きっかけ
肩にかけた鞄を背負い直し、玄関の戸に手をかけるジェード。
自分らの買った食材をレリーに分け与えてしまったこともあり、彼は昨日に引き続きもう一度街へ買い出しに行くところだ。
彼が買い出し役になったのは、昨日レリーに聞いたように女性差別が根付いてしまっているのなら、男性である自分が行くべきだろうと判断してのことだ。
しかしながら、なかなか玄関の戸を開ける踏ん切りがつかない。
それは見送りに玄関までついてきたアンバーがあからさまにしょんぼりと不貞腐れていることが気がかりなせいだろう。
「さっきからどうしたんだい? 朝食の席でもそんなにむっつりしてさ」
「……別に、普通じゃ」
厨房で朝食の洗い物をしているレリーを気にする素振りを見せるアンバー。
どう考えても普段通りとは思えない振る舞いには、ジェードも少しばかり心当たりがあった。
「もしかして、レリーが僕とばかり話すから、彼女に妬いているのかい?」
「…………ちょっとだけ」
「そうかい」
ちょっとじゃないな、とは思ったものの、妬いてなんかいないと強がらないところは憎めない。
アンバーは、レリーがジェードのことを意識していると思い込んでいる。
恋敵になりかねない相手が自分とは口を聞かず、ジェードとばかり楽しげに語らうのだから、アンバーの心境もきっと穏やかではないのだろう。
「でも、なんだか嬉しいな」
予想外の返答であったのだろう、アンバーは俯いていた顔を持ち上げて首を傾げた。
「嬉しい? 何がじゃ?」
「だってそうやってヤキモチを妬くのは、僕を他の人に盗られたくないって君が強く思っているからだろう?」
そう言って微笑みながら、ジェードはアンバーの頭を掴むようにぐりぐりと撫でた。
されるがまま頭を揺さぶられるアンバーは「ぅぅぅ……」と呻いていたが、特に何か反論してくる様子もないあたり図星なのだろう。
「だから嬉しいんだよ。その気持ちは、君が僕の側にいたいと思ってくれている証拠なんだから。まあ、君にとってはちっとも面白くない気分かもしれないけどね」
そう言って笑うジェードに対し、アンバーは赤らんだ頬を無言で膨らませていた。
風船のような顔で見上げてくる拗ねた視線は子どもらしくて、なんとなくかわいいと思えてしまう。
自分でも気づいていなかったような彼女自身の内面までお見通しのジェード。
きっとアンバーはそんな彼の落ち着きっぷりが、どこかこそばゆく感じているのだろう。
「そんなことより、アンはレリーとちゃんと仲良くしないと」
「そうしたいのじゃが、レリーはわしが何と言っても黙り込んでしまうのじゃ。もしかしたら、主様と一緒におるわしのことを目の敵にしておるのではないか? 主様と一緒になるために、わしのことが邪魔じゃと思っておるのかもしれぬ……!」
「被害妄想が激しいね……」
少し顔を青ざめて慌てた素振りを見せるアンバーは、何度考えすぎだと諭してもまるで納得しようとしない。
女の勘というべきか、それとも野生の勘と呼ぶべきか。
いずれにせよジェードには、アンバーがあれこれと考え込んでいることはすべて杞憂である気がしてならないのだった。
「大丈夫。彼女はアンのことを嫌ってなんかいないよ。何かきっかけさえあればすぐに仲良くなれるさ」
「うむ……」
「それじゃ、行ってくるね」
未だに腑に落ちない様子のアンバーを残し、ジェードはレリーの家をあとにした。
戸が閉まったあとの玄関では、大きな溜め息と共に肩を落とすアンバーの情けない声だけが木霊したのだった。
「きっかけ、と言われてものう……」
これまで何度声をかけてもレリーは言葉を返してはくれなかった。
時折目が合うことはあるものの、彼女はすぐに気まずそうに目を伏せてしまう。
まずはきっかけを作ることに難儀しそうだと思うと憂鬱にもなるが、ひとまずアンバーは肌寒い玄関からレリーのいる厨房へと戻ることにしたのだった。
*****
決して動かず、それでいて決して目を離さない。
厨房の入口から無言でじっと見つめてくるアンバーの視線に、レリーは洗い物をする手が震えるような気さえした。
この状態がどれほどの時間続いていたのかは覚えていない――というより、アンバーが気がかり過ぎて計るような余裕もなかったレリーであった。
「あのう……何か……?」
「……」
意を決してアンバーに声をかけたレリーだったが、アンバーはまるで銅像のように何も反応がない。
瞬きすらしていないように見える彼女の凝視っぷりは恐怖感すら覚えそうであった。
なんだか心臓が高鳴ってきたような錯覚すら覚えたレリー。
それを不安感からくるものだと自分の胸に言い聞かせて強引に押し殺し、彼女は洗い終えた食器類を布で拭き始めた。
「わしも拭こう!」
「……ええっ?」
ずっと黙って見つめていただけのアンバーが、突然レリーの隣にやってきて皿拭きを手伝い始めた。
先程から彼女は何の意図があってこのようなことをしているのか、レリーにはまるで見当もつかない。
「あの、大丈夫ですよ……このくらいなら、一人で……」
「わしがやりたいからやるのじゃ!」
レリーはぎこちないながらもようやくアンバーと言葉を交わすようになった――というより、この状況では交わさざるを得ないのだが。
しかしながら結局作業中は互いに沈黙したままで、二人の関係は進展したとは言い難いものだった。
「これはどこにしまえばよいのじゃ?」
「ええっ、そんなそんな!」
皿を拭き終えると、アンバーはそれらを両手に抱えて再び口を開いた。
しかしこれ以上アンバーの手を煩わせるわけにはと、レリーも両手を振ってみせた。
「あとは私がやるので……そのあたりに置いててくださ――」
「―― ど こ に し ま え ば よ い の じ ゃ ?」
目を細めて顔を寄せるアンバーは、半ば脅迫しているようでもあった。
思わず後退り、口籠ってしまったレリー。
やがて彼女は小さく溜め息をつくと、また気まずそうに目を逸らした。
「……そこの食器棚に……。大きいものから重ねていってもらえたら……」
「うむ、わかった!」
言っても聞いてはもらえないだろうと、レリーは観念する他なかった。
アンバーが食器を片付ける背中を一瞥したレリーは、気づかれないように小さな深呼吸で心を落ち着けたのだった。
――その後、無言。
きっかけさえあればとジェードは言っていたものの、そのきっかけ作りこそがアンバーにとっての最難関であったことは言うまでもない。
やはり自分には難しすぎた。
ジェードが戻ってきてから彼を仲介するのが、レリーと意志疎通を図るための最も現実的な方法であると、アンバーはむず痒い心境を無理に納得させたのだった。
そのときだった。
アンバーは視界の端に――閉めようとした食器棚の隅に、光を反射して輝くある物体を見つけた。
アンバーにはそれが何なのかわからない。
しかし見たこともない形で見たことのない光り方をするそれがとても美しく思えて、彼女はただただ視線を奪われ続けていた。
「……のう、レリーよ。これは何じゃ? お宝か?」
不意に呼びかけられたレリーはぴくりと肩を反応させると「えっ?」と小さく呟いた。
「ああ、それは……"貝殻"、ですよ。ただの貝殻」
「綺麗じゃのう……」
「……えっ、綺麗……? だと思いますか?」
何の価値もないものだと吐き捨てるような口振りだったレリーは、アンバーの反応に目を丸くしていた。
そんなレリーに対し、アンバーは大きな瞳を興奮の色で輝かせながら振り向いたのだった。
「うむ! つるつるして、虹色に光っておって、まるで宝石みたいじゃ。巻貝はとげとげしておって、なんだか面白い形じゃの。どこで買ったのじゃ?」
早口で忙しなく感想を述べるアンバーは、再び食器棚の中の貝殻に目を奪われていった様子だった。
そんな落ち着きのない姿に苦笑いしながら、レリーもアンバーの隣に立って共に貝殻を見つめた。
「買ったんじゃなくて、拾ったんです。漁港で仕事をしてると、時々魚に混じってこういうものが採れることがあるので。本来なら捨てるんですけど、その中に綺麗なものがあったら、こうしてこっそり持って帰ってくるんですよ」
「捨ててしまうのか!? こんなに綺麗なのに勿体ないのう……」
「でしょう!? こうして部屋の隅に置いておくだけでもちょっぴり幸せな気分になれるのに、本当に勿体ないですよね!」
「うむ、わかるぞレリー!」
「わかりますか、アンバーさん!」
そこまで会話が進んだところで、レリーは思わず大きな声を出していた自分に気づいてハッと息をのんだ。
そしてしおしおと小さくなっていくように俯くと、消えそうな声を喉から絞り出した。
「……ごめんなさい、いきなり盛り上がっちゃって……」
「いいや、嬉しいぞ。やっとレリーとちゃんと話ができたような気がするからの」
恥じらいからか頬を真っ赤に染めたレリーは、アンバーの顔を直視できないといった風に目を泳がせていた。
そんな彼女の様子を見ているうちに、どうやら思っていたほど接しづらい相手ではないのかもしれないとアンバーも考えを改め始めていた。
「他にはないのか?」
「食器棚にあるのは大きい貝殻だけですけど、部屋に行けば小さい貝殻を箱に集めてありますよ。見ますか?」
「見たい! ではさっさと片付けを終わらせてしまおう!」
一層張り切った様子のアンバーは手早く作業を再開した。
そんな健気な姿にどこか元気づけられたのか、レリーはようやくアンバーに笑顔を向けられるようになったのだった。




