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翡翠と琥珀  作者: ヤマキ ヒサト
マルタラッタ編
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不幸の呪文

 生魚の臭いが充満する市場を抜け、風通しのよい開けた場所に出る。

 港に出ると、鼻をつまんでしまいたくなるような空気が一変した。

 冬の冷たい風にのって鼻の奥まで抜けるような潮の匂い。

 船着き場に押し寄せる波が砕けるときの飛沫の音。

 それらは港を訪れた旅の青年にとってはどこか懐かしく、彼についてきた少女にとっては非常に新鮮に感じられるものだった。


「わああ……! これが"海"かっ!?」


「ああ、そうだよ。初めて見るんだろう?」


「うむ。老いぼれの話で時々聞いてはおったが、こんなに大きいとは思っておらんかった!」


 アンバーは故郷(プラム)の森に住んでいた時、とある老婆の語るお伽噺を聞いて人の言葉を覚えたのだという。

 彼女が耳を傾けてきた数多の物語の中には、当然海を舞台としたものもあっただろう。

 しかし森の中で産まれ、森の中で育ち、しばしば街を訪れるくらいしか世界を知らなかったアンバーにとって、これほど荘厳で壮大な光景は心動かされるには十二分であった。


「それで、人間はどうやって魚を獲っておるのじゃ?」


「それはほら、あそこを見てごらんよ」


 ジェードが指差した先――そこには沖に出ようとする一隻の小舟があった。

 船の上では筋骨隆々の漁師が、海に投げ入れる網の準備を整えているのが見える。


「あれは底引き網漁をする船かな。袋状になった網を海底に投げ込んで、その中に入った魚をあとで網ごと一気に引き上げるんだよ」


「ほほう……。じゃが、あんな小さな乗り物に何人も乗っておるのに沈まぬのか。船とは不思議なものじゃな」


 小舟は次第に沖の方へと進んでいき、やがて小さな点に見えるほど離れていった。

 水平線の彼方へと消えていく屈強な漁師たちの姿を見て、ふと自分の感性が揺れ動くのに気づいたジェードは、港の隅に腰かけて紙を広げた。


 どこまでも広がっているように見える海。

 その真ん中を突っ切って進んでいく一隻の小舟。

 その小舟の後ろで扇状に広がっていく青い波紋。

 港から見えるその光景を、心を突き動かされるようなその絶景を、ジェードは無心で紙の上に書き殴っていく。


 黄昏時までここで粘って、夕陽が沈む瞬間を待とう。

 マルタラッタの海が最も美しい瞬間を描くなら、これは絶対に譲れないだろう。


 海上を這う白い波の一つ一つ、空を飛び回る(かもめ)の一匹一匹に至るまで、ジェードの右手が精密に、繊細に、忠実に描き出していく。

 その隣に腰かけたアンバーは、一枚の紙に表現される彼の世界が出来上がる様子を嬉々とした表情で眺めていた。



 *****



 気がつくと西の空は赤く染まり、沈んだ夕陽の下半分が冷たい波に揺れて輝いていた。

 目当ての光景を描き出し、ジェードの素描(そびょう)もまもなく仕上げの段階だ。

 するとそのとき、ジェードの左肩に軽い頭がちょこんと載せられたのがわかった。


「出来はどうじゃ? 絵描き様よ」


「うん、悪くないよ。そろそろ退屈してきたかい?」


「うーむ。主様(ぬしさま)が絵を描いておるところを見るのは、格好良いから好きじゃぞ。じゃが、さすがにちょっとだけ、の」


「格好いいのかな……?」


 普段からアンバーは非常に利口で、ジェードの絵筆が乗っているときに邪魔になるようなことは一切しない。

 大抵は彼の絵が出来上がっていく様を黙って眺めているのだが、こうして構って欲しいと主張してくるのはとても珍しい。

 今回はさすがに放置しすぎたかもしれないと、ジェードも少しばかり反省したのだった。


「もう夕方だし、そろそろ終わりにしようか。ほとんど描き上がっているから、あと少しだけ待っていてくれ」


 ようやくジェードに構ってもらえると思ったのか、アンバーはふふと笑って立ち上がった。

 目の前に広がる紅色の海を眺め、ぐるりと一回転するように港全体を見渡す。

 そのとき、視線の先に見えた者たちの姿が気にかかり、アンバーはじっと目を凝らした。


「のう主様よ、あそこにおるのはレリーではないか?」


 アンバーに呼びかけられ、彼女が指差す先にジェードも視線を向けた。

 そこには初老くらいの男と何かを話しているレリーらしき少女が見えた。

 周囲の男たちはおそらく漁師だろう。

 彼らが何食わぬ顔で通り過ぎていく中、レリーは話している初老の男に何度も頭を下げていた。

 やがて話が済んだのか、レリーも男たちに混じって港から街へと足を向けた。


「どうやらちょうど仕事が終わったところみたいだね。声をかけて一緒に帰ろうか」


「そうじゃな」


 画材を片付け、ジェードとアンバーはレリーを追うように歩き出した。

 歩みの遅いレリーとは次第に距離が縮まり、そろそろ声が届くだろうかというところまで来た。

 ところが彼女の名前を呼ぼうとジェードが息を吸い込んだ瞬間、レリーは足をもたつかせてぐらりと傾き、すぐ横の建物に手をついてしまった。


「……ッ!? レリー!?」


 一瞬何が起きたのかわからず、ジェードは気がつくとレリーの元へ駆け出していた。

 慌ててアンバーも彼に続き、ジェードがレリーに追いついたときには彼女は膝をついて息を乱していた。


「レリー、どうしたんだい!?」


「ジェ……ドさん、ですか……? ど、して、ここに……?」


「その話は後にしよう。どこか具合でも悪いのかい?」


「平気、です……私、まだ、ぃき、ですから……」


 次第に言葉が弱々しくなっていくレリーは、ジェードの腕の中に倒れ込むように意識を失った。

 ジェードがいくら呼びかけても返事をしない。

 何が起きているのかわからず、ジェードもアンバーも慌てふためくことしかできずにいた。


「とりあえず、彼女の家に戻ろう。アン、僕の背中にレリーを乗せるから、手伝ってくれ!」


「う、うむ、わかった!」


 ぐったりと重たい少女の身体を背負ったジェードは、ひたすらレリーの名前を呼び続けながら急ぎ彼女の家まで走ったのだった。



 *****



『すっ、好きです……ッ!』


 ああ、また言ってしまった


 この言葉はきっと不幸の呪文か何かで、私はこれを口にするたびにどんどん独りぼっちになっていく


 ほら、今だってそう


 私が想いを告げた途端に相手の顔に浮かぶのは、まるで生ごみに湧いた(うじ)でも見るかのような嫌悪の表情


 どうして私は学習しないんだろう

 どうして私はこんなに諦めが悪いんだろう


 今度こそきっと大丈夫だって

 この人ならきっとわかってくれるって


 まるで根拠のない自信で思い上がって、何度も同じように傷ついていく


 本当はわかってる

 私がどんなに恋い焦がれても、相手にその想いが届くことはないことくらい


 本当はわかってる

 私がこの想いを口にしたところで、誰も幸せにはなれないことくらい


 わかっていても、やめられない

 わかっていても、一度溢れ出すとともう止められない


 嫌というほど思い知ったはずなのに、どうして私はこんなに惚れっぽい女として生まれてきてしまったんだろう


 もしもたった一度だけ、誰かを呪うことが許されるのなら、その相手はもう決まってる


 私がこんな生き方しかできなくなるまで追い込んだ両親じゃない

 私の純粋な想いを簡単に踏み躙ってきた、かつての愛しい人たちでもない




 こんな”間違った心”を持って産まれてきてしまった私自身を、きっと私は呪うんだと思う




 *****




 真っ暗な中で、妙に息苦しさを感じる。

 そんな違和感を取り去りたくて息を吸い込めば、肺が膨らんだ胸の上に暖かなものが載っていることがわかった。


 瞼を持ち上げると、ぼんやりとした橙色の何かが蠢いているのが見える。

 徐々に視界がはっきりしてくると、見えていた色はとある少女の美しい髪だったのだと気づくことができた。


「む、よかった、気がついたかの? 主様、レリーが起きたぞ!」


 おそらくジェードを呼びに行ったのだろう、アンバーはレリーを残して部屋をあとにした。

 上体を持ち上げると、そこは見慣れた自室のベッドの上だった。

 自分の身体にかけられていた薄い毛布を眺めて呆然としていると、やがてジェードがレリーの前に現れた。


「よかった、具合はどうだい?」


「あの、一体何が……?」


夕方(さっき)、漁港から帰る君を偶然見つけてね。声をかけようとしたらいきなり倒れたんだよ。覚えていないかい?」


「ああ、そう言われればぼんやりとそんな気が……」


 右手をこめかみに当てたレリーは、徐々にそのときのことを思い出し始めていた。

 昼の仕事を終えて家に帰ろうとしていたとき、またいつものように眩暈がしたのだ。

 ただ、今回はいつものそれよりもひどかったようで、今に至るまでの記憶がないあたりずっと意識を失っていたのだろうとわかる。


「すみませんでした、ジェードさん。私、また助けてもらったみたいで――」


 そう感謝を述べようとしたときだった。

 レリーはジェードの背後の窓を見て外が暗いことに気づくと、血の気のない顔をさらに青ざめた。


「いけない! 夜の仕事が!!」


「ちょっと、レリー!?」


 身体にかかっていた毛布を投げ捨てるように、レリーは慌ててベッドから飛び上がった。

 そのまま彼女は真っ直ぐに家を飛び出し、驚くジェードとアンバーを他所に暗くなった街を駆けた。


「待ってくれ、レリー!!」


 ジェードが必死に呼び止めるが、レリーは振り向きもしない。

 体力のない彼はすぐに遅れ始め、ふらふらの身体を引きずっているとは思えない速さで駆けていくレリーを完全に見失ってしまった。


 膝に手をついて息を整えるジェードに、ついてきたアンバーが追いついた。

 森育ちの彼女は少しも息が上がっておらず、まだまだ走れるといった風だ。


「レリーは仕事だと言っていたね……。職場に向かったなら、夕方に見たあの漁港にいるはずだ……!」


「うむ、わかった!」


 苦しそうな息を繰り返すジェードの意図を汲んだアンバーは、彼の代わりに漁港を目指してさらに走った。






 目的地に辿り着くと、アンバーはジェードが絵を描いていた場所からもう一度港全体を見渡してみた。

 すると夕方にレリーを見つけたのと同じ場所で、彼女がまたも初老の男に頭を下げている姿を見つけた。


 レリーが一体何を焦っていたのかは、アンバーにとってはまるで見当もつかない。

 しかし先程倒れたばかりの彼女をこのまま見過ごせるはずもない。

 アンバーは漁師の男たちが歩き回る漁港の方へと、その似つかわしくないほどの細い身体で一人足を踏み入れていったのだった。

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