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翡翠と琥珀  作者: ヤマキ ヒサト
プラム編
6/126

翡翠と琥珀

「そうじゃ、(ぬし)よ!」


 頬を掻いて恥じらいを顕にするジェードを見て、もしかすると申し訳ないことを頼んでしまったかと予感した妖狐は話題を変えようとした。


「主が描いてくれたわしの絵、もう一度見せてはくれぬか? 今なら逃げ出さずにちゃんと見てやれそうじゃ」


「あー、それなんだけど……昨日街に戻ったら、僕の絵は全部めちゃくちゃにされてたんだ」


「なんじゃと!? 一体どうしてじゃ!?」


 驚きで耳と尾がピンと立つ妖狐。

 人間にはない感情表現の仕方が、見ていてとても新鮮に感じられる。


「僕の絵は街のみんなに気味悪がられてるんだよ。でも別にいいんだ、嫌がらせされたり無視されたりするのはもう慣れっこだし、絵なんてまたいつでも描けるんだから」


「もったいないのう、どれもあんなによく描けておったのに……」


「ありがとう。そう言ってくれるのは君だけだよ」


 苦笑いを浮かべるジェードを見つめる妖狐の耳がまた垂れ下がる。

 浮き沈みが激しいというか、一喜一憂しやすいというか、そんな妖狐の豊かな感性は不思議とジェードの心を引きつけた。


「なぜ街の人間は主の絵を嫌っておるのじゃ?」


「僕が人の絵を描くと、不思議とその人にとって都合の悪い絵が出来上がってしまうみたいなんだ……って言っても何のことかわからないかもしれないけど」


 妖狐はやはり話がわかっていないようで、首を傾げてジェードを見つめている。


「具体的にはそうだな……まだ僕の絵が嫌われていない頃、恋人を連れた男の人に頼まれてその人の絵を描いたことがあったんだ。でもその人はそれを買わずに帰って行った。二人の女性に挟まれて歩いている構図が気にいらなかったみたいでね」


「その男は何が不都合だったのじゃ?」


「恋人の前で女癖の悪そうな絵を描かれて腹を立てちゃったんだよ。でもあとから聞いた話だとその人は浮気癖があって、そのあとすぐに別れてしまったらしいんだ」


 男の本性はまさに描いた絵の通りであった。

 ジェード本人としては何の意図も含みもない絵、ただ直感的にそんな構図が浮かんだから描いた絵に過ぎなかった。


「でもこんなことは一度や二度じゃなかった。別の日、今度は派手で高そうな服を着飾った女の人に絵を頼まれたんだけど──」


「また嫌がられてしまったんじゃな」


「その通り。高そうな服よりももっと庶民的な格好のほうが似合いそうだなって思ったから、そういう絵を描いた。そしたら馬鹿にしてるのかって言われちゃったよ」


 ジェードは地面に座ったまま後ろに手をつき、暗くなり始めた空を仰いだ。

 思い出すだけでも胸が締め付けられるようだが、なぜか彼女になら話してもいいと思えた。


 自分と似ている気がする彼女なら自分のことをわかってくれるかもしれないと、根拠もなくそう思えた。


「これもあとから知った話なんだけど、その女の人は裕福なわけでもないのに、知り合いに見栄を張るために多額の借金をしてまで高い服を買い集めていたんだって。それを見抜かれたのかと思って気を悪くしてしまったんだろうね」


「じゃが主は何も知らなかったのじゃろう?」


「もちろんだよ、その日初めて会った人のことなんてわかるわけがない」


「なら主が責められる理由などないではないか! 納得がゆかぬなーっ!」


「けどそれが商売ってものだよ。客を喜ばせないと生き残れない世界だから」


 妖狐は歯痒そうに頭を掻いた。


 もしかして僕を慰めようとしているのだろうか。きっと優しい子なんだろうな。


「まったく、いつから僕はこんな絵しか描けなくなったんだろう。もしかして不思議な力でも宿ってるのかな、僕」


「わしら妖狐(きつね)が人の姿に化けるようにか? 生憎人間はそのような力は持たぬはずじゃが」


 慰められたかと思えば、次はあっさりと否定された。


「これはあくまでわしの勘なんじゃが、主はおそらく観察力が非常に優れておるのではないかと思う」


「観察力……?」


「そうじゃ。それと直感かの」


 妖狐は両手を前につき、ジェードの顔を覗き込むように言った。

 その仕草に心臓がギュッと縮んだような感覚がする。


 なんとなく、可愛いと思ってしまった。


「主は鋭い直感と観察力を持つが故、相手の胸の内や本性を知らぬ間に見抜いて、無意識に絵の中に反映しておるのかもしれぬ」


「それは何というか、超人的な力とは違うのかい?」


「わからぬが、人間はそんな力など持っておらぬはずじゃ。強いて言うなら"才能"というやつなんじゃろうな」


 相手の本性を見抜き、無意識に(えが)き出す才能。


 こんなに嫌われるような才能なら、持たないほうが幸せだったのかな。


「そうじゃ!」


 何かを思い立った妖狐はニパッと笑顔を浮かべ、ジェードの顔を見つめた。

 その無邪気な笑顔は、少し重くなりつつあった雰囲気を溶かしてくれるかのように明るかった。


「なくなったのならまた描いてはくれぬか? わしは主が描いてくれた絵をもう一度見たい!」


「うん、いいよ!」


「別嬪に描くのじゃぞ、主?」


 妖狐の冗談にあははと笑いながら、ジェードは横に置いていた鞄から画材を取り出した。

 板の上に紙を広げ、妖狐の得意顔を見つめながら木炭を握り締める。

 ところが、ジェードはどうしても手を動かし始めることができなかった。


「……主、どうしたのじゃ?」


「いや、やっぱりやめよう」


 ジェードは地面に画材を置き、不思議そうな顔をする妖狐を見据えた。


「今描くと同じような絵が出来上がりそうで、なんとなく嫌だ。僕は自分の絵に妥協をしたくない。君を描こうとするなら尚更そうだ──」


 妖狐を見つめるジェードの瞳は強い覚悟と意志に満ちている。

 自分を見つめる鋭い眼差しに妖狐が頬を染めると、ジェードは再び口を開いた。


「うまく言えないけど、君は僕にとって特別な存在なような気がする。だから僕は、僕自身が満足できる絵が描けると確信できるときが来るまで、絶対に君を描かない。今そう決めた!」


「……そうか」


 妖狐は残念がるかと思ったが、目を閉じてそう呟く彼女の口元はうっすらと微笑んでいるようにも見えた。


「では、わしはそのときを大人しく待っているとしよう。楽しみにしておるぞ」


「うん、ありがとう……!」


 髪を撫でる冷たい風が夜の訪れを告げる。

 気がつくとあたりはすっかり暗くなっていた。いつの間にか随分と話し込んでいたようだ。


「さて、もっと話したいところだけど、そろそろ帰ることにするよ。あんまり遅いと家族が心配するからね」


「うむ、そうか」


 立ち上がるジェードを見上げる妖狐の瞳がなんとなくもの寂しそうに見えた。

 別れ際にこんな顔をされては帰るに帰れなくなってしまう。


「ねえ君、名前はなんて言うの?」


「……む?」


「いや、なんていうか、僕は君のことをもっとよく知りたいし、もっと話がしたいんだ。だから今日はせめて名前だけでも覚えて帰ろうかなって思って」


 名前が知りたい理由を話しても妖狐は首を傾げたままだった。

 何かおかしなことでも言ってしまったのかとジェードは一瞬心配させられてしまった。


「ナマエ……確か人間は一人一人を指す呼び方がそれぞれ違うんじゃったかの。わしは妖狐(きつね)じゃ、そんなものは持っておらぬぞ」


「そうなんだ。じゃあ君のことはなんて呼べば……?」


「今のように"君"と呼んでくれて構わぬのじゃが……そうじゃ!!」


 妖狐は突然立ち上がり、瞳を輝かせながら少し上の方にあるジェードの顔を見つめた。


「主がわしの名前をつけてはくれぬか?」


「えっ、僕が!? 急に言われても困るな……」


 まだ若いジェードはもちろん子どもなどいないし、自分の絵に題をつけることもあまりしない。

 そのため何かに名前をつけるという行為そのものに縁遠かった。


「主の名前は何というのじゃ?」


「僕かい? 僕の名前は『ジェード』。どこかの国の言葉で"翡翠"って意味らしいんだ」


「……ヒスイ?」


「僕の瞳のことだよ。こんな色をした宝石なんだってさ」


 若干身長差がある妖狐の前に少し屈んで目を見開くと、妖狐が瞳を覗き込んできた。

 彼女の顔が近くに来るとやはり少しドキドキしてしまうのがやりづらい。


 瞳は濃い緑色。

 自己嫌悪の激しい性格のジェードでも、この瞳の色だけはなかなか気に入っていた。


「『ジェード』……それが主の名前か……」


 ジェードの瞳を覗き込みながら顎に手を当て、ふむふむと頷く妖狐の感慨深そうな表情がなんとなく滑稽に見える。

 名前一つ聞いただけでなんとも珍しい反応をするものである。


「君の名前は、そうだね……『アンバー』?」


「あんばー?」


「これもどこかの国の言葉なんだけど、"琥珀"って意味なんだ。君の髪と同じ色をした宝石なんだそうだよ」


 妖狐は自分の髪を指先で摘み上げてじっと見つめた。


「『アンバー』……それがわしの名前……」


「気に入らなかったなら他の名前を考えるけど──」


「そんなわけがなかろう! 主と同じ、宝石を意味する名前なんじゃろう? お揃いじゃ、大満足じゃ!!」


「そ、そうかい? そんなに喜んでもらえるとは思ってなかったよ……」


「というか、なんで主はいつもそんなに自信なさげなんじゃ」


「あはは……」


 ジェードは飛び跳ね小躍りする妖狐の姿に困惑しながら頭を掻いた。

 そんなジェードの戸惑いなどつゆ知らず、妖狐は終始口元が緩みっぱなしだった。


 ずっと憧れてきた人間からもらった名前。

 それも自分のことを特別な存在として接してくれる相手からもらった名前。


 妖狐の胸の中には、森で暮らしていたときには一度も感じたことのない満ち足りた感情が溢れていた。


「それじゃあ、そろそろ本当に帰るよ」


「うむ、ならわしも森に帰るとするかの」


 そう言うと妖狐は着ていた古着を突然脱ぎ捨て始めた。


「わわっ!? ちょっと、なんで脱ぐのさ!?」


「ん? 森の仲間は人間の匂いがすると嫌がるのでな。水浴びをしてから帰らねばならぬ」


 ジェードが最初に彼女を追って森にやってきたときに水浴びをしていたのは、仲間のもとへと帰る準備だったのだ。

 とはいえ突然目の前の少女が衣服を脱ぎ捨てるというのは、ジェードにとっては大事件としか言いようがなかった。


「ふふっ、昨日も思ったが主はもしや女子(おなご)の裸は苦手か?」


「当たり前だ! 得意なもんか!」


「人間はよくわからぬのう。こんな布を被って身体を隠すとは」


 川で水浴びを始めた妖狐に背を向けたまま返事をするジェードの顔はまたも真っ赤に染まっていた。


 森に住む妖狐は普段は狐の姿をしているため服を着ているはずはなく、それゆえ裸体を晒すことに羞恥心もないようだった。


 というかむしろ、見せつけられる僕のほうが恥ずかしい……


「……ねえ、また会いにきてくれるかい?」


 顔を赤らめて背を向けたままジェードが問うた。


「また会いに行ってもよいのか?」


「もちろんだよ。あの街でいつでも待ってる」


「うむ、わかった。しかし、さよならくらいはこっちを向いて言ってはくれぬか?」


「なかなか苦しい注文だね!?」


 恐る恐るジェードが振り向くが、目線だけは妖狐に向けられない。

 そんな初々しい反応に妖狐はくすくすと笑いながら背を向けた。


「ではわしは()く。次に会えるときを楽しみにしておるぞ」


「……うん」


 妖狐は先ほど脱ぎ捨てた服を咥えて両手をつき、対岸の森へと走り去った。


「……また──」


 ジェードがぽつりと呟いた。

 その小さな声を噛みしめたあと、彼は大きく息を吸い込み、見えなくなった少女に力いっぱい声を張り上げた。


「"またね"、アンバー!!」


 木々の隙間を縫うように走る少女の耳に、その声は確かに届いた。


 もう一度会うことを彼が望んでくれている気がして、"またね"という言葉がとても嬉しい。

 たった今もらった名前を大きな声で呼んでもらえてなお嬉しい。


 森で生きていては感じることのできない感情。

 これが人間の華やかさというものだろうか。


 こんな感情をもっと知りたい。人間らしさというものにもっと触れてみたい。


 これから彼と一緒に、彼の隣で。

 短編として公開していたのはこのお話までです。

 このあとは初公開の続編に当たる部分となります。


 いかがでしたでしょうか?

 よろしければ今後もご愛読や評価などをお願い致します!

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