進んだ者、立ち止まった者
第四章、最終話です。
「お爺様、お夕飯をお持ちしました」
「ああ、すまんな」
テレサの声を聞き、読んでいた本から目線を持ち上げる。
盆を受け取るとアドルフは老眼鏡を外して、食欲をそそる匂いと共に立ち昇る湯気をまじまじと見つめた。
今日は調子がいいから、テレサに食べさせてもらう必要はなさそうだ。
そう思ったアドルフは自分の手でスプーンを握ると、息を吹きかけて少し冷ましたシチューを口に運んだ。
「うん、美味いな。また腕を上げたんじゃないか?」
「いつも通りですよ」
ベッドの横の椅子に腰かけたテレサも、自分の分のシチューに手をつけ始めた。
かわいい孫と二人での食事ももう何度目だろう。
数えきれないほど経験してきたはずなのに、毎回こんなにも嬉しい気持ちになれるのは大袈裟なのかもしれない。
しかし、こんな当たり前のことを幸せだと感じさせてくれる孫娘には感謝してもしきれない。
だからこそ、彼女にも自分のような幸せな人生を送って欲しいと思っているのに――
「――そういえば、お爺様」
「お、おう、なんだ?」
どっぷりと考えごとに浸っていたアドルフは、急に名前を呼ばれて返事が一呼吸遅れてしまった。
しかしテレサはそんな様子に気づいていないのか、いつも通りの優しい笑顔を彼に向けていた。
「私が買い出しに行っている間、アンバーさんとはどのようなことをお話しされていたのですか? 随分楽しそうに見えたのですが」
「ああ、いつもお前に聞かせてるような話だ。まったくお前もあの娘も、俺みたいな爺の昔話のどこが面白いんだかな」
「お爺様ったら、またご謙遜を」
そう言ってふふふと笑うテレサの顔を見ていると、自然に胸が温かくなった。
この笑顔は間違いなく、俺といる時間に幸せを感じてくれている証拠だ。
やはりあの娘が言った通り、テレサにとっては俺と一緒に暮らすことが一番大切なのだろうか。
そう思うと、今まで自分が考えていたことはやはり馬鹿らしかったのかもしれないと感じられた。
自分がいないほうがテレサは幸せになれるという考えが間違っていることなど、この笑顔を見ればいつでも気づくことができたはずなのに。
ならば、野暮なことは尋ねるまい。
この子ももう幼子ではない。自分の生き方は自分で決めたいだろう。
老い先短い俺にできることは、せめて孫娘の決めた生き方を最期まで見届けてやることくらいだからな。
アドルフは、そっと胸の内で折り合いをつけた。
アンバーには「気持ちはすぐに伝えろ」などと最もらしいことを言ったが、きっとそうしないほうがいいこともある。
テレサにとって今の暮らしが一番幸せだというのなら、アンバーの言う通り、自らそれを壊しに行く必要などないのだ。
いつかテレサが俺以外の幸せを見つけるときまで、俺はもうしばらく、彼女の暖かさに甘えさせてもらうとしよう。
だが、いつかは必ず見つけて欲しい――例え俺がいなくなっても、その笑顔を絶やさずに生きていけるような、そんな新しい幸せを。
*****
窓の外から入ってきた冷たい空気には、湿った土と爽やかな朝日の匂いが混じっている。
昨晩はかなりの大雨で、屋根や窓を勢いよく叩く大きな雨粒がうるさくてなかなか寝付けなかった。
さらには椅子に座って寝ていたこともあって、今朝の寝覚めはあまり心地のいいものではない。
誰のせいでもないそんな不満を胸にもやもやと抱えたまま、耳をぴくりと動かしたアンバーは、未だに重たいままの瞼をゆっくりと持ち上げた。
視線の先にはベッド。
ここは昨晩もジェードが横たわっていた場所――のはずだ。
ところがそこに彼の姿はない。
寝ぼけ眼を擦りながら部屋を見渡すと、開け放たれた窓辺に立って朝の空気を吸い込んでいる青髪の青年の背中が見えた。
「おはよう、アンバー」
ああ、そうか。
元気になったのじゃな。
まだぼんやりとした意識の中で、それだけは確かに感じ取ることができた。
振り向いて優しく笑うその顔に、すっかり元の調子を取り戻したその声に、二本の脚で元気に立っているその身体に、今すぐ飛びついて喜びを伝えたくなる。
しかし彼はまだ病み上がりだ、と辛うじてその衝動を律し、アンバーはそっと歩み寄って彼の胸に抱き着くだけにとどめておいたのだった。
「……主様、よかった……」
「君のおかげだよ。本当にありがとう」
ジェードもそっとアンバーを抱き締め返し、頭を優しく撫でてくれた。
今まで甘えるのを我慢していた分、彼から感じられる体温がいつも以上に愛おしく思える。
この体温の心地よさこそ、自分が彼のために努力した結果なのだと思うとなおのこと愛おしく、このまましばらく離れたくないと思ってしまうアンバーなのだった。
そんな余韻に浸っていると、部屋の戸が二度叩かれる音が二人の耳に届いた。
「ジェードさん、アンバーさん、入ってもよろしいですか?」
「うむ、構わぬぞ」
「……えっ、いいの!?」
戸の向こうから聞こえたテレサの声。
アンバーはささっと耳や尻尾を隠すと、ジェードの身体にしがみついたまま返事をした。
そのあとに起こるであろう展開をジェードが察したころには時既に遅く、テレサは「失礼いたします」と部屋に足を踏み入れた。
「まあ、申し訳ございません。お邪魔でしたか?」
「いやその、違うんだ、これは……!」
「まったくもって平気じゃ。どうかしたかの、テレサ?」
「待ってアン!? 何が平気なのか僕には全然わからないんだけど!?」
なんなんだ、この状況は、とジェードは思った。
自分に抱き着いたまま離れないアンバーと、部屋の入口でそれを見てくすくす笑っているテレサ。
ジェードの性格からしたら気恥ずかしいなんてものではない。
「お二人のお召し物が乾きましたのでお知らせに参りましたが、お持ちするのはもう少しあとに致しましょう」
「うむ、すまぬのう」
「このまま話を進めるのかい!? アンは僕にくっついていなくてもいいだろう!?」
元気になった途端にこれだ。
何とか引き剥がそうとするも、アンバーは「よいではないかー!」としがみついたまま離れようとしない。
二人でばたばたと騒ぐ様子を眺めて笑っていたテレサが部屋を去っても、アンバーはまだしばらくジェードを解放してはくれなかったのだった。
*****
「何のお礼もできなくて、すまないね」
「お礼だなんて。アンバーさんが家のことをいろいろと手伝ってくださいましたし、それで十分ですよ」
元の服に着替え、出発の準備を整えたジェードとアンバーは、別れの挨拶をしに居間を訪れていた。
ジェードとちゃんと顔を合わせるのが初めてだったアドルフは、しばらくジェードを値踏みするように見つめて黙り込んでいた。
「こいつが、お前さんが尽くしたいと思う男か」
「そうじゃ。わしの自慢の主様じゃ」
アドルフの問いに、アンバーが胸を張って答える。
ジェードにとっては一体何の話だかさっぱり見えてこないが、この貫禄ある老人が自分のことを話しているのだと思うと自然に背筋が伸びた。
「……そうか」
アンバーの答えを聞くと、アドルフは目を閉じてそっと笑った。
「お前さんらなら大丈夫そうだな。達者でやれよ」
「もちろんじゃ! 主もテレサも元気での!」
こうしてジェードとアンバーは、一人の老人とその孫娘に見送られながら小さな山小屋をあとにしたのだった。
「……あの、お爺様」
ジェードとアンバーが去って行ったあと、テレサが恐る恐る口を開いた。
「ん? どうした」
「あの、実は、お話したいことが……」
アドルフに背を向けたまま、喉から声を絞り出す。
ここまで口にしてもなお、まだその先を躊躇ってしまう。
彼に隠していることを――実は自分に恋人がいることを伝えるべきか、否か。
自分にとって正しい選択がどちらなのかわからない。
出口の見えない暗闇の中を彷徨い歩くような不安と重圧に胸が押し潰されそうになりながら、テレサは――
「……あの、今日のお夕飯、何か召し上がりたいものはありませんか?」
「ははっ、まだ昼前なのにもう夕飯の話か? いつの間にそんな食いしん坊になったんだ、お前は」
「ですよね……あはは」
――つい、また伝えそびれてしまったのだった。
*****
昨晩降った雨で空気はひんやりしているが、雲一つない空から注ぐ日差しはとても暖かい。
テレサの話では次に雨が降るのは夜頃だろうということだったが、それまでにはリプロス山地を抜けることができるため問題ないだろう。
と、そんなことを考えていたときだった。
ジェードの左手の中に、心地よい手触りの何かが滑り込むように入ってきた。
それが何なのかはよく知っている。
最近ようやく握って歩くことが増えてきた、愛しい者の右手に間違いない。
「今日はずっとこのまま歩くことに決めたからの」
「やれやれ。今朝あれだけくっついていたのに、まだ足りないのかい?」
呆れた声を出しながらも、ジェードもそっと彼女の手を握り返す。
こうするとアンバーは頬をより一層緩ませてくれることを知っている。
自分のためにあれだけ努力してくれたのだ。
このくらいの小さな我儘は聞いてあげたいと、ジェードは肩と肩が触れるように彼女の手を引き寄せたのだった。
「そういえば主様よ、今回はこのまま去ってしまってよいのか?」
「ん? 何の話だい?」
「絵じゃよ。旅の途中で出会った者らには、いつも絵を描いて渡しておったではないか」
左隣を歩くアンバーは、不思議そうな顔でジェードを見上げていた。
ジェードは「ああ、そのことか」と呟くと、木々の隙間から見える快晴の空へ視線を移した。
「もちろん今回もそのつもりだったさ。あの二人は本当にいい人たちだったし、お世話になったお礼に二人の絵でも描こうと思って、今朝紙を広げたんだけど――」
ジェードは空から視線を下ろし、今度は自分の右手を見つめた。
なぜか稀有なものでも見るような彼の様子に、アンバーもどこか違和感を覚えた。
「――なんでかな。創作意欲がまったく湧いてこなかったんだ。あの二人の絵を描こうと思えば思うほど、頭が真っ白になるっていうか、何も思い浮かばなくなるっていうか……」
「ふむ、よくわからぬのう」
「うん。僕にもわからないや」
なんだか晴れない靄がかかったような妙な心境だが、あの二人の絵を描かなかったからといって何があるわけでもない。
せっかく元気になったジェードとは、こんなよくわからない話よりももっと楽しい話がしたいと思ったアンバーは、彼の手をぎゅっと握って笑顔を持ち上げた。
「のう主様。次の街はどんなところなのじゃ?」
「さて、どんなところだろうね。詳しくは知らないけど、大好きな君と一緒なら、僕はどんな街でも構わないさ」
「……む?」
一瞬の沈黙。
耳をぴくぴくと動かしながらジェードの顔を見上げるアンバーは何も言わない。
そしてジェードも何も言わない――というより、彼女の微妙な反応で今の発言を撤回したくて堪らなくなっていた。
「……ごめん、雑すぎたね。今のは忘れてくれ」
「大好きじゃと!? 今そう言ったのか主様!?」
「聞き返さないでくれ……」
「もう一回! もう一回言うてくれ、油断しておった!!」
「えええ……。ちょっと勘弁して……」
内気な自分を変えよう。これからは彼女にもっと素直に気持ちを伝えられるようになろう。
あの山小屋で決めたことを早速実践してみたが、どうにも勝手がわからなくて不格好になってしまった気がするジェード。
彼も少しずつ成長しようという努力を見せたものの、その完遂にはまだまだ時間がかかりそうである。
昨晩の雨でぬかるんだ道は、もはや二人の歩みの妨げにはならない。
互いの想いを再確認し、より絆を深めた翡翠と琥珀は、これから待つ長い旅路に向けて再び足を踏み出したのであった。
*****
――新たな朝。
思った通り昨夜は酷い豪雨となった。
送り出した二人の旅人たちは、無事山を下りられただろうか。
そんな心配もそこそこに、紺色の髪の少女は大きく息を吸い、昨日まで旅人が使っていた自室を後にした。
彼女の表情には一つの覚悟が浮かんでいる――それは一晩悩み抜いた末に出した結論を実践するためだ。
『好きじゃという気持ちは、言いたいと思ったときに言っておくべきなんだそうじゃ』
琥珀色の少女の言葉が、昨日から頭の中で渦を巻いて離れない。
それはきっと、自分の中でこの言葉が嘘ではないのかもしれないと信じているからだ。
ならばそれを実践してみよう、と思った。
決心するまでに少し時間がかかってしまったけれど、もしこれで彼女のようになれるなら、私も――
「おはようございます。お加減はいかがですか、お爺様」
そっと居間の戸を開けて、中へと入る。
まだ薄暗い部屋に朝日の光を入れようと、少女は窓辺へと足を向けた。
「あの、お爺様。これは私が友人から聞いたお話なのですが、聞いていただけますか? その友人曰く、好きだという気持ちは、そう思ったときにすぐ伝えるべきだそうなのです」
話しながらも心臓が激しく脈打つのがわかる。
自分がこのことを話せば、彼はどんな顔をするだろう。
もしも最も恐れている答えが返ってきてしまったらどうしよう。
そう思うと今からでもこの場を去りたくなってくる。
しかしそれでも彼女は震える手を握り締めながら一言一言を絞るように吐き出していく――
「私もそう思います。私はお爺様のことが大好きです。だからこそ、お爺様に今すぐ聞いていただきたいお話があるのですが……!」
――それが自分と、自分の愛する者たちの幸せに繋がると信じて。
少女が開け放った窓は、ひんやりと爽やかな山の風を迎え入れて居間へと広げていく。
そんな風と共に差し込んだ暖かな朝の日差しは、その先に横たわる一人の老人の穏やかな寝顔を白く照らし出したのだった。
第四章までお付き合いいただき、ありがとうございます!
今回はたった一日の出来事ですので、いつもより短く、内容も軽めだった気がします。
書きながら自分でも物足りない部分があったので、きっと読者の方もそう感じているところが少なからずあるのではないかと思われます。
ですがその分、次の第五章はしっかりと作り込みました!
次のお話から季節は冬に移り変わり、海辺の港町で出会った少女との関わり合いがキーとなってきます。
ヒロインのアンバー中心だった第四章。
比べて第五章はジェードとアンバーの二人とも大きく関わるお話となっていますが、どちらかと言えばアンバーの心の動きのほうに着目していただきたいお話です。
いつも読んでくださりありがとうございます。
これからも翡翠と琥珀をよろしくお願いします!




