勉強熱心な妖狐
妖狐の少女をアンバーと名付けた次の日、ジェードはやはりいつもの場所で絵を描いていた。
人物画ではなく、風景画を中心に創作活動をしているのは過去の経験からそのほうがよいと判断しているためであった。
アンバーはジェードの過去の経験を、特別な才能を持つが故ではないかと話していた。
そう言われてジェードは少しではあるが肩の荷が下りたように感じていた。
アンバーの言葉の真偽がどちらにしろ、自分の不幸の根底にあるものを推定したことでジェードはどこか身軽になれた気がした。
ジェードはこの日は朝から街に出ることこそなかったが、午前中には大通りに腰掛けて絵を広げていた。
ちょうど昼をまわった頃、描いていた絵から顔を上げたジェードは、見慣れた琥珀色の髪がちょうど目の前を横切って行くのに気づいた。
「──アンバー」
咄嗟にジェードは同じ髪の色をした少女の名前を口にし、本人かどうかを確かめる。
すると少女はピタリと歩みを止め、ジェードの方へゆっくりと振り返った。
水色の瞳、少しだけ赤く染まった白い頬、筋の通った高い鼻。
そこにはこちらを向いて嬉しそうに微笑んでいる見知った顔があった。
「今日は一回目で気づいてくれたのう」
「あはは、それはよかった」
ジェードは画材を鞄に収めると、再び彼女を連れて北の森へと足を向けた。
*****
「怪我の具合はどうじゃ? まだ痛むか?」
「昨日も同じこと聞いてなかった? そんな一日くらいじゃ大して変わらないよ」
ジェードとアンバーは森の中を流れる川の辺りまで再びやってきた。
街では人の姿だったアンバーも、森を歩く間に耳や尾を顕にしていた。
川辺にジェードが腰を降ろすと、アンバーもその隣にちょこんと腰掛けてきた。
「心配なのじゃよ、わしがさせてしまった怪我じゃから……」
「あはは、優しいんだね、アンは」
率直に褒められたアンバーは耳をピクリと動かして顔を赤らめていたが、すぐに言葉尻の違和感に気づいてジェードの顔を見上げた。
「"アン"とは何じゃ? それもわしのことか?」
「うん、そうだよ。"アンバー"だから"アン"。愛称って言えばいいのかな、僕は君をそう呼ぶことにしたよ」
「ほほう、そうか。ならわしは"主様"と呼ぶことにするかの!」
「様づけ!? 僕なんかに、いいのかな……」
「よいじゃろう? 別に誰かの許しが必要なわけでもないじゃろうから」
「あはは……」
強いて言うなら僕の許しが必要じゃないかな。
まあ呼びたいように呼んでくれて構わないんだけど。
ジェードの言葉一つ一つにしっかりと耳を傾けて聞いているアンバーを見ていると、やはり人に害をなす物の怪だとは思えなかった。
それにも関わらず街の人々は妖狐を危険な生き物だと言って嫌悪する。
アンバーの話では妖狐も人間を極端に恐れているようであった。
何が両者の間にそれほどまでの溝を生んでいるのかわからないジェードは、どこかやりきれない思いを抱いていた。
「ねえアン、ずっと思ってたんだけど、君はそんなに若いのにどうして老人口調で話すんだい? もしかして、見かけによらず中身はもっと年寄りなのかい?」
「わしは妖狐の中では若いほうじゃぞ。わしがこのような言葉で話すのは、単純に覚えた言葉がこんな口調だったからじゃ」
「よくわからないけど、つまりどういうこと?」
ずっとジェードの目を見て話していたアンバーが、不意に空を流れる雲に視線を移した。
「語り部の老婆がおったのじゃ。街の外の貧民街にの」
雲を目で追いながら懐かしむような表情を浮かべるアンバーを、ジェードも隣でじっと見つめていた。
やがてアンバーは視線をジェードの方へと戻し、再び口を開いた。
「わしが人間に憧れておることは知っておるな? じゃから少しでも人間のことを知りたくて、貧民街に住んでおった老いぼれのところに通って言葉を覚えたのじゃ。妖狐は言葉など使わぬからのう」
「へえ……なんて言うか、すごく勉強熱心なんだね、君は」
この事実にはジェードも驚きを隠せなかった。
憧れという原動力だけでアンバーは言語をまるごと一つ覚えたのだ。
よほどの強い思いがなければできることではない。
それほどまでに人間に憧れを抱いていたとは想像以上であった。
「その老いぼれは貧民街の童たちにいつもいろんな話を聞かせておった。昔話、お伽話、自分の若い頃の話……いつも老いぼれはたくさんの童たちに囲まれて楽しそうに語っておった」
「その中に君も混じっていたんだね。そして、そのご老人の言葉が伝染ったと」
「うむ、その解釈で間違っておらぬ」
知らなかった。
街の貧困層よりもさらに貧しい人々が身を寄せるあの貧民街にそのような人がいたなんて。
「わしは飢え死にした童の服を拾って人間に成りすましておった。始めは老いぼれが何を言っておるかわからんかったが、通い詰めるうちに聞き取れる言葉も少しずつ増えて、それが楽しくて嬉しくて仕方なかったのを覚えておる」
そう話すアンバーの尾は楽しげに揺らめき、表情も心なしか嬉しそうである。
きっとアンバーにとってそれは楽しかった記憶の一欠片であり、大切な時間の一部なのだろう。
「じゃが、わしが通うようになってから四回ほど同じ季節が巡ってきた頃かのう、その老いぼれは急に姿を見せなくなった。その理由はわしも何となく察したから探しはせんかったがの」
そう言ってアンバーの耳がしゅんと垂れ下がるのを見て、ジェードも老婆の身に起きた事態を悟った。
別に珍しいことではない。このようなことは貧民街では日常茶飯事である。
アンバーにとっての楽しかった時間は突然消えてしまった。
優しいアンバーのことだ、きっと随分悲しんだに違いない。
「直接話したことこそなかったが、わしはあの老いぼれに感謝しておる。あの老いぼれがいなくなるまでに、わしは人間の言葉を粗方理解できるようになったのじゃからな。そして老いぼれが居らぬ以上貧民街に通う理由がなくなったわしは、いよいよ街の中を歩くことにしたのじゃ」
「そうして人間の文化を直接見ているうちに、ついに僕のところにやってきたってことかな」
「そうじゃ。主様は察しがよくて助かるのう!」
先ほどから自分のことを語るアンバーの様子は本当に楽しそうだ。
きっと昔からこうすることを──憧れである人間と一緒に語らうことを夢見てきたのだろう。
しかしその相手が自分なんかで本当によかったのだろうかと若干不安に思うジェードだった。
「街に出向いたことで、こうして主様とも出会うことができたのじゃ。言葉を覚えた甲斐も、勇気を振り絞って声をかけた甲斐もあったというものじゃよ」
「大袈裟だなぁ。僕はそんなに大した人間じゃないよ」
ぐぎゅるるるる……
ジェードが謙遜すると、不意に何かの唸り声にも思えるような低い音が二人の間に響いた。
その正体を察したジェードの顔が羞恥心で赤く染まっていく。
一瞬驚いたような顔をしていたアンバーは音の聞こえた方──ジェードの腹のあたりに視線を落としていた。
「そういえば僕、お昼がまだだった……」
「……フフッ」
「笑ったね!? 今笑っただろうアン!?」
「アハハ、いや済まぬ。何をそんなに恥じておるのかと思っての。生きておれば腹が減るのは当然じゃろうに」
口元に手を添えてクスクスと笑うアンバーを見ていると羞恥心が一層増すような気がした。
それなのに、楽しそうに笑う少女の純真無垢な姿はどこか憎めなかった。
「すっかり話し込んじゃって食べるのを忘れてたよ」
そう言いながらジェードは鞄を開き、中から布に包まれた弁当箱を取り出した。
ジェードが包みを開く様子をアンバーは興味深そうに眺めていたが、蓋の下から色とりどりの食材が顔を出すとその瞳が輝き出した。
「綺麗じゃの!」
「そ、そうかい? なんだか珍しい反応をするんだね、君は」
普通は弁当を開くと美味しそうだとかいい匂いだとか、そういった感想が返ってくるものだ。
しかしアンバーはまず見た目の美しさについて思ったことを述べたのであった。
「どうせ腹の中に入れてしまうのに、人間は食べ物をこんなに彩り良く綺麗に並べて箱に詰めるのか。不思議じゃのう」
「確かに……言われてみればそうかもしれない」
アンバーは人間にとって"当たり前"のことに対してとても新鮮な反応をする。
ジェードも"当たり前"なことに心を動かされることは多々あるのだが、アンバーの感性はさらにその上を行くようだった。
「ねえ、君たち妖狐は普段何を食べてるの?」
握り飯を一口齧りながらジェードが問うた。
「妖狐は森で鼠やら兎やらといった小さな獣を捕らえることが多いな。木の実や果物も稀に見つかるから、そういったものを食うこともあるぞ」
「へえ、雑食なんだね。ならこういうのは食べても平気かな?」
そう言ってジェードは右手でおかずの鶏肉をフォークに刺し、アンバーに差し出した。
「よいのか? 主様の昼食じゃろう?」
「こんなこともあろうかと少し多めに用意してきたんだよ。遠慮しないでくれ、ほら」
アンバーはやはり遠慮しているようで躊躇う素振りを繰り返している。
そんな彼女にフォークを手渡そうと、ジェードは右手を彼女の手元に運んでいく。
「…………はむっ」
しかしアンバーはその意図を汲めなかったのかフォークを受け取ることはせず、刺さった鶏肉を直接口で咥えた。
「……あれ?」
なんであーんしてあげたみたいになってるんだろう……
意図せずして食べさせてあげる形になってしまい、何も刺さっていないフォークを握ったまま困惑するジェード。
そんな彼のちょっとした照れ臭さになどまったく気づいていないアンバーは無言で咀嚼を繰り返している。
やがてそれを飲み込んだアンバーは瞳を輝かせながらジェードの方を向き直った。
「美味い!! とても美味いぞ主様!!」
にじり寄ってきたアンバーの顔を間近に見ながらジェードが仰け反る。
彼女の顔がこんなにも目の前まで近づいてくると本当に心臓が張り裂けそうになる。
「そ、それはよかった。頑張って作った甲斐があったよ」
「……作った? 主様がか?」
「うん。僕の家は小料理屋だから、僕もそれなりのものは作れるつもりだよ」
料理をすることはジェードも嫌いではない。
店の手伝いをしているときもそうだが、自分が作ったものを食べた相手が喜ぶというのはやはり心躍るものがある。
本当は自分の描いた絵でこんな気持ちになれたらいいんだけど……
「こっちの緑色のものは何じゃ?」
ぼんやりしていたジェードは弁当箱を指差すアンバーの声で我に返った。
絵に対する情熱を捨てきれず、知らぬ間に考え込んでしまっていたようだ。
「ああ、食べてみるかい? 野菜だけど大丈夫かな」
「多分平気じゃろ、草みたいなものじゃろうし」
「草って……」
街で孤立していたジェードにとっては家族以外の誰かとこうして語らったりすることなど久々のことで、どこか胸が暖まるように感じられた。
仲良くおかずを分け合いながら弁当箱を突く時間はあっという間に過ぎたように感じられたが、二人にとって非常に充実した瞬間であったことを疑う余地など毛頭なかった。
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