何も知らない君にそっと
誰かが唸るような声が聞こえた。
重い瞼を持ち上げ、うっすらと明るくなっている部屋の壁をぼうっと見つめる。
空っぽだった頭が朝の冷たい空気を吸い込んでいるうちに少しずつ冴えてきて、今の声は自分の喉から出たものかとようやく納得することができた。
そういえば、昨晩はいつ眠りについたのか覚えていない。
画材の片付けもろくにせずに寝てしまうなんて、と少し慌てたジェードだったが、ふと部屋の隅にまとめられた荷物を見つけて動きを止めた。
そこには彼の鞄と画材、描きかけの素描が丁寧に揃えて置いてある。
自分であのように置いた記憶はない。知らぬ間に眠りこけてしまったジェードに代わってアンバーが気を利かせてくれたことはすぐにわかった。
そんなアンバーはどこにいるのかと部屋を見渡すと、彼女はジェードの後ろ――彼の背にしがみつくように寝息を立てていた。
妙に腰回りが重くて温かいと思ったら、と小さな溜め息を零す。
そしてジェードは彼女を起こさないよう、そっと細腕を解くとその寝顔をまじまじと見つめてみた。
童顔だが整った顔立ち。琥珀色の髪の中で浮いて見える真っ白な顔。
何もかも放り出して幸せそうな寝顔に、思わずジェードの目元が綻ぶ。
ふと、昨晩のアンバーの様子を思い出して、彼女の鞄の方へと視線を向ける。
今までそのようなことはなかったというのに、彼女は昨日に限って字の稽古を見られることを極端に拒んできた。
自分に隠れて一体どんな稽古をしているのだろうかと、ジェードの胸中には当然の疑問が湧き上がる。
少しだけ、覗いてみようか。
ベッドから足を下ろし、そっと靴の中へ。
しかし、立ち上がろうと腰を持ち上げたところで、背後のアンバーがもぞもぞと動き出したことに気づいた。
振り返ると、彼女は「……ぅ……ン……」と言葉にならない寝言を漏らしてジェードの体温を探しているように見える。
まだ目覚めてはいない様子のアンバーだが、普段と何も変わらないお寝坊な彼女の様子を見て、ジェードは再びベッドへと腰を下ろした。
やはり無粋なことはやめておこう。
なんとなくそのようなことを考えて、ジェードはアンバーの鞄には手をつけないでおこうと決めた。
いつか彼女の方から喜んで教えてくれるときまで、大人しく待っているほうがいいだろう、と。
一人であれこれと考え込むジェードのことなどつゆ知らず、アンバーはすうすうと小さな息を繰り返しながら耳をぴくぴく、口をもぐもぐ。
そうして微かに動く艶やかな唇を見て、ジェードは再び昨晩のことを――字の稽古の件とは別のことを思い出した。
淡い桃色の、細く小さな唇。
アンバーはこの唇を、自分のすぐ目の前まで――
思い返すだけでも頬が火傷しそうになる。
しかし彼女の望むことを、やはり今回も尻込みしてしまって叶えてやることができなかった自分が情けない。
この街では、ちゃんと彼女の恋人らしく振る舞おうと決めたはずなのに。
ひんやりとした空気を吸って、肺の中身をすべて吐き切る。
そうして心を落ち着けたジェードは、未だ夢の中を彷徨っているアンバーの寝顔へ、自分の顔をゆっくりと寄せてみた。
寝ている間にしてしまったら、アンは怒るだろうか。
でも、起きている間は照れてしまって、また逃げてしまう気がするし。
高熱を出した時でもこんなに熱かったことはないと思えるほどに顔が熱を持っている。
そのうち肉を突き破って外に飛び出すのではないかと不安になるほどに心臓が暴れまわっている。
ついに鼻と鼻が触れそうな距離にまで互いの顔が近づいた。
こうしてまじまじと見ると、意外に睫毛が長いのだな、なんてことに新たに気づかされる。
そしてジェードの唇は、ゆっくりと、確実に、アンバーの口元へと近づいていき――
――触れ合うことなく、再びそっと距離を取った。
やっぱりだめだ、今はまだ。
決して怖気づいたのではない。彼女の知らないところでこっそりと済ませるなんて、やはり姑息だろう。
もやもやとむず痒い感情を強引にそう納得させ、その代わりにと言わんばかりにジェードはアンバーの琥珀髪をそっと指で撫でる。
その感触でようやく目が覚めたのか、何も知らない様子のアンバーは大きな欠伸をして目を擦り始めたのだった。
今朝は何もなかった。
珍しく寝坊してしまったようで、ちょうど自分も今目覚めたところだ。
誰に言い訳するでもなく、一人胸の内でそうだと決めつける。
そして彼は、いつもと何も変わらぬ穏やかな笑顔を浮かべ、寝ぼけ眼の愛しい少女へと優しく呟くのだった。
「おはよう、アン」
*****
「――まったく主様もだらしないお人じゃ。わしがおって本当によかったのう、感謝するのじゃぞ」
「まあ、確かに感謝はしているけど、そこまで得意になるようなことかい?」
「ふふーん」
宿を出てからアンバーは、昨晩ジェードが作業中にそのまま寝てしまったことをずっとからかっていた。
普段はジェードに世話を焼かれることが多い彼女にとって、こうしてたまに彼の優位に立てると楽しくて仕方がないらしい。
このような小さなことで調子に乗ってご機嫌に冗談を言うアンバーはやはり子どもっぽい。
やれやれと呆れ笑いが零れそうになるが、そんな無邪気な彼女はいつも通りでとても愛おしい。
ピレーマの街は"恋の日"を翌日に控え、祭りの準備はほぼ完了しているように見える。
いよいよ明日を迎えるだけとなった住民たちは浮かれ気味のようで、昼間から堂々と酒を煽っている者もいた。
さらには、昨日までよりも男女の番が街中に増えているように感じる。
異様に距離の近い彼らを見ていると、また昨晩のやり取りを思い出してジェードは気恥ずかしくなった。
今日はどこか景色のよい場所でも適当に見つけて、そこで絵を描こうかとジェードは計画していた。
その前にメルヴィの自宅を訪れ、ジェードは昨日のように戸を叩いた。
まるで日課のようになってしまったね、とアンバーと笑い合う。
戸が開くと決まって長女のイリスが出迎えてくれ、嬉しそうな彼女に強引に手を引かれて紅茶を一杯ご馳走になるまでが一連の流れだ。
――そのはずだった。
しかし今日は様子が違う。
戸を叩いて待ってみても、イリスが出てくる気配がまるでないのだ。
「あれ、どうしたのかな」
もう一度戸を叩いてみる。
それでも戸の向こうから元気な声が聞こえてくることはなかった。
「留守じゃろうか?」
「……かな?」
そっとドアノブに手をかけると、鍵はかかっておらずすんなりと戸が開いた。
家の中へ一歩踏み入れてみたが、異様なまでの静けさは街の喧騒とは対照的だった。
「ごめんください。メルヴィさん、イリス、いるかい?」
ジェードが一言呼びかける。
すると廊下の向こうからとたとたと慌ただしい足音が聞こえてきた。
なんだ、いるじゃないか、と胸を撫で下ろす。
ところがこちらへと駆けてくる者の姿を見て、ジェードはついた息をハッと飲み込み直す羽目になってしまったのだった。
「たすけておにーさん! どーしよ、おかあさんが!!」
鼻水をだらだらと垂らして大泣きしながらやってきたのは、メルヴィの長男でイリスの弟――ミゲルだった。
ミゲルの様子に「まさか……!」と呟いたジェードは、その場に鞄を捨てて廊下を走った。
するとその先の居間には、床にうずくまったメルヴィと泣きじゃくってしまっている末っ子――カティアの姿があった。
「メルヴィさん! しっかり!」
ジェードが駆け寄ると、メルヴィはわずかに視線を持ち上げたが、痛みを堪えるのが精一杯で答える余裕がないといった様子だった。
足元の床は水桶をひっくり返したかのように濡れていて、すぐに手を打たなければならないことは素人目にも明らかだった。
「アン、診療所に走って、ヨハンさんを呼んでくるんだ!」
「うむ、わかった!」
アンバーに指示を出しながら、ジェードは適当な棚を開けて大きめのタオルを引っ張り出した。
駆けていくアンバーを見送りながら、ジェードはメルヴィの腰回りにそのタオルを巻いてやった。
処置はこれで合っているだろうか。正直自信はない。
それでも今できる最大限のことをしようと、ジェードはメルヴィに声をかけ続けながら腰を擦った。
すると、今出て行ったはずのアンバーが戻ってきた。
彼女の後ろには黒一色の服装の若い医師――ヨハンの姿もある。
いくらなんでも早すぎると不自然に思ったジェードだったが、その理由は思いの外すぐにわかった。
二人のさらに後ろには、目に涙を溜めながら母親のもとへ駆けるイリスの姿があったのだ。
そういえばイリスの姿が見えなかったな、と今更思い出すジェード。
どうやら彼女はジェードたちがやってくる前の時点でメルヴィの異変に気付き、既にヨハンの診療所へと走っていたようだ。本当にしっかり者のお姉ちゃんであると感心させられる。
「おかあさん! ヨハン先生呼んできたからね! もう大丈夫だから、がんばって!!」
涙を堪えた鼻声で、娘が母親に呼びかける。
邪魔になってはいけないからと少し離れた場所で見守る少女を、アンバーは後ろからそっと抱いて頭を撫でてやっていた。
いつの間にか弟のミゲルと妹のカティアもアンバーの袖を握って大人しくしている。
子どもたちのことはアンバーに任せるのが無難そうだ。
そしてそうこうしている間に、ヨハンは手際よくメルヴィの状態を確認していった。
「やはりここでは設備が足りませんね。私の診療所まで行かないと」
「手伝うよ、ヨハンさん」
「助かります。いきますよ、一、二の、三――!」
ジェードはヨハンの合図でメルヴィを立ち上がらせた。
思えば最初にピレーマに到着した日も、二人で同じようなことをした気がする。
しかし、あのときと状況の重みが明らかに違うことは空気でわかる。
全身の皮膚がびりびりと痺れるような緊張感で汗が滲み、手が震える。
それでもここで逃げ出すわけにはいかない。この新しい生命が、メルヴィにとってどれほどの幸せをもたらすのかを、彼らは知っているのだから。




