泉の女神様
ピレーマの街は祭りの準備をする人々で随分賑わっている。
街並みを見渡せば、草花を玄関に飾りつける者や、露店をするためのテントなどを立てる者が至る所に見られる。
どちらかと言えば賑わっているというより、浮かれていると表現するのが正しいかもしれない。
しかし誰もが笑顔を浮かべて作業に励む様子は、この"恋の日"の祭りが彼らにとっていかに大切な風習であるかを物語っていた。
「ごめんください。数日泊めてもらいたいのだけれど、二人部屋に空きはあるかい?」
街の宿屋を見つけたジェードは、もうすっかり慣れた様子で受付の者に声をかける。
しかし受付の女性は「申し訳ありません」と苦笑いを浮かべて頭を下げた。
「ただいま満室でして……。一つも空いているお部屋がないんですよ」
「おや、そうかい。わかった、他の宿を当たってみるよ。ありがとう」
気にしないでくれ、とでも言い残すように爽やかに笑いかけたジェードは、次の宿を探して再び街を歩く。
その後ろをついてくるアンバーは、きょろきょろと街の賑わいを見渡しながら目を輝かせている。
観光を楽しみにしている彼女のためにも早く今夜の寝床を抑えようと、ジェードは視界にとらえた二件目の宿の暖簾をくぐった。
先の要領で再び受付の者に声をかけようとしたジェードだったが、先に並んでいる若い男女二人組が立ち往生している事に気がついた。
「満室だってよ。どうしようか」
「仕方ないね。他探してみよ」
微かに聞こえてきた会話から、自分らと同じ状況であることがわかった。
弱ったな、と呟いて頭を掻いたジェードは、くるりと方向転換して再び他の宿を探して歩き出した。
「む、ここもだめか?」
「うん。いっぱいだってさ。もしかすると、この時期はお祭り目当ての観光客がたくさん来ているのかもしれないね」
だとすれば余計に急がなければならない。
このまま宿を抑えることができなければ、真冬の冷たい夜風の中で野宿することになりかねない。
これが旅の道中ならまだしも、せっかくこれほど賑やかな街に到着してまで野宿するのは耐え難かった。
まあ、アンバーは「主様と一緒ならどこでもよい!」とか言って、特に気にせず眠るのだろうけれど。
そんなことを考えているうちに、三件目の宿に辿り着いた。
この宿の主人とみられる中年の女性に声をかけるも、やはり返ってきた答えは今までと同じであった。
「どこもかしこも満室かあ……。どうやら"恋の日"のお祭りというのは、とても人気のある催しのようだね」
「そりゃあそうさ。この街は恋愛成就のご利益で有名な観光地で、特に"恋の日"の季節にはその効果がぐんと跳ね上がるといわれてるんだからね」
「あんまり聞かないけれど、そんなに有名なお祭りなのかい? 僕って思ったより田舎者なのかなあ」
「お兄ちゃんたち、その様子じゃ"泉の女神様"の逸話も知らないね?」
聞き慣れない響きの言葉にジェードが首を傾げる。
隣のアンバーに目配せするも、彼女も似たような反応をしていた。
若い二人の反応を見てにやりと笑った女主人は「ちょっと長くなるけど」と前置きを零すと、目を閉じて淡々と逸話を語り始めたのだった。
*****
昔々あるところに、それはそれは不思議な力を持った美しい女神がおりました。
女神は産まれ持ったその力で美しい自然を育み、動物たちや木々や草花を愛でることに幸せを感じていました。
何百年もの間そうして暮らしてきた女神はある日、ふとした拍子に人間の住む村を見つけました。
自分の力で作り出した自然ではないその村に興味を抱いた女神は、自然と共に人間も愛そうと近づいて行ったのだそうです。
ところが村に住む人間たちは、不思議な力を持つ女神を恐れ、彼女を村から追い返しました。
自らの作り上げた森へと逃げ帰り、悲しみに暮れた女神は毎日のように泣き続けました。
そして女神の流した涙はやがて、森の中に一つの大きな泉を作り上げました。
初めて経験した拒絶を嘆いた女神は、涙の泉の底へとその身を沈め、一歩も外へ出なくなってしまったのです。
それから数十年が過ぎた頃、泉のほとりに一人の人間が迷い込んできました。
男は深い深い泉の底から聞こえてくる泣き声に気づくと、それはそれは優しい声で、大丈夫かい、どうして泣いているんだい、と呼びかけたのだそう。
男の声を聞き届けた女神は、数十年ぶりに泉の底から姿を現しました。
そしてその美貌を目の当たりにした男は、まさに一瞬で女神に心を奪われたのだそうです。
女神に一目惚れした男は、その後毎日のように泉に通い詰めました。
自分が怖くないのかと女神は不安に思っていましたが、男は女神が人でないことなど微塵も気にする様子はありませんでした。
毎日顔を合わせるうちに女神も男に惹かれていき、初めて感じる温かな感情に酔いしれるようになりました。
そして美しい雪景色が泉の周囲を包む冬の日、女神は男に思いを告げました。
男は大変喜びましたが、自分にはやるべきことがある、一緒になるのはそれを成し遂げてからでもよいだろうか、と尋ねました。
やるべきこととは何か、と女神が問い返すと、男は代々村を治めてきた一族の人間であることを打ち明けました。
男の話によると、泉の周囲の村はここ数年、大変な凶作に悩まされているのだという。
男は村を治める者として、貧困に喘ぐ人々を救わなければならないと覚悟を語りました。
そしてこのときに、女神は初めて知りました。
自分が泉の底に閉じこもって泣いている数十年の間に、彼女の作り出した美しい自然はすっかり病んでしまっていたことを。
そのせいで周囲の村ではろくに作物を育てることができず、多くの人間が苦しんでいたことを。
かつての豊かな緑を保っていたのは、自分が閉じこもった泉の周囲だけであることを。
男の覚悟に胸を打たれ、女神は共に村を救おうと立ち上がりました。
女神はすっかり弱り切ってしまった自然を、彼女の持つ力で少しずつ蘇らせていったのです。
こうして次第に村も自然も活気を取り戻し、男も村人たちも大変喜びました。
そして男は、女神と交わした約束を果たすべく、再び泉を訪れました。
男は村を救った女神に心から感謝を述べ、さらには村で共に暮らそうと女神に持ちかけました。
一度人間から拒絶されている女神は躊躇いを見せたものの、この男が共にいてくれるのならばと、その提案を受け入れたのだそうです。
こうして泉の女神は自身の正体を隠し、人間として男と共に暮らし始めたのでした。
あるときは村の大樹の下で見つめ合い、あるときは二つ並んだ岩に腰かけて語らい、またあるときは村を囲む遊歩道を歩きながら明るい将来を想像し――そうして二人は村での幸せな時間を過ごしました。
ところが、女神が生きてきた何百年という時間と比べれば、二人の幸せな暮らしはそう長くは続かなかったのです。
指導者となった男の優れた治世により村は発展し、泉のほとりの村はやがて一つの大きな街となりました。
しかし、時の流れと共に男は、美しい姿のまま変わらない女神を残して老いていったのです。
やがて自身の死期を察した男は、愛するこの街をずっと守っていって欲しいと女神に告げました。
ならば二人で永遠にこの街を見守っていこうと、女神は愛する男を連れて、あの泉の底へと再びその身を沈めました。
こうして、人知れず姿を消した人間と女神の番は、今も泉の底から街と人々を守り続けているのでした。
*****
「――とまあ、これが昔からピレーマに伝わる"泉の女神様"の逸話だよ。どうだい?」
語り終えた宿屋の女主人は、パンと手を叩いてジェードとアンバーにそう呼びかけた。
「……とても、素敵な話じゃのう」
「うん。思わず聞き入ってしまったよ」
ぽかんと呆けた顔の二人に対し、女主人は「そうでしょうそうでしょう」とご満悦だ。
「泉の女神様があんまりにも素敵な恋をしたもんだから、この街に来れば恋愛成就のご利益があるなんて噂が広まってしまってねえ。恋の日を間近に控えたこの季節は、観光客でどの宿もいっぱいになるんだ」
「確かに、どこの宿屋も大変そうだったね」
「おかげで儲かるから願ったり叶ったりなんだけどねえ。ただ、街の雰囲気にのせられた男女二人組がたくさん泊まるとなると、いつも以上に寝具の洗濯が大変なんだよ。まったく若者はいいねえ、お盛んで」
そう言ってゲラゲラと笑う女主人に、ジェードはあははと苦笑いを返しておいた。
その横でアンバーは未だにきょとんとしたまま首を傾げている。
「なぜ男女で泊まると洗濯が大変なのじゃ?」
「……アン、この話はおしまいにしよう?」
この手の話題は苦手だ、とジェードは強引に会話を終わらせる。
アンバーは少し納得いかないような表情を浮かべているものの、世の中にはまだ知らなくていいことというものもあるのだ。
「……っと、こうしちゃいられない! 僕らも急いで空いている宿屋を探さないと!」
すっかり逸話に引き込まれてしまっていたが、こうしている間にも街中の宿屋は宿泊客で埋まっていっている。
女主人に礼を述べたジェードは、アンバーを引き連れて足早に歩き出したのだった。
*****
ピレーマの街は祭りの準備をする者や、祭りを目当てにやってきたであろう若い男女で溢れかえっている。
時折まだ空いている宿屋を知らないかと街人に尋ねてみるも、好ましい答えが返ってくることもなく、ジェードも途方に暮れ始めていた。
「まさか本当に野宿、なんてことにはならないよね……?」
「その可能性も考えておった方がよいかもしれぬな。まあ、わしは主様と寝られればどこでもよいがの!」
予想通りの言葉と笑顔がジェードに向けられる。
アンバーさえいいと言うのなら、自分が我慢すれば済むだけだと、ジェードも半ば諦めつつあった。
はあ……久々に温かいベッドで寝たかったんだけどなあ。
いいや、まだ野宿と決まったわけじゃないんだ。諦めずに探してみよう。
一人胸の内で気を引き締め直したジェードが歩みを強める。
しかし彼はふと、アンバーが後ろをついてきていないことに気がついた。
「……アン?」
人混みの中で立ち止まったアンバーは、ジェードに背を向けて立ち尽くしている。
そっと歩み寄ると、どうやら彼女は雑踏の中で何かに耳を傾けているように見えた。
「何か聞こえぬか?」
「うーん。人が多すぎて、僕の耳では何も……」
妖狐であるアンバーの聴力は相変わらず鋭い。
人間であるジェードが気づかないような小さな音を、しかもこれだけの人混みの中で聞き分けるのは素直に賞賛に値する。
「声じゃ。なんだか苦しそうな声が聞こえる」
アンバーは通りに対してくるりと直角に向き直ると、「こっちからじゃ」と言って先に歩き出した。
彼女の向かう先について行くと、通りを外れて狭い路地へと入った。
「主様!」
前を歩くアンバーが声を張り上げた。
彼女が指差す先には、膝をついて息を整える一人の女性の姿があったのだった。
「こんなところに人が……! 大丈夫かい?」
ジェードが慌てて女性に駆け寄る。
しかし女性は腹を抑えて苦しそうに息を繰り返すだけだ。
その姿を見て、ジェードの表情には一瞬動揺の色が浮かんだ。
その女性は、抑えている腹部が大きく膨らんだ、妊婦だったのだ。
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