盛な妖狐だ。
「そっか。それならいいか、描いてみるよ」
アンバーさえよいのであれば、ジェードにこの頼みを断る理由はない。
ジェードは元々描いてみたいと思っていたこの川辺の風景を絵にしてみようと決めた。
ジェードは川が綺麗に見える場所を探して歩く。
眺めては「違う」、見渡しては「ここじゃない」と呟き、また歩く。
川の流れの美しさが最も際立つ場所を求め、ジェードは立ったり座ったりを繰り返している。
その様子を眺めながら後ろをちょこちょことついていくアンバー。
そんな二人は傍から見るとまるで鴨の親子のようであった。
「うん、ここかな」
数十分後、ようやくジェードは腰を下ろす場所を決めた。
彼は鞄から画材を取り出すと、早速風景を描き起こし始めた。
「随分場所にこだわったのう」
「そうかい? せっかくなら一番綺麗に見える場所から描きたいじゃないか」
「川などどこから見ても同じじゃろう?」
「全然違うよ。例えるなら、君を正面から見るのと背中から見るのくらい違う」
「そんなに違って見えるのか!? やはり主様は観察力が鋭いのじゃな」
そんな雑談を交わしながら、ジェードは手を動かし続ける。
時折アンバーが後ろからそわそわと絵を覗き込んでくる。
気になるのはわかるのだが、さすがにジェードの顔のすぐ左から頭を出してきたときには完全に気が散ってしまった。
「……ねぇ、アン?」
「む?」
すぐ真横にあるアンバーの顔が振り向き、至近距離で顔が向き合う。
美しい水色の瞳。
小さな宝石の中に閉じ込められた青空の中へと落ちていくような錯覚がジェードの胸を突き抜けた気がした。
空色と翡翠色の視線が交差して寸秒、先に目を逸らしたのは翡翠色の双眸だった。
「ええとね、アン……その、気が散るんだけど」
「そ、そうじゃな。すまぬすまぬ、つい見惚れてしまってのう」
赤面したジェードが逸らした視線をアンバーの方へ戻すと、彼女も顔を赤らめて頬を掻いていた。
どうやら彼女も完全に無意識に近づいていたようである。
互いに照れ臭くなってしまったこのふわふわした空気はなんとも決まりが悪い。
「つ、続きはまた明日描こうかな。少し時間がかかりそうだし」
半ば強引に声を張りながら、ジェードは半分程度まで描き上がった絵を丸めた。
照れ臭くて上擦ってしまった声を誤魔化せたのかは自分ではわからない。気づかれていなければいいのだけど。
「明日もまた来てくれるのか?」
アンバーは俯いた顔を上げてジェードに問うた。
多分気づかれてない。大丈夫。
「うん。またここで続きを描きたいからね」
「また隣で見ておってもよいか?」
「もちろんだよ。またここで会おう」
二人の間で何度も飛び交う"また"という単語。
互いに無意識のうちに交わされる、もう一度会いたいという意思表示。
それを感じ取ったのかまではわからないが、アンバーの顔にパッと笑顔が咲いた。
「絶対じゃぞ! 約束じゃぞ主様!」
「うん、わかった。約束するよ」
空にはいつの間にか夕陽が傾き始めていた。
ジェードは画材を片付けて街へ戻ることにした。
少しでも長く一緒にいたいのか、アンバーは街まで送ると言ってジェードについてきた。
送ってもらっちゃうなんて、これじゃどっちが男だかわからないなぁ……
気持ちは嬉しいんだけど。
ジェードのちょっとした自尊心など知る由もないアンバーはにこにこと嬉しそうに隣を歩いている。
それを見ていると「まあ、いいか」と諦めの気持ちが湧いてくるのはもう仕方ないと割り切ることにした。
「ここまででいいよ、ありがとう」
森を抜け、貧民街を通り過ぎて街の北門近くまで来たとき、ジェードがアンバーに声をかけた。
「うむ、そうか」
森を歩く間にアンバーの耳と尾はいつの間にか綺麗に消え去っていた。
アンバーはジェードが森の中で獣と遭遇したり道に迷ったりしないようについてきてくれる。
森さえ抜ければジェードはもう安全であることは彼女自身もわかっているはずだ。
わかっていてもまだ一緒にいたい気持ちがあるのだろうか、アンバーはどこか名残惜しそうな表情を浮かべていた。
「なんなら、家まで送っていくのじゃが」
「いやいや、それはさすがに申し訳ないよ。気持ちだけ受け取っておくね」
ジェードは慌てて両手を振った。
街までと言っていたのが、いつの間にか家まで送るつもりになっている。
一緒にいたいと思ってくれるのは嬉しいのだが、そこまでされると本当に男としての面目が立たなくなってしまう気がした。
「アハハ、そうか。では気をつけての」
後ろで手を組んだアンバーの笑顔はどこかぎこちない。
別れ際にいつも寂しそうな顔をされるのは本当に困ったものだ。
あ、そうだ──
「ねえ、アン。僕は明日も同じ時間、同じ場所にいるからさ。だからまた街まで迎えに来てくれないかい?」
せめてアンバーの寂しさを紛らわそうと、ジェードは会いにきて欲しいという気持ちを敢えて自分から告げた。
アンバーに完全に送迎されることになってしまうが、それで彼女の寂しさが和らぐのならそれでもいいと思えた。
「迎えに行ってよいのか!? 行く! 絶対行くぞ主様!」
それは予想以上に効果覿面だった。
空色の瞳をキラキラと輝かせるアンバーは身を乗り出して喜びを顕にしていた。
きっと二人の顔が間近まで近づいており、ジェードが仰け反っていることには気づいていないだろう。
「う、うん。待ってるね、アン」
「うむ、待っておってくれ主様!」
アンバーは跳ねるような軽い足取りで踵を返すと、森の方へと駆け出した。
かと思えば腰まで伸びた琥珀色の髪を揺らして再びジェードの方へと振り返った。
「また明日な、主様!!」
「うん、また明日ね、アン!!」
大きく手を振る少女の姿を微笑ましく思いながら、ジェードも手を振り返す。
アンバーが森へと帰っていくのを見届けてから、ジェードも自分の家へと足を向けた。
*****
快晴。しかし今日はほんの少しだけ肌寒い。
上着の下に一枚多く重ね着をしてきたジェードは、この日もいつもと同じ場所に座っていた。
荷馬車を見送りながら素描に励むジェードは、昨日約束した少女が現れるのを心待ちにしていた。
「主様ーっ!」
おっ、聞こえてきた。
元気よく僕を呼ぶ、小鳥がさえずるような澄んだ声。
顔を上げるとそこには琥珀色の髪の少女が立っていた。
後ろで手を組んでジェードを見下ろすその姿は非常に愛らしく感じられる。
「やあ、アンバー。今日は君から声をかけてくれるんだね」
「早く会いたくて堪らなかったのじゃよ、主様」
ジェードは画材を鞄に収めると、先に歩き出したアンバーを追うように北の森へと向かった。
*****
川辺に辿り着いたジェードは、大きめの石を置いて帰ったのを目印に昨日と同じ場所に腰掛けた。
昨日と見える景色が同じであることを確かめると、すぐさま絵の続きに取り掛かった。
アンバーは隣でその様子を飽きもせずじっと見つめている。
そんな彼女が退屈しないよう、ジェードは時々アンバーに声をかけて話し相手になりながら作業を続けた。
最も彼女は見ているだけでも十分だと言っていたが、せっかく一緒にいるアンバーを放って絵を描き続けるのはどうしても気が咎めた。
それに、僕だって彼女と話したいし。
うろうろと歩き周りながら絵を覗き込んだり、景色と絵を見比べたりしているアンバー。
そんな彼女のわかりやすく感心している反応もどこか愛らしく感じられた。
「──よし、とりあえずこんなものかな」
夕陽が輝き出す頃に素描は出来上がった。
その声を合図にするかのように、アンバーはジェードの背中に両手をかけて絵を覗き込んできた。
「ほほう、やはり綺麗じゃの。これで完成じゃな!」
「いいや、実はまだなんだ」
「む?」
意表を突かれたアンバーはきょとんとして首を傾げている。
そんな彼女の間の抜けた表情を背に受けながらジェードは口を開いた。
「この景色を描いてるうちに欲が出てきちゃってね。せっかくだから絵具を作って──」
「色をつけるのじゃな! 前に主様が売っておった果物の絵のように」
「うん、その通り!」
初めて会った時も絵具で色をつけた絵には興味津々だったアンバー。
彼女はそれがまた見られると思うと非常に胸が高まっている様子だった。
「だからねアン、君に手伝って欲しいことがあるんだ」
「む? わしにか?」
「そう。絵具を作るために"顔料"を一緒に探して欲しいんだ」
「"がんりょー"……とな?」
初めて聞く単語にアンバーはまた首を傾げた。
「"顔料"はね、絵具の色の素になるもののことを言うんだ。例えば植物の汁とか綺麗な鉱石とか」
「なるほど! 森の中にならその"がんりょー"とやらはたくさんあると思うぞ!」
それから数日はジェードとアンバーの森林探検が続いた。
二人で花の汁を絞ったり、鉱物の露出した岩を削ったりして顔料を集めていった。
さすがにこの森で育っただけあって、アンバーは非常に逞しい。
森に住む大型の獣の縄張りは完全に把握していて器用に避けるし、顔料になりそうな植物や岩肌もよく知っていた。
時折見つける木の実や果物が食べられるかどうかもきちんとわかっていて、変な冒険心で腹を壊すようなことも起こらずに済んだ。
顔料が集まると今度は二人でプラムの街に出向き、絵具の材料となる糊などを買いに行ったりもした。
アンバーはやはりまだ大勢の人間に囲まれることには慣れていないのか挙動不審なことが多かった。
そんな彼女の不安を少しでも和らげようと、ジェードはいつもアンバーとの会話を絶やさないよう心掛けていた。
街には嫌われ者のジェードを見て怪訝そうな顔をする者も多かった。
しかし商人としての誇りは持っているのだろう、客としてやってきたジェードを無下に扱う輩まではいなかった。
普段はずっと孤立しているジェードにとって、誰かと一緒に街を歩くという事自体がとても新鮮に感じられた。
アンバーと二人で助け合って作品を作り上げる中で、ジェードの胸には彼女に対する特別な思いが確かに膨らみ始めていた。
わさび仙人です
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