小さなお姉ちゃん
獣の耳を持つ、琥珀の少女と黒の男。
二人は互いに黙り込んだまま、じっと相手の出方を伺っている。
アンバーは未だに緊張を隠せない様子だが、ヨハンの方は顔色一つ変えずにじっと彼女を見つめていた。
「……ヨハンと言ったかの。その姿は……主、"化猫"じゃな」
「ご名答。あなたの方は、そうですね……"妖狐"、とお見受けしますが」
「うむ。その通りじゃ」
それだけ言葉を交わすと、ヨハンはさっさと耳を撫でて再び正体を隠してしまった。
ずっと感じていた"違和感"の正体は間違いなくこれだ。
実はヨハンはアンバーと同じ――人間ではなく、物の怪の類だったのだ。
「よろしければ、あなたのお名前を伺っても? まだ聞いていませんでしたので」
「……アンバー」
一瞬答えるかどうか迷う素振りを見せたが、アンバーはぼそりと言葉を返した。
すると、ずっと淡々とした態度だったヨハンは少しばかり不思議そうな顔をした。
「なにをそんなに身構えているのです? 別に獲って食おうなどとは考えていませんよ」
「……いや、人の街で主のような者に会ったのは初めてでの。少し驚いておるのかもしれぬ」
「それは私も同じです。人間のふりをして生きるような物好きなんて、自分だけだと思ってましたから」
そう語りながらヨハンは立ち上がり、壁に掛けてあった白衣にそっと袖を通した。
先程までの黒づくめの印象が一変。膝くらいまである白衣と黒髪のコントラストが威厳ある風格を醸し出している。
書類を手にこちらへ向かってくるヨハンに対して一歩後退ってしまったアンバーだったが、どうやら先程言った通り彼に敵意はないらしい。
「これから診察の予約が入っているので、私はこれで。お話なら、また時間があるときにでも」
院長室を出る際、ヨハンはアンバーとのすれ違い様にそう言い残して去っていった。
まだまだ聞きたいことが山積みであるアンバーの心情は、どうやらお見通しであったらしい。
細く一本に束ねられた彼の後ろ髪が背中の白衣の上で揺れる様子を、アンバーはしばらくじっと見つめることしかできなかった。
*****
手に持った小さな紙に何度も目を落とし、歩く。
すれ違う街人にしばしばその紙を見せ、目的地がどの方向か尋ねる。
そうしてジェードは夕陽が半分ほど沈んだ頃に、妊婦の自宅と思われる家に辿り着いたのだった。
クリーム色の外壁がとても可愛らしく、暖かで柔らかな印象を受ける。
柔和な性格のメルヴィさんらしいな、なんてことを考えながら、ジェードは家の戸を数回叩いた。
少し間が空いて、戸の向こうからトタトタと可愛らしい足音が聞こえる。
やがてジェードの目の前の取っ手がガチャリと回り、独りでに開いた戸の向こうから元気な声がした。
「おかえりなさい! お母さ……?」
「ええと、ごめんよ、お母さんじゃなくて」
出迎えてくれたのは、栗色のショートヘアが特徴の7歳くらいの少女だった。
見知らぬ人物の突然の来訪に驚く少女に対し、ジェードは膝に手をついて目線を合わせてあげた。
そしてジェードは、メルヴィの身に起きたことについて少女に簡単に話した。
最初はやや身構えていた少女だったが、どうやら幼い割にしっかり者らしく、次第に頷きながらジェードの話を聞くようになっていった。
「――それじゃあ、お母さんは今、ヨハン先生のところにいるの?」
「そうだよ。少し帰りが遅くなってしまいそうだから、僕はお母さんに頼まれて、そのことを伝えに来たんだ」
「そっかあ。お兄さん、ありがとう!」
「あはは、どういたしまして。偉いね、ちゃんとお礼も言えるなんて」
そう言ってジェードは少女の頭を撫でてやった。
この少女を見ていると、故郷のいる妹のことを思い出す。
ジェードの妹は4歳であるため、この少女よりももっと幼いのだが、もう少し大きくなったらこのような感じになるのだろうか、なんてことを彼は考えていたのだった。
「おねえちゃん~? おかあさんは~?」
不意に、家の奥からやけに語尾の伸びた幼い声がした。
声のした方を見やると、そこには出迎えてくれた少女よりもさらに幼い二人の子どもがいた。
一人は男の子で、もう一人は女の子。どちらも5歳くらいだろうか。
どうやらジェードを出迎えてくれたのはメルヴィの長女で、この子たちは弟と妹のようだ。
「あっ、ミゲル、カティア。お母さんはね、今ヨハン先生のところにいて、少し帰りが遅くなるんだって」
「ええ~っ、まだ帰ってこないの~? お腹空いたよぉ~」
「仕方ないでしょ。お腹に赤ちゃんがいるって大変なのよ?」
駄々をこねる弟と、その後ろに隠れて黙っている妹。
二人の前に立つ栗色の少女は、まだ幼いながらも立派なお姉さんという印象だ。
「お姉ちゃんがお母さんの様子を見てくるから、ミゲルとカティアはお留守番してて。できる?」
「うぅ……できる」
「うん、いい子ね」
弟たちと話がついたようで、栗色の少女は玄関に立つジェードの元へ再び戻ってきた。
「それじゃあ私、ヨハン先生のところにお母さんをお迎えに行ってくる!」
「そうかい。なら、僕も一緒に行くよ」
診療所にアンバーを残してきているため、どのみちジェードも一度戻らなければならない。
小さな女の子を一人で歩かせるのも何かと不安であるため、ジェードは少女と二人で診療所を目指すことにしたのだった。
と言っても、この少女のしっかり者らしさを見るに、何も心配なさそうではあるのだが。
「ねえお兄さん、お名前は?」
診療所へ向けて歩き出してすぐ、栗色の少女がジェードを見上げて問うてきた。
そう言えばまだ互いに名乗っていなかったな、とようやく気付いたジェード。
年長である自分ではなく、少女の方が会話の主導権を握っているのが、なんだか情けない心境になってしまったのはここだけの話だ。
「僕はジェード。旅の絵描きさ。君の名前は?」
「私、イリス! よろしくね、ジェードお兄さん!」
「ああ、よろしく」
元気よく歩くしっかり者の少女――イリスと並んで、アンバーとメルヴィの待つ診療所へ、ジェードは再び足を向けたのだった。
*****
「あっ、ヨハン先生! こんにちは!」
「おや、イリスちゃん。こんにちは」
診療所に到着すると、イリスは視界にとらえたヨハンに元気よく声をかけていた。
既に顔見知りであるところを見ると、どうやらヨハンはメルヴィやイリスのかかりつけ医であるらしい。
嬉しそうに駆け寄っていくイリスの姿を見ていると、ヨハンは街でも余程慕われた医師であるのだろうと感心させられた。
「元気にしていましたか?」
「うん! 私は元気だよ! それでヨハン先生、お母さんはどこ?」
「こっちですよ。ちょうど今から向かうところでした」
歩き出すヨハンと、それに続くイリス。
おそらくアンバーもメルヴィのところにいるだろうと考え、ジェードも二人について行くことにした。
ヨハンに連れられてやってきた病室では、椅子に腰かけたメルヴィとアンバーが談笑していた。
どうやらあれから体調も落ち着いたようで、ジェードもほっと胸を撫で下ろした。
「お母さーん!」
「あら、イリス。迎えに来てくれたの?」
「うん! ミゲルとカティアがお留守番してくれてるの!」
母親のメルヴィに駆け寄っていくイリスの姿に、思わず笑みがこぼれる。
しかし、共にやってきたヨハンの顔を見たアンバーの表情がやや曇り気味なように見えることが、ジェードには少しばかり気がかりだった。
微笑ましい親子のやり取りもそこそこに、ヨハンはメルヴィの診察を開始した。
いくつか問診をし、メルヴィのお腹に触れて頷くヨハン。
アンバーはなぜだかその様子を真剣な眼差しでじっと見つめている。
診察が終わると、ずっと無表情だったヨハンが少しだけ微笑んでメルヴィと向き合った。
もう顔色もすっかりよくなっているし、痛みもなくなったということで、彼女も家に帰って問題なさそうだと彼は説明していた。
「――ただ、また今日のようなことがあれば、予定より早く産まれてくることもありえるかもしれません。なので、いつでも診療所に来られるよう、身支度はしておいてください」
「わかりました。ヨハン先生、ありがとうございます」
「いえいえ。お大事に」
ゆっくりと立ち上がったメルヴィは、ヨハンに対して小さく頭を下げた。
そして彼女は娘のイリスに手を引かれながら診療所をあとにしたのだった。
*****
「楽しみだなー。次は男の子かな? 女の子かな?」
母親のメルヴィと手を繋いで歩くイリスが楽しそうに独り言を言っている。
診療所を出てからも、ジェードとアンバーは成り行きでメルヴィ親子と並んで大通りを歩いていた。
既に夕陽は沈んでいるが、至る所に飾り付けられたランタンのようなものが夜の街を照らしていて非常に明るい。
この光景を見ていると、いかにも祭りだといった風で胸が躍るような気分だ。
「何事もなくて本当によかったね、メルヴィさん」
「はい。ジェードさんとアンバーさんに助けていただいたおかげです」
「むう……わしは本当に何もしておらぬのじゃが……」
照れくさそうに頬を掻くアンバーを見て、メルヴィは上品に笑っていた。
その様子が自分の母親と少しだけ似ているような気がして、ジェードはなんだか懐かしい気分になった。
「確かメルヴィさんの旦那さんは、仕事で遠出していると言っていたっけ?」
「はい。出産予定日には間に合うように帰ってこられるはずなんですけど……」
「……ヨハンさんは、早まるかもしれないと言っていたね……」
「そうなったらどうすればいいのでしょう……」
メルヴィが不安に思うのも当然である。
父親は不在。もしその状態で出産を迎えてしまった場合、幼い子ども三人で母親を支えるのは少しばかり――というかとても無理がある。
「じゃあこうしよう。万が一旦那さんが出産に間に合わなかったら、また僕らを頼ってくれ。どうだい?」
「お気持ちは嬉しいんですけど、でも、本当にいいんですか? 観光で来られているのに……」
「困ったときはお互い様じゃろう? 遠慮はいらぬぞ」
そう言ってアンバーが笑うと、メルヴィも優しく微笑み返してくれた。
アンバーの後押しが決め手になったのか、メルヴィは少し申し訳なさそうにこくりと頷いた。
「じゃあ……万が一のときは、お願いしてもいいですか?」
「もちろんじゃ!」
「決まりだね。僕らは少なくとも、祭りの当日まではこの街の宿にいるから、何かあればいつでも声をかけ……あれ、宿……?」
ふと、頭の中からすっかり消え去っていた事態を思い出した。
ジェードは背中に悪寒が走り、額に汗が滲むのを感じて震えあがった。
「そうじゃ主様! わしらはまだ宿を見つけておらぬ!!」
「すっかり忘れてた……ッ!!」




