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翡翠と琥珀  作者: ヤマキ ヒサト
ピレーマ編
83/126

新しき、小さな命

 前掛けを外し、ジェードは分娩室の外へ出た。

 その足は未だにがくがくと震えていて、こんな状態でよく歩けたものだと自分でも意外に思える。

 看護師たちに引き継いではきたが、それまで自分はうまくやれていたのだろうか。そんなことを考えて俯いた彼の耳に、とても楽しげな、すらすらと水が流れるような語り口の声が聞こえた。


「――こうして、醜い狼から人間の姿へと戻ることができた悪党は心を入れ替え、これまで支え合ってきた少女と一生愛し合うことを誓ったのじゃという……めでたしめでたし」


 声のする部屋を覗き込んだジェードの目に映ったのは、輪を描くように向かい合わせの椅子に座ったメルヴィの子どもたちとアンバーの姿だった。

 アンバーの語り口からして、彼女はどうやら子どもたちにお伽噺を聞かせていたらしい。

 場の空気を読んだジェードは、彼女らに気づかれないよう部屋の外で聞き耳を立てて様子をうかがった。


「……どう、じゃった?」


 不安そうに問いかけるアンバー。そんな彼女を子どもたちはただ呆然と見つめていた。

 やがて子どもたちはきょろきょろと互いの顔を見合わせ始めたが、何も答えようとはしない。

 あまり上手くいかなかったか、とアンバーは溜め息と共に肩を落とした。


「……よかった」


 すると、長女のイリスが最初に沈黙を破った。

 その声にアンバーが顔を上げると、イリスは頬をほんのり赤く染めて笑っていた。


「よかったよ! 狼と女の子が幸せになって、本当によかった!」


「……本当か……?」


 目をぱちぱちさせながら問い返すアンバーに、イリスは満面の笑みで頷いてみせた。

 その姿にアンバーは、嬉しいような恥ずかしいような、なんだか今すぐ全身を掻き毟りたくなる感覚を覚えた。


「ねえ、他にはないの? もっといろんなの聞いてみたい!」


「他の話か? ううむ、他にはどんなものがあったかのう……」


 椅子から立ち上がって次の物語をねだる長女のイリスにのせられたのか、弟のミゲルと妹のカティアも同じように騒ぎ出した。

 なんとかなだめようとあたふたし始めたアンバーだったが、ふとした拍子に彼女は部屋の外へ注意が逸れ、視線を向けた。


「……主様(ぬしさま)? そこにおるのか?」


「あらら、気づかれちゃったか」


「むぅ、なにをこそこそ隠れておるのじゃ?」


「別に隠れていたつもりはないんだけれどね。なんとなく入っていける空気じゃない気がして」


 呼ばれたジェードは頭を掻きながら部屋へ足を踏み入れた。

 さすがは妖狐。鼻が利く彼女は匂いで彼の気配を感じ取ったらしい。


「ジェードおにいさん! おかあさんは?」


 イリスは母親(メルヴィ)を心配しているのだろう、ジェードの姿を見ると彼に駆け寄って真っ先にそう問うてきた。

 ミゲルとカティアもそれに続いてジェードの前までやってきて騒ぎ始める。ジェードは屈んで子どもたちと目線を合わせると、一人ずつ頭を撫でてやりながら質問に答えた。


「今お母さんはね、赤ちゃんを産むために一生懸命頑張っているところさ。ヨハン先生の邪魔になっちゃうからみんなは会いに行けないけれど、せめてここからお母さんを応援しよう。ここでいい子にして、お母さん頑張れーってお祈りするんだ。そうすればすぐにでも元気な赤ちゃんとお母さんに会えるからね」


 ジェードの言葉に安心したのか、子どもたちは「うん」やら「わかった」やらまとまりのない返事をした。

 それを見たアンバーは、やはり彼には敵わないと痛感せざるを得なかった。

 お伽噺という奥の手を持ち出してなんとか落ち着かせることはできたものの、自分も一緒になって狼狽えていたアンバーとは違い、ジェードはちょっとした声掛けで子どもたちの不安を払拭してみせたのだから。


「なら、待ってる間にもいっこお話してー!」


「もう一個……か」


 ミゲルがアンバーの前まで戻ってきて再び椅子に腰かける。イリスとカティアもそれに続いて戻ってきた。


「次は何のお話をするんだい?」


「むぅ、それを今考えておるところじゃが……。というか、主様も聞くのか!?」


 部屋の壁にもたれて立ったジェードが部屋に残るつもりだと気づき、意外そうな様子でアンバーが問うた。


「なにかおかしいかい?」


「だって、子どもに聞かせるようなお伽噺じゃぞ?」


「いいじゃないか。頼むよ、アン」


「ぐぬぬ……」


 子どもたちに話す分には平気なのに、ジェードを前にするとどうしてこれほど小恥ずかしいのか。

 それでも、こうして彼に「頼む」と言われたら断れない。

 なんだか複雑な心境ではあるが、半ば自棄になりながらも、アンバーは記憶の引き出しの中から語れそうな物語を模索していった。


 それに対してジェードは、彼女が見せた新しい一面に関心を抱いていた。

 彼女は幼い頃、貧民街(スラム)にいた老婆が語る様々なお伽噺を楽しんでいた事は知っている。

 しかし、まさか彼女自身が子どもに語って聞かせるようになるとは想像していなかった。

 先程は物語の締めくくりしか聞けなかったため、今度はぜひ最初から最後まで聞いてみたいと思わされたのだ。


「それじゃあ、次はあれにしようかの」


 アンバーはどのお伽噺を語るか決めたようで、背筋を伸ばして椅子に座り直した。

 それを前に子どもたちは目を輝かせ、前のめりになる。

 活き活きと語り始めるアンバーと、耳を傾ける子どもたち。

 非常に穏やかで和やかなこの一室の光景に、ジェードはなんて美しいのだろうと心を揺らした。




 *****




 高く昇っていた太陽も西へと移り、次第に空気がひんやりとしてきた。

 先程まで賑やかだった部屋はいつの間にか静寂に包まれ、三人の子どもが繰り返す小さな息の音だけが聞こえる。

 アンバーがお伽噺を語り始めてからというもの、一つ終わると次、それが終わるとまた次と、子どもたちは彼女が紡ぐ物語を何度もせがんできた。

 いつまで続くのかとアンバーは肝を冷やしていたが、子どもたちは四つ目のお伽噺が終わるころにはこくりこくりと頭を揺らし始めていた。

 母親(メルヴィ)のお産が終わるのを待ちくたびれてしまった様子の子どもたちは、いつの間にか椅子に座ったまま三人とも夢の中だ。


「随分時間がかかっておるのう」


「うん。難産になるかもしれないって、ヨハンさんも言っていたし」


 部屋の外へ視線を向けるアンバー。

 メルヴィのことが気になって仕方ないジェードとは違い、彼女は思いの外冷静であるように見える。よほどヨハンのことを信用しているらしい。

 ジェードがヨハンを信じていないということではないのだが、何度も苦しそうに呻いていたメルヴィの姿を目の当たりにしているジェードはどうしても胸騒ぎを落ち着けることができないでいた。


「しかし、まさかわしがあの老いぼれのようにお伽噺を語る日が、本当にやってくるとは……。初めからわかっておればもっとちゃんと……」


「……? わかっていたら、どうしたんだい?」


「えっ。あ、いや、なんでもない! こっちの話じゃ!」


 あからさまに焦る様子を見せるアンバーは、口元を抑えて言葉を濁した。

 昨日からアンバーの様子がどうにも引っかかる。ジェードに対して何か隠しているのは間違いなさそうなのだが、それが何なのかは答えてくれない。


「それにしても、やはり子どもというのは可愛らしいのう」


 話を逸らそうとしているのか、アンバーは眠っている三人の子どもたちの寝顔を見つめてそう言った。

 その声に敏感に反応したジェードは、なんだか後ろめたさにも似た胸騒ぎを感じて息をのんだ。


「本当に可愛らしい。小さくて無邪気で純粋で……。わしにもいつかメルヴィのように、母親になる日が来るのじゃろうか――」


「――なに、今はまだ、そんなに焦って考える必要はないだろう。僕らはまだまだ若いんだし」


 言葉を被せるように答えたジェードの声に、アンバーは水色の瞳を見開いて首を傾げた。


「……主様? わしは別に何も焦ってはおらぬのじゃが……」


「あれ、そうかい……? まあ、そっか……そうだね」


 急に気まずそうに目を逸らすジェード。

 彼が一体何を考えているのか、どうしても気になったアンバーはそのことを問おうと口を開いた。

 しかしそれと同時に、メルヴィとヨハンのいる分娩室のほうから赤子の大きな泣き声が聞こえてきた。


 まさか、とジェードが視線を向け、アンバーが立ち上がる。

 それと同時に、診療所の中へ茶髪の男性が一人駆け込んでくるのが見えた。


「妻は!? メルヴィはどこに!?」


 その男性は肩で息をしながら、通りかかった看護師に声をかけていた。

 彼はどうやらメルヴィの夫であるらしい。きっと先日メルヴィが出したという手紙を読んで大慌てで帰ってきたのだろう。


 男性はそのまま看護師に連れられて分娩室へと入っていった。

 その騒ぎで目が覚めたのか、イリスが寝ぼけた頭を揺らしながら目を擦り始めた。


「イリス! どうやら産まれたみたいじゃぞ!」


 分娩室の方からはまだ泣き声が聞こえている。

 意識がぼんやりとした中でようやく状況を把握したのか、イリスは突然目を輝かせると弟のミゲルと妹のカティアを起こそうと揺さぶり始めたのだった。




 *****




 小さな病室のベッドに移されたメルヴィの腕の中には、ふわふわのタオルにくるまれた新しい命が抱かれていた。

 メルヴィは未だに脂汗で顔が濡れていて、いかに難産だったかがひしひしと伝わってくるようだ。

 疲弊しきった様子の彼女だが、それでも表情はどこか恍惚としているように見える。それだけのものを抱いているのだと思うと、第三者であるはずのジェードやアンバーすら涙が出そうになった。


 先程やってきた茶髪の男性は予想通りメルヴィの夫で、サムと名乗っていた。

 彼は新しい我が子を早く抱きたいのか、メルヴィのベッドの横で終始両手をわきわきとさせて落ち着きがなかった。

 それを見かねたメルヴィがくすりと笑って子どもを抱かせると、サムは頬が落ちてしまうのではないかと心配になるほどに表情を緩ませていた。


「ジェードさんとアンバーさんですね。あなた方のことは妻の手紙を読んで知っています。本当に妻や子どもたちがお世話になったようで、なんとお礼を言えばいいか」


 赤子を抱いたままで、サムはジェードとアンバーにそう挨拶を述べた。

 謙遜したジェードが「僕らは何も……!」と両手を振ると、サムの前に長男のミゲルが飛び出してきた。


「おとうさん! つぎぼくも抱っこしたい!」


「まあまあ落ち着いて。抱っこはさせてあげるから、歳の順に並びなさい」


 サムの指示で、子どもたちは素早く一列に並んだ。

 最初は長女のイリス。しっかり者のお姉ちゃんである彼女は、今回のお産でも大活躍だった。

 容態が急変した母親(メルヴィ)を見て、即座にヨハンのもとへ走った判断力は大人顔負けだ。


 サムから赤子を受け取ったイリスは、次に長男のミゲルと交代だ。

 上手く抱っこできずにサムに補助されながら、ミゲルは新しい兄弟の誕生に目を輝かせている。

 その次は末っ子を卒業したカティア。ミゲルよりは抱っこが上手なようだが、思ったよりも重かったのか、彼女はすぐにサムの腕へと赤子を返していた。


「よかったら、あなたたちも抱っこしてみませんか?」


 サムはそう言ってジェードに赤子を差し出してきた。

 両手を振って遠慮するジェードだったが、サムはなかなかに強情で、まるで引き下がろうとはしなかった。


「せめてものお礼ですよ。それにこの子には、あなた方のように親切で心優しい大人に育って欲しいですから、ぜひ!」


 抱っこさせてもらえることがお礼になるのかはさておき、サムは願掛けのような感覚でジェードやアンバーに子どもを抱かせたいらしい。

 どうしようかと迷ったものの、今のサムの雰囲気を見れば断れそうにない。

 アンバーと顔を見合わせたジェードはそっと頷き、彼女の背中を押してサムの前に立たせた。


「な、なら、ちょっとだけ……」


 腫物を扱うようなぎこちない手つきで、アンバーは赤子をそっとサムから受け取った。

 サムの手が離れると、腕の上にのしかかる重量感に驚いたのか、アンバーの口からは「うっ」と声が漏れ出ていた。

 そのままぴくりとも動かず静止。すると石像のように固まってしまったアンバーの腕の中で、大人しかった赤子がぐずりだしてしまった。


「わ、わわわ……ッ! どうしたのじゃ、急に泣きそうな顔をして。主様、どど、どうすれば……ッ?」


 きょろきょろと慌ただしくなったアンバーだったが、首から下は相変わらず動かないのがなんだか可笑しくて、ジェードは堪え切れずくすくすと笑い声を漏らしてしまった。


「主様! 笑っておる暇があるなら助けてくれ! わしは嫌われてしまったようじゃ!」


「あはは、それは違うよアン。嫌われたんじゃなくて、抱き方が悪いんだよ。代わってごらん」


 動けないアンバーに歩み寄り、そっと赤子を受け取ったジェード。

 そして少し腕を揺すってやると、赤子は簡単に機嫌を直してジェードの顔を見つめ始めた。

 とても興味深そうに眺めていたアンバーだったが、ジェードにとっては難しいことでも何でもない。妹が幼い頃にはよく子守をしていたものだよと語るジェードに、アンバーは随分感心していた。


「ねえ、お名前はどうするの?」


 ふと、メルヴィのベッドを覗き込むイリスがそう問うた。

 するとメルヴィはサムの顔を見つめて微笑み、サムはそれを合図にするように頷いてみせた。


「実は母さんと話し合って、名前はもう決めてあるんだ。男の子か女の子かで二通りね」


 そう言いながらサムは、随分誇らしそうな顔でジェードから赤子を受け取った。


「この子は男の子だから、『マウロ』。新しい家族の名前は『マウロ』だ」


 サムが名前を発表すると、子どもたちはいっせいに拍手し始めた。

 そしてサムの腕に抱かれた赤子に向けて、口々に「よろしく、マウロ!」「ようこそ、マウロ!」と声をかけていた。


「それで、私の順番はまだまわってこないの?」


「おっと、すまないメルヴィ」


 冗談っぽく急かすメルヴィに、サムからマウロが手渡された。

 苦しみながらもようやく迎えることができた新しい家族の顔を見つめ、メルヴィはうっとりと目を細めながらマウロの柔らかな頬を指で小突いていた。

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