友達
日も高くのぼったというのに、口から出る息がまだ白い。
朝一番の寒さに比べると少しだけ過ごしやすくはなったものの、窓を揺らす海風は痛みを感じるほどに冷たそうだ。
暖炉に火を焚く余裕もない暮らしぶりのレリーは、居間の椅子に腰かけて必死に両手を擦り合わせている。
それに比べてアンバーは、寒い窓辺に立っているにも関わらず平然と外を眺めていた。
「主様は随分遅いのう。一体どこまで出掛けておるのじゃ」
「確かに遅いですね。もう午後になるのに」
「どこぞで絵でも描いておるのではないか? 主様は一度絵に集中すると時間を忘れてしまうからの」
「そういえばジェードさん、絵描きだって言ってましたっけ。どちらかというと料理人の印象が強いですけど」
「飯だけじゃなくて、絵も素晴らしいのじゃぞ。戻ってきたら何か描いてもらうとよい」
窓辺からくるりと振り返ったアンバーは、レリーの隣にある別の椅子に腰かけた。
ジェードが買い出しに出たのは朝食を済ませた直後だ。
とっくに戻ってきていてもおかしくないほどの時間が経っているため、二人が異様に感じてしまうのも無理はない。
アンバーの言うように道草を食っているだけならよいのだが、レリーは何か不測の事態でも起きたのではとつい悪い方へと考えてしまう。
それに対してアンバーはというと、特に不安げな様子も見せず随分と余裕であるようだった。
これも旅仲間としての信頼関係があるからこそなのだろうかと思うと、レリーは少しばかり胸が痞えたような気がした。
「ジェードさんとアンバーさんは、本当に仲良しなんですね。なんだかちょっと憧れちゃいます」
寂しげに笑ったレリーの言葉に、アンバーはハッとなった。
憧れ……。そうじゃ、レリーは主様のことを好いておるのじゃ。
レリーには申し訳ないが、主様の代わりにわしがここではっきり言っておかねば……。
その説はジェードに否定されたものの、アンバーは彼の言ったことが正しいとはどうしても思えなかった。
少し胸が痛むように感じたが、致し方ない。
できるだけ自然に笑顔を作ったアンバーは、意を決して息を吸い、口を開いた。
「……ま、まあ、わしと主様は恋仲じゃからの。仲が良いのは当たり前じゃろう?」
その言葉を受けたレリーは、表情一つ変えなかった。
ただ、一瞬の沈黙のあとで「……えっ?」と小さな声を漏らした。
「恋人、同士……? だったんですか……?」
「うむ、そうじゃ。わしの自慢の恋人じゃ」
あくまで自然に、今まで通りに振る舞おうとしても、どうしてもこの心苦しさは溢れ出てくるものであった。
自分の恋心が叶わない事実を目の当たりにするのがどれほど辛いかということは、妖狐であるアンバーにも理解できる。
彼女は自分が間違ったことをしたとは思っていないものの、自分がしたことがいかに残酷であるのかは自覚せざるを得なかった。
言葉には出せない詫び言を、胸の内で何度も繰り返す。
済まぬレリー。本当に済まぬ。
せっかく仲良くなれたというのに、これでわしは本当に嫌われてしまったかのう……。
誰が悪いわけでもない。
レリーが非難されるいわれもなければ、自分が責められる道理もない。
そのようなことはわかっている。
しかし、自分がレリーの恋敵であるという立場が、彼女に対する罪悪感のようなものをアンバーの中で膨らませていくのだった。
「――そうだったんですか!? それならそうと早く言ってくれればよかったのに!」
そんな空気に似合わないほどの明るい返答に、アンバーは耳を疑った。
驚いて顔をあげると、そこにはなぜか少しにやついているようにも見えるレリーの笑顔があった。
「なるほど、それならあんなに仲良しなのにも納得ですね。そっかぁ、なんだかごめんなさい、まったく気づかなくって」
「……レリー? どうしたのじゃ? 大丈夫か?」
「何がですか? 身体の具合なら、今はだいぶ調子がいいですよ」
「そ、そうか……」
予想していた反応とあまりにも違って、アンバーは頭が混乱してしまいそうであった。
やはりジェードの言う通り、自分の思い込みだったのだろうか。
自分はジェードとレリーが楽しそうに話していたのに嫉妬して、ことを大袈裟に考えてしまっただけなのだろうか。
そう思うと、アンバーは自分があれこれと悩んでいたのが急に馬鹿らしくなってきて頬が緩んだ。
「本当にごめんなさい。男女で二人旅だと聞いた時点で勘付くべきでしたよね。あ、私のことはお構いなく。水を差すようなことはしませんから」
「いいや、そう言われてもわしは主に構う。せっかく仲良くなれたというのに、連れないことを言うでないぞ!」
「あはは、そうですね。私たちはもう友達ですもんね」
「……ッ!」
レリーの言葉を聞いてアンバーは急に口籠った。
「……"友達"……。わしらは"友達"かっ!?」
「そうでしょう? もう他人じゃありませんから、友達ですよ!」
満面の笑みを浮かべたレリーの答えに、アンバーはむずむずとしたものが込み上げてくるのを感じた。
それは決して不快なものではなく、むしろ喜ばしく思えるようなものだった。
思わずレリーに飛びつきたくなったのをぐっと堪え、アンバーは目の前の痩せ細った白い手を握った。
「友達か……嬉しい! わしは嬉しいぞレリー!」
「ちょっと、どうしたんですか? そんなに喜ばれると、なんか照れ臭いですよ……?」
レリーはアンバーに握られた手をまじまじと見つめて頬を赤らめていた。
アンバーのむずむずした感覚はやがて小さな笑い声となって漏れ出し、それを聞いたレリーもいつの間にかつられてくすくすと笑みを溢していた。
すると、玄関口の方で何やら物音が聞こえた。
それに敏感に反応したアンバーは「主様かのっ?」と跳ねるような足取りで玄関へと向かった。
長い琥珀色の髪を楽しげに揺らす背中を、一人静かに見送るレリー。
自分の腰のあたりにそっと隠した両手は、爪が食い込んだ手のひらから血が滲みそうなほどに握り締められていた。
「やっと戻ったか主様。随分遅かったのう」
「ごめんよ。僕もこんなに時間がかかるとは思っていなかったんだけど」
玄関まで出迎えにくると、そこには買い出しの袋を両手いっぱいに抱えたジェードの姿があった。
「あんまり遅いから、どこぞで浮気でもしておるのかと思ったぞ」
「どうしてそうなるんだい!? 僕にそんな度胸なんてないよ……」
すっかり待ちくたびれていたアンバーは、ジェードに冗談を言ってくすくすと悪戯っぽく笑っていた。
しかしジェードがあまりにも慌てて否定するのがおかしくて、アンバーはさらにからかってやろうとニヤリと笑みを浮かべた。
「はて、それはどうじゃろうかー? レリーはどう思うかの?」
「えええ、私に振られても困るんですけど……」
アンバーに遅れて出迎えにやって来たレリーは、アンバーの問いに苦笑いを浮かべていた。
その様子を見たジェードは少々驚きはしたものの、二人が無事に打ち解けられたようであることを察してほっと息をついたのだった。
「ほらアン、部屋に荷物を運ぶから。からかってないで手伝ってくれ」
「うむ!」
「食材は私が厨房に持っていきますね」
食材の入った袋をレリーに渡したジェードは、アンバーと共に自分らの荷物を抱えて借りている部屋へと向かっていった。
*****
「随分ご機嫌だね。僕がいない間にどんないいことがあったんだか」
二人きりになってようやく現れた大きな尻尾が、ふわふわと左右に揺れ続ける。
ジェードの荷物を運ぶ手伝いをしながら、アンバーはずっと耳をひくひくと動かし、鼻歌を鳴らしていた。
レリーとの関係がよくなったことを喜んでいるのは明白であるが、ジェードは敢えてその理由を尋ねるように呟いてみせた。
「"友達"じゃと」
部屋の隅に荷物を下ろすアンバー。
その小さな背中越しに聞こえた声はとても楽しげに弾んで聞こえる。
ジェードが羽織ったコートを脱ぎながら「ん?」と短く問い返すと、彼女は髪を揺らしながらくるりと振り返って明るい笑顔を咲かせた。
「レリーがわしのことを"友達"と言ってくれたのじゃ! 人間にそう言ってもらえたのは初めてじゃから、もう嬉しくて嬉しくての!」
「だから言っただろう? レリーは君のことを嫌ってなんかいないって」
「うむ。主様の言う通り、きっかけさえあればすぐじゃった!」
「ずっと暗い顔をしていたレリーのあんなに楽しそうな顔、初めて見た気がするよ。これも君が頑張ったおかげだね」
ジェードはアンバーを褒めてやるように頭をぽんぽんと軽く叩いてやった。
しかし、普段はそれでだらしないくらい頬を緩ませるはずのアンバーが、今回はなぜか難しい顔をして考え込み始めたのだった。
「アン? どうかしたかい?」
「……主様よ、どうにかレリーを助けてやることはできぬじゃろうか」
「と、言うと?」
明るい声色から打って変わってぼそぼそと力ない声を漏らすアンバー。
彼女なりに何か思うところがあるのだろうと察したジェードは、慰めるような穏やかな口調で続きを促した。
「レリーの職場の長の者が助けようとせぬから、わしらが代わりにと思ったのじゃ」
そう言ってアンバーはジェードに再び背を向け、天井を仰ぎ見ながら自身の過去へと思いを馳せた。
「わしは多くの者に助けられて生きてきた。何度も命を救われてきた。わしの母親や父親にも、群れの仲間にも、もちろん主様にもの。じゃからそれがどんなに有難くて幸せなことか、わしはよくよく知っておる」
少し寂しげにも聞こえる小高い声に、ジェードは黙して耳を傾ける。
持ち上げた視線を床へと落としたアンバーは、胸の前で両手を握り合わせながらさらに言葉を続けた。
「じゃがレリーは違う。この街にはレリーの味方をしてくれる者などおらぬのじゃ。わしはもう見ておれぬ。せっかくできた友達が、この街でこれからも苦しんで生きていかねばならぬのかと思うと、胸が痛い……じゃから――」
そこまで口にして振り返ろうとしたアンバーは、背中から包み込まれるような温もりを感じて息を飲んだ。
気がつくとアンバーは、後ろにいるジェードに肩を抱きよせられていたのだった。
「……君は本当に優しいんだね、アンバー」
「主様……?」
耳元でそっと囁かれた声が頬に熱を残していく。
背中に感じる温かな鼓動につられて自分の心臓も高鳴っていく。
腰のあたりでぱたぱたと落ち着きがなくなってしまった尻尾が気恥ずかしいアンバーだが、ジェードはそれを気にする様子など少しも見せない。
不意を突かれて動揺してしまったアンバーは、自分の肩に回された腕をぎゅっと握って俯いてしまったのだった。
「いきなり、どうしたのじゃ……?」
「あはは、ごめん。なんだか嬉しくなっちゃって。急にこうしたくなっただけさ」
「今の話の何がそんなに嬉しかったのじゃ?」
「うーん。教えてあげない。それを聞くのは野暮だよ、アン」
「むう、なんじゃそれは」
濁されてしまったのがなんとなく悔しくて、アンバーは赤くなった頬を膨らませた。
彼女はすぐ後ろでにこにこと嬉しそうな表情を浮かべているジェードの腕を解くと、素早く身を反転させ、背伸びしてジェードの首元に抱き着いた。
「ぬぬーっ、お返しじゃーっ!」
「はいはいよしよし。それで、具体的にレリーには何をしてあげたいんだい?」
「む、それじゃ」
先程言いかけたことを思い出し、アンバーはジェードから離れると再び考え込むような素振りを見せた。
「わしは主様のように賢くはないから、何をすればよいかてんで思いつかぬ。じゃから、どうか主様の知恵を貸して欲しい」
真剣な面持ちで翡翠色の瞳を見上げるアンバーの眼は、文字通り曇り一つない空色だ。
彼女の熱意を受け取ったジェードは、右手でアンバーの頭を軽く叩くように撫でてやったのだった。
「僕なんかの浅知恵でよければいくらでも。実は僕も同じことを考えていたみたいでね。君にもレリーにも話したいことがあるんだ」
ここまで熱心に懇願されて、首を横になど振れはしない。
凛々しい顔つきでアンバーと向き直ったジェードは、彼女を連れてレリーの待つ居間へと足を進めていったのだった。




